第14話:宴の席・後編

14、


 晴明の視線の先には、二つの人影がある。立った状態でこちらを窺がっているのは、千早装束で声を掛けてきた人物・樹神と、酒宴の主催者である満仲であった。

 酒瓶を手にこちらに現れたその二人は、晴明たちの方を、やや訝しげな目で見つめている。彼らからすれば、何を慌てているのかという様子だったのだろう。

 その感情は、次の句の声に如実に表れていた。


「えっと……晩酌ばんしゃくでもしようと来たのですが――どうなさったのです?」

「え、えっと……」


 樹神の不審に、晴明は冷や汗を流す。

 別に悪いことをしていたわけではない。が、樹神に対し、どう今の状況を伝えるべきかの迷いがあった。自分の部下であり仲間でもある梨花を自分が泣かしたことを知って、樹神がどんな表情をするか、或いはどんな感情で自分を見て来るかといった懸念が、圧力となって晴明を襲っていた。

 考えを大至急巡らせる中で、樹神は首を傾げる。

 そんな中、であった。


「晴明殿がね、負けず嫌いの梨花をいじめて泣かせたんです」

「ちょ……待て!」


 いきなり口を開いての杏の説明に、晴明は心臓が飛び出るかと思った。いくらなんでも、その言い方は語弊ごへいがある。

 晴明は、杏の説明に眉根を寄せる樹神と満仲に対し、大慌てで事の次第を説明し始めた。梨花が銭を持ち去ろうとしたことで、呼び止めて自分が同じ術を見せたところ、そのまま術比べの争いになったことを、晴明は話す。

 その事の次第を聞き、樹神は表情を顰める一方、満仲が呆れ気味に、どうしようもないといった様子で失笑を浮かべた。


「なるほどなぁ。でもそりゃあ晴明。お前が悪いぞ」


 少し間の抜けた口調で、満仲が言う。そう言う彼は、少し酔っているのだろうか、頬が微かに紅潮していた。


「まだ幼いその子に、本物の道士がムキになるなどみっともない。銭の一枚ぐらい、愛嬌として渡してしまえばよかったのだ」

「いえ。晴明殿は悪くありませんよ」


 やや冷たい満仲だったが、その言葉に否定的な声を挟んだのは、樹神であった。

 彼女は少し気を張った顔で、晴明に直接は目を合わせないものの、目を伏せたまま詫びに入る。


「晴明殿。ウチの梨花がご迷惑をかけました。ほら梨花、晴明殿に早く銭を返して謝りなさい」

「……はい」


 涙ぐんだままでありながら、梨花は樹神の催促に応えるように、袖から銭を一枚取り出すと、それを晴明に差し出した。


「ごめんなさい……。申し訳ありませんでした」

「あ、いや……うん」


 急に低姿勢で謝ってくる梨花に、少なからず苦いものを感じながら、晴明は銭を取り戻す。

 そんな中で梨花はというと、樹神にそっと頭を撫でられていた。幼児をさとすように、その手つきは柔らかい。


「梨花。術比べして負けたからって泣いちゃ駄目よ。晴明殿が困っているし、周りの人にもご迷惑よ」

「でも……」

「悔しいのは分かるけれど、相手を困らせては駄目でしょう。元はと言えば――」

「こ、樹神殿。そのぐらいにしてあげてください」


 やんわりとながら、何やら説教でも始めようとする空気を察知し、晴明は口を挟んだ。流石に、こんな事で怒られる梨花を憐れに思ったのである。


「俺が大人げなかったのも事実です。こちらこそムキになってしまい申し訳ない」

「そうだな。当代一の道士の弟子の癖に、子供相手に本気になるお前が悪い」


 梨花を擁護する晴明に、満仲はそう言葉を発する。苦言であるが、何かその批難めいた彼の言葉に関しては、晴明は釈然としないものを感じる。

 それが顔に出るのをこらえる晴明の手前、樹神は小さく息をついてから、座る少女たちに目配りをする。


「……梨花、杏。悪いけど一度席に戻って頂戴。私も少し、晴明殿たちと語りたいことがあるから」

「はい、分かりました。梨花、行こう」

「……うん」


 樹神の願い出に、梨花と杏は口数少なく従う。立ち上がった二人は、梨花が目をこすり、それを杏が宥めるようにしながら、共にこの場を離れていった。

 それを見送ると、座る晴明の前に、立ったままであった樹神と満仲が、それぞれ腰を下ろした。

 そして樹神が、晴明に頭を下げる。


「では晴明殿。一座の子が迷惑をかけたお詫びに、一献晩酌させてください。どうぞ」

「えっ、あっ……はい」


 樹神の申し出に、晴明はどうするか迷うが、その一瞬の逡巡しゅんじゅんのうちに樹神は酒瓶を傾けてきた。是非も申す暇もなかった晴明は、なし崩しでさかずきを持ち上げて晩酌を受ける。

 ゆっくりと注がれる酒を見た後、晴明はなんとなしに樹神を見た。するとすぐ間近に、樹神の美貌が待ち受けていた。長い眉も、整った鼻筋も、染み一つない白磁の肌も、この時代の美女の形容ともいえる艶のある黒髪も、どれもが皆完璧で美しい。その美容は天女か女神か、花も恥じらい月もかげるほどで、人間離れした美しさという形容がまさにこの上になくあてはまる。


 息を呑み、思わず見惚れる晴明に樹神は気づかない。

 だが、斜め横に座る満仲は気づいていた。彼は、晴明の様子を見てニヤリと嗤う。


「どうした晴明、ぼーっとして。まさか酔ったのか?」

「い、いえ。そういうわけじゃ……」

「あぁ酔ったというのは、酒にではないぞ。目の前の美人に対して、ということだ」


 ニヤニヤし、髭を蓄えた口元を擦りながら、満仲がそうからかう。その言葉に、図星であった晴明は、思わず樹神から顔を背ける。その必死の否定とも呼べる反応に、満仲は声なく肩を揺らす一方、樹神は困惑したように微苦笑を浮かべた。


「どうしました、晴明殿。急に顔を背けて」

「いや……別に……なにも……」

「こらこら。素直になれよ晴明。目の前の美女に惚れたことを認めて、恋文でも用意するのだ」


 たじろぐ晴明であるが、そんな彼に、囁くような口調でありながら声を大にして満仲がからかってくる。あまり反論が出来ないだろう晴明の精神状態を見抜いた上での揶揄であった。

 それは、なおも続く。


「いっそのことそうだ、『今宵、通ってかどわかしたい』と言うんだ。貴女のすべてを知りたい、とな」

「……待て。いきなり何を言ってんだアンタは」


 暴走気味の満仲の揶揄に、晴明は思わず素で突っ込む。眼光に憤懣ふんまんの色をたたえた晴明は、満仲をキッと睨む。

 その反応に、しかし満仲は驚いたりたじろいだりすることなく、むしろ楽しげに肩を揺らした。やはり、少し酔っているのだろうか、先ほどから言葉が横暴でもある。

 その舌鋒は、やがて樹神にも向いた。


「どうだ、樹神殿。貴女は晴明のことどう思う? 一緒に寝られる許容範囲か?」


 それは、かなりきわどい、限りなく暴言に近い暴言であった。現代の言葉でいえば、間違いなくセクハラである。

 そんな言葉に晴明はぎょっとし、探る様な目で樹神を窺がう。いくらなんでも、この一言には樹神と言えど激昂するのではと、危惧の思いが晴明にはあった。

 だが、当の本人は意外にも冷静で、薄らと苦笑を浮かべていた。


「畏れ多いことです。晴明殿には、私よりもっとお似合いの方がいらっしゃると思いますよ」

「それは暗に、晴明とは寝られないということか?」

「いえいえ。ただ、勿体ないと言いたかっただけでございます」


 言って、樹神は酒瓶を斜めから縦に持ち上げる。

 そして、晴明に対してそっと手を差し出した。


「どうぞ晴明殿。温かいうちに」

「あ、はい。頂戴します」


 半ば茫然としながら、晴明は言われた通りに盃を口に運ぶ。そこから流れてきた濁り酒は、酒独特の深い味わいがあった。樹神が入れたからというわけではないが、それでも彼女の思いやりの心がこもっているかのように、晴明は感じた。

 同時に、晴明は感心する。満仲の下衆な発言を笑顔で躱すあたり、なかなか彼女は胆も太い。普通の女性ならば、今の発言には顔を朱に染めるか、ドン引いてたじろぐところだろう。

 美しいだけでなく気も強いところは、どこか貫禄も感じさせた。

 その一方で、満仲は平然としている。


「そうか。晴明、残念だったな。早速樹神殿にふられて」


 そのように言うと、満仲はぽんと晴明の肩に手をやる。その所作は、言葉通り本当に残念がっているようだ。それが、晴明には思わず癪に障る。


「別にそんな欲望を抱いてはいないので、関係ないことですが。大体、そんなことを言うのは失礼でしょう」

「は? お前、これだけの美女を前にして少しも欲情しないってか? それこそ失礼じゃないか?」


 真面目な晴明に、満仲も真顔で口を利いてくる。その反応は、酔っているのかそれとも素なのか分からないゆえに、何とも言えない。


「美しい女性を褒める、讃えるのは男として当然のことだろう。それともお前、そっち系の人間なのか?」

「違うわ! 大体何で今日はそっち方面の話にばかり行こうとする? しかも女性の前で!」

「晴明殿。お気遣いありがとうございます」


 思わず怒鳴る晴明に、樹神が恭しく頭を下げる。


「ですがご安心ください。私は満仲殿の様ないやらしい発言を受けることは慣れております。私の代わりにお怒りにならなくても大丈夫ですよ?」


 そう言って、樹神は晴明を宥めながら満仲に釘を刺すと言う、なかなか高度な反撃をやってのける。その静かな反攻に、晴明は呆気にとられ、満仲は愉しそうに肩を揺らした。


「はっはっは。なるほど。では僭越ながらお聞きしたいのですが、樹神殿はいくつ――」

「何を訊こうとしているんですか、兄上」


 不意に、満仲の声から第三者――この場でいえば四人目の声が発せられた。

 晴明と樹神が振り向くと、そこに立っていたのは、満仲の弟である満政であった。

 彼の声に、満仲は振り替えずに口を開く。


「おう、満政。ちょうど今、男と女の関係について語ろうと思っていたところだ」

「……そうですか。では私からは一言。いい加減にしろ馬鹿兄上」


 冷たい目で満仲の後ろ姿を睨んだ後、満政は晴明たちに頭を下げる。


「お二人方。兄がご迷惑をおかけしております。今すぐこの馬鹿な兄を引っ張っていくので、どうぞ心行くまでご歓談ください」


 そう告げると、満政は有無も言わせぬ迅速さで、満仲の首根っこを掴むや引き摺りだす。それに対し、満仲は何やら苦しげな声で唸り、そして反論の声を発するが、満政は耳を傾けることなく引き摺り続ける。

 満仲の姿は、あっという間に賑わう人々の向こうへと消えていった。

 その乱暴な退場劇に、晴明はしばし茫然とする。柔らかい物腰であったゆえに温和な人間かと思っていたが、あの弟、なかなか強力である。

 呆れというか驚きで、晴明はしばし固まったままだった。


「晴明殿。盃、ぎ直しますがよろしいですか?」


 硬直していた晴明は、眼前の樹神からの声に振り向く。小首を傾げながら、樹神は晴明の反応を待っていた。


「は、はい。お願いします」

「分かりました。では――」


 そう言うと、樹神は再び晴明の盃に酒を入れる。ゆっくりと酒を流し込む彼女に、晴明は再び視線を向ける。その姿は、何度見ても美しい。

 美しい、天女のような可憐で美麗な樹神に晩酌される中で、晴明も参加する宴は、夜を迎えるまで続いていくのだった。

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