第10話:報酬と揶揄

10、


 まだ肌寒さが残る、冷たき空の早暁そうぎょうの都である。

 その政庁たる大内裏の一角、陰陽道の役人たちの勤め先である陰陽寮おんみょうりょうに、晴明は出向いていた。

 夜も明けきっていない時間帯、寮内にはまだ誰もいない――かと思われた。

 だが、役所の中心である執務室に向かったところで、晴明は一人の人物を視界に映す。彼は、文机ふづくえの前に丁寧に腰を掛けながら、木札に何やら文字を記していた。重要な作業なのか、自然と眉間には力がこもっていて、初め彼は晴明の来訪に気づかない。

 しばし晴明が観察するように彼を見て待つと、やがてその気配を悟ったのか、彼はふと顔を上げる。

 晴明を認識し、その男・保憲はゆるりと微笑む。


「おや、おはよう晴明。何か用か?」

「おはようございます、保憲さん。宿直とのいだったんですか?」

「そうではない。朝、目覚めが早かったから早く出仕したまでだ」


 そうやりとりすると、保憲は席を立って、晴明に対して円座を差し出す。それをありがたがりながら、晴明は腰を下ろす。


「さて。何か出さんとな。飲みたいものはあるか?」

「いえ、お気遣いなく。それより、報告したいことが」


 手を掲げて保憲を制してから、晴明は早速用件とばかりに口火を切る。その言葉に、保憲は「ふむ」と顎を引きながら、元いた場所に腰を下ろす。ちょうど、文机を挟んで二人は対峙する形となった。


「なんだ?」

「先日頼まれた、鬼の調査の件です。昨晩、源満仲殿の協力もあって無事片付きました」


 言って、晴明は昨晩の事を、満仲との鬼退治の仔細を語り始める。彼とその屋敷前で合流した後、右京へ出向き、鬼を倒すまでの様子を、彼は余分な情報を含まず簡潔に伝えた。

 保憲がそれを静聴する中で、晴明は袖の中から一枚の木札を取り出す。薄ら瘴気しょうきを含んでいるのが、眼力の強い二人には見て取れる、呪符である。


「それで、これが鬼を封じた木札になります」

「そうか。ご苦労だったな」


 小さく頷き、木札を受け取りながら、保憲は晴明の労をねぎらう。札を受け取ったのは、無論それを陰陽寮で処理するためだ。鬼を封じた呪符は、その悪用を防ぐために公式の陰陽師が処分するのがならわしで、陰陽寮の重要な役目の一つでもあった。

 その木札にしばし目を細め、保憲はやがて晴明に視線を戻す。


「わざわざ済まなかった。こうも早く解決してくれるとは流石だ。こちらとしては大いに助かった。礼を言うぞ、晴明」

「お気になさらず。このぐらい、大したことないですよ」


 軽く笑いながら、晴明は首を振る。

 そしてふと、何か思い出した様子を装って、頬を掻く。


「まぁ、それと関連しての話になりますが」

「ん?」

「話にあった、報酬の件ですが」

「……慇懃いんぎんなふりしてそういうことには話が早いな、お前」


 思わず、小さく噴き出すように保憲は言う。少し困った、というより呆れた様子のその笑みは、決して晴明のがめつさを批難しているものではない。ただ彼の、強欲さというか素直さに笑みが誘われただけだ。

 決して嫌ったり渋ったりすることなく、保憲は訊ねる。


「すぐに欲しいのか?」

「まぁはい、出来れば。今月、すでにきつくて」

「前金は払ったはずだが?」

「それもありますが、もう少しだけ貯蓄しておきたいので……」

「正直だな、お前は」


 猶も可笑しそうに笑いながら、保憲は袖の中に手を突っ込む。すると、じゃらりと音を立てて、銭の束が姿を見せて文机の上に置かれた。


「重ね重ねご苦労だった。今回は助かった。受け取れ」

「……俺が言う事でない気がしますが、随分準備がいいですね、保憲さん」


 言って、晴明は目を細める。

 言葉どおり彼が言うことではないかもしれぬが、晴明の要求に対してすぐにその報酬が出てきたことに、少しながら不審があった。

 その晴明の問いに、保憲は肩を揺らす。


「はは。実は、朝早く来たのはそろそろお前から何かしらの報告があるかもしれないと思ってからでな。この銭も、そう思って持ち歩いてきた」

「完全に行動が読まれていますね、俺」


 保憲の種明かしに、晴明は失笑気味の苦笑を浮かべる。自分の行動の単純さを読まれていることへのちょっとした自嘲とともに、そこには予想が鋭い保憲への感嘆も含まれていた。

 やや視線を逸らして自嘲の笑みを浮かべてから、晴明は銭へ手を伸ばしてそれをありがたそうに受け取る。


「ありがとうございます。助かります」

「構わん。それはそうと、まだ役所への出仕には時間が早い。少し休んで行け。鬼を封じたのが昨晩ということは、結構疲れているのだろう?」

「あ、お気遣いなく。ありがたいですが、早々に退出させていただきます」


 頭を下げながら銭束を懐に仕舞う晴明に保憲が提案したところ、晴明は素早く言って立ち上がる。用件は済んだのですぐに立ち去らせてもらいたい、と言う意思表示だ。

 一見やや冷たい、あるいは薄情なように見える反応だが、これには理由がある。

 晴明は下級のしがない雑人ぞうにんである。そんな彼が、長々と陰陽寮の執務室に長居し、おまけにその長たる保憲から丁寧な接待を受けているところを見られては、晴明だけでなく保憲にも決まりが悪い。おまけに談笑している姿など見られた日には、保憲に対する悪評が立ちかねない。


 大舎人、雑用係とはそれだけ身分が低いのだ。卑しいといってもよい。そんな人間と一貴族が仲良く「親友の如く」対しているのは、当時の倫理としては信じがたい・考えにくいことであったのである。

 それだけ、保憲を見る周囲の目や風聞ふうぶんが悪くなるのを晴明は気にしている。保憲当人はあまり気に掛けないのだろうが、晴明にしてみれば、自分のせいで彼に迷惑がかかるのはごめんだった。

 早々に立ち去るという反応に、保憲はそれを止めたりはしない。しかし、少なからず寂しげな色を、彼は顔に浮かべた。

 もっとも、それはすぐに消える。自分がそう言う顔をし続けては、晴明も心を痛めると慮ってのもので、彼はすぐに兄のような優しい微笑みを浮かべる。


「そうか。疲れてはいないのだな?」

「はい。お気遣いありがとうございます。少しだけ眠いですが、仕事するには差し支えはないので平気です。それでは、失礼いたしますね」


 そう言うと、晴明はすぐにこの場を去るように踵を返す。そしてそのまま、数歩進む。


「あぁ……あ、ちょっと待て晴明」


 去りかけた晴明であるが、その背に保憲が待ったをかける。

 それに晴明は素直に応じ、振り返る。


「どうしました?」

「危うく忘れるところだった。もう一つだけ、最後にお願いを聞いてくれるか?」

「なんでしょう?」

「今回の件、協力いただいた満仲殿にも礼がしたい。今度また伺わせていただく旨を、出来ればお前の口から当人に告げてくれないか?」


 少し雑用っぽくて申し訳ないが、と言いながら保憲は依頼する。それを聞いて、晴明は顎を引く。


「構いません。今日の仕事終わりにでも行けますよ」

「そうか、ありがとう。それと、ついでに……」


 晴明が嫌がらないのを見ると、保憲は更に何やら頼もうとしているのか、何やら言葉を重ねようとしながら袖に手を入れる。そこから何かを取りだそうとする彼に、晴明は内心、よく物が詰まっている袖だなと思う。まるで奈落ならく深淵しんえん……いやなんでもない、と晴明は自分の思考を振りきる。

 しばし間を挟み、保憲が取りだしたのは銭の束だった。ちょうど、晴明が受け取ったのと同じくらいの量だ。


「彼にも、報酬としてこれを渡しておいてくれないか? 流石に、無償で協力を頂いたままでは決まりが悪い」

「あぁ、なるほど。分かりました。御受けします」


 納得した様子で、晴明は保憲からそれを受け取る。満仲宛て、他人宛てというものからか、妙に重い気がする銭の重みを感じながら、晴明はそれを懐にしまった。

 ――どうやら、自分はまたあの豪快な人物に会いに行くことになったようだということに、晴明は特段悪い気はしない。彼の闊達かったつとした様は別に気分を悪くするものではないし、むしろ一緒にいて楽しいと思う類のものだ。また会えて嬉しい、と言う程の好意ではないが、不快感よりも気楽さが勝っている状態だった。

 そんなことを一瞬のうちに思考する晴明だったが、そんな彼を、保憲はふと笑みを消して見つめる。


「頼んだぞ。それはそうと……」

「はい? なんでしょうか?」


 不意に真顔になった保憲に、晴明は少し訝しがる。


「間違っても横領するなよ? いくら生活が切迫しているといえな」


 真剣な眼差しで言う保憲……だったが、それは少し演技がかったものだ。何故分かるかといわれれば単純で、目は真剣ながらもその口元がこらえきれないように笑っているからだ。あまりないことだが、保憲なりに晴明をからかっているのである。

 その揶揄に、晴明はややむっとした。


「お言葉ですが、そこまで卑劣な性格ではありませんよ、俺は」

「……そうだな。信じているぞ、晴明」

「そこはもっと普通に信用してください」


 肩にそっと手を当てて言ってくる保憲に、晴明は頬を強張らせる。

 その反応が可笑しかったのだろう、保憲は耐えきれずに噴き出して笑いだす。彼なりのその揶揄に、晴明は反応に困った様子で、ややげんなりとするのであった。

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