第9話:鬼の小屋

9、


「なるほど。ところでここには、嬢ちゃん一人で住んでいるのかい?」

「はい。そうですが……」

「そうかい……邪魔したな」


 少女の目の前、かなり近づいたところで、満仲はそう言うと急に踵を返した。繰り返すが、満仲は少女のすぐ目の前で近づいている中、無防備にも背中を見せる。


「――だそうだ、晴明。ここにはこの娘が一人で――」

「満仲殿!」


 晴明が叫んだのは、満仲が言葉を返す最中だった。

 言葉を遮るように声を張り上げた晴明の目の前では、無防備な満仲の背へと少女が動く。

 その腕が、突如として膨れ上がる。

 細木のようにか細かった少女の腕が突如巨木の幹のように巨大化し、それが横に掲げられたのだ。

 膨張した巨大な腕は、背を向けたままの満仲へと振りかぶられる。

 その危険を見て、晴明は術符を服の内側から抜いて掴み取る。急ぎ彼は、それを投擲する姿勢に入るが、如何せん相手の動きが急だった。

 投げようにも到底間に合わない――晴明の脳裏には、少女の腕になぎ倒される満仲の姿が鮮明に想像される。


 その瞬間、であった。


 突如、満仲の姿が霞む。

 少女が振り上げた腕に吹き飛ばされたのではなく、能動的に身体がくるりと旋回した。

 直後、巨大な大木は、跳ね飛んだ。

 横に振りかぶられていたそれは、軌道を変えて縦に弾け飛び、小屋の天井に激突して床へ落下する。

 荒々しく、また重く叩きつけられたそれに、少女は硬直する。少女が視線を落とすと、彼女が振りかぶって横に払おうとしていたはずの腕が、肘から先よりが消失していた。

 その先端は鮮やかな赤い断面を露わにし、そこからは噴き出すように赤い血潮が噴き出している。

 その光景に、少女の顔が歪んだ。


「っ、ぎゃああああああああ!」

「うるせぇな、餓鬼畜生がきちくしょう


 思わず叫び声を上げる少女に、冷ややかな言葉を返したのは満仲だった。

 彼のその手には抜き身の太刀が握られている。一体いつ抜いたのか、分からない。ただ、その太刀の刃には血糊が付着しており、また目の前に少女の腕が斬れて転がっていることから、何が起きたかは想像がつく。

 今しがた少女の巨木の腕を斬り飛ばしたのは満仲によるものであり、彼は少女へ振り向きざまに抜刀し、見えざる速度の斬撃で切断をなしたということだ。

 その事実に瞠目する晴明を尻目に、満仲は緩やかな笑みを浮かべたまま、目を細める。その顔からは、先ほどまであった愛嬌は消え、別人のような冷たい眼光が湛えられていた。


「大根役者の癖に俺を欺けると思ったのか? 残念、演技はばればれだ」


 太刀の柄に手を添えつつ、満仲は後ろへ退いた少女へと近づいていく。

 その動きを見て、少女は満仲を睨み上げるや無事な左腕を持ち上げる。するとその瞬間、今度は左腕が大きく膨張、斬り飛ばされた右腕同様に巨大化する。黒く変質しながら肥大化した左腕に晴明は身を固くするが、満仲は特に緊張しない。

 次の瞬間、その腕が満仲めがけて振り下ろされる。巨木の如き腕は、満仲を吹き飛ばそうと振り払われた。

 が、その腕は満仲に到達することなくまたも吹き飛ばされる。振るわれる腕を前に一歩踏み込んだ満仲が放った太刀の袈裟斬りによって、腕はズバンと切断されたのだ。刃を受けた腕は斬り飛ばされて軌道をずらし、血潮を撒き散らしながら回転し、満仲の横手の床を転がった。

 振り下ろした左腕も切られ、両腕を斬り飛ばされた少女は愕然とする。都合両腕を斬られた少女は、目を点にして満仲を見る。その目に浮かんだのは、驚愕と恐怖であった。


「さて……鬼の嫌疑は確定なわけだが、何か言い残すことはあるか?」


 斬り飛ばした腕のものがついたのか、返り血で顔を濡らしつつ、満仲は少女に対して冷淡な声で訊ねる。

 笑っていない目で凝然と見据えられ、少女は表情を強張らせながら後ずさった。腰を下ろし、尻餅をつきながら後ずさった少女だが、やがて彼女は背後の壁に当たって後退を遮られる。

 行き止まりとなった少女に対して、満仲は土足でするすると近づくと、その最中に刃を払って血糊を振り落としながら目を細めた。


「まぁ、あっても聞かないがな」


 冷たく告げると、満仲は踏み込む。そして、あっという間に少女の間合いに入り、袈裟切りを少女の身に叩きつける。華奢な少女の身体へ奔った斬撃は、鋭く深々とその身を切り裂き、少女を斜めに分断した。

 致命的ともいえる重い刃を受けた少女は、苦痛と苦悶で顔を歪め、目を見開きながら顔を俯かせる。その口腔から血が噴き出すと共に、彼女はその目を爛と輝かせた。そしてその顔を、斬撃の残心の姿勢を取る満仲へ向けた。

 痛みによる苦しみで顔を歪めていた少女だが、彼女はその口を大きく開いた。

 血を溢しながら大きく開かれた口腔に、満仲は眉根を寄せながら本能的に後退する。

 直後、少女の可憐な顔が巨大に変化した。突然肌が黒く硬質化するとともに膨張し、成人男性の上半身ほどまで巨大化すると、その歯を牙に変え、こめかみのあたりからは角を生やす。

 その相貌は、まさに鬼のものだった。可憐な少女の顔はその面影を消し、おどろおどろしい鬼の顔へと完全に変質する。


 鬼は、可憐とは程遠い咆哮を上げながら、満仲へ噛みつこうとする。身を切り裂かれた怨念を晴らそうとしたのだろう、鬼の巨大な顔は満仲に迫る。

 それに対し、満仲は太刀を持ち上げて斬撃で応じようとした。

 だがその時、彼の横手を数枚の札が飛来する。薄い紙の札は、満仲の横をひた走ると、その直後突如閃光を煌めかせて鬼に向けて疾駆した。閃光は鬼の額へと疾駆し、その額中に突き刺さる。直後、札は光から炎に転じ、鬼の顔面に燃え広がる。本物の炎ではない。青白い炎は霊的な物で、不自然な速度で鬼の全身に広がった。それを受けて鬼はすぐさま苦悶を始め、斬られた腕で顔を覆うようにしてその場を右往左往する。

 その無駄な所作、隙を見て満仲が鬼へと再度踏み込む。彼は持ち上げた刀を横に寝かすと、上体を捻るようにして横薙ぎを放つ。見えざる鋭い斬撃は、悶える鬼の首元を貫いた。炎で包まれた鬼の頭は、その斬撃によって刎ね飛ばされ、天井にぶつかった後に床へ叩きつけられる。


 ごろりと落ちた頭部は目を見開きながら転がり、一方で頭部を失った鬼の体躯は全身を痙攣させた後でその場に崩れ落ちた。少女の華奢な体躯は、そこから膨れ上がるようにして巨大化しつつ、傷口から血を溢して、横向きに倒れ込んだ。その身は炎に包まれていたが、炎はしばらくして一瞬のうちに不自然に消滅し、鬼の巨大な体躯のみをその場に残した。

 炎が消え、倒れ込んだ鬼の死骸を見て、家の入口付近で腕を前に伸ばしていた晴明はほっと息をつく。札を投擲した時の体勢を保っていた彼は、炎が消えたことで鬼の絶命を確信する。札が発した火は、相手の鬼気に反応して着火する類のもので、それが消えたということは、無事に鬼が息絶えたことを意味していた。


 それを確信すると、晴明は満仲に目を向ける。彼が目を向けた先では、満仲は太刀に付いた血を振り落としながら、刎ねた鬼の頭を見ていた。大きく見開かれ、濁り始める鬼の目を確認した彼は、それに対して鼻を鳴らす。絶命したそいつに対し、彼は嘲りというより呆れと微かな疲れの色を滲ませていた。

 しばらくして、彼は視線を鬼から背後の晴明に向ける。

 目が合うと、彼はにっこりと破顔した。


「終わったな」

「……はい。思いのほか、あっさりと」


 頷いてから晴明が視線を持ち上げると、満仲は太刀を鞘に収めつつ、今一度鬼へ視線を向ける。

 その横顔を見ながら、晴明は満仲へ歩み寄る。寄りながら、彼は目を細めた。


「……一体、いつから気づいていたんです?」

「ん? 娘が鬼だったことか?」


 満仲が訝しがるように問うと、晴明は頷く。


「えぇ。途中まで、全く気付いていないように見えたのですが……」

「残念。最初から気づいていたさ」


 軽く肩を竦ませつつ、満仲は小さく笑う。


「まだ幼い年頃の娘が、こんな屋敷に一人で住んでいるなんてまずありえない。お前さんの式神がここに止まったことから見ても、その正体は鬼であると言うのは容易に想像がつく」


 言いながら、満仲も晴明の方に歩いてくる。


「気づかないふりをしていただけだ。この鬼は、まんまと俺の演技に騙されたわけだ」


 その言葉を信じるならば、満仲が鬼の前で隙を見せるように背を向けたのもわざとであったらしい。おそらくは隙を見せることで攻撃を誘い込み、鬼かどうかの嫌疑を確定させようとしたのだろう。

 なかなかに胆力が必要なその心理戦を実行したことに、晴明は思わず感嘆の念を覚える。あそこまで見事に鬼や自分を欺くとは、大した度胸と演技力だ。


 ただ、それ以上に晴明を驚かせたのは満仲の剣技である。彼は相手が攻撃を仕掛けてきた後だったにもかかわらず、あっという間に鬼へ反撃してその身に致命傷を負わせてみせた。腕には自信があるようだったが、ここまで見事な物だとは思っていなかった晴明は、その自負に納得すると同時に感心した。

 そんな晴明に歩み寄ると、満仲は彼の肩をポンと叩く。


「さて、片は付いた。これからどうする? この鬼をこのままにしておくわけにはいかないだろう?」

「……はい。今から死骸を封じます。少し、時間をください」


 そう言うと、晴明は鬼の死骸へと近づいてく。

 切り殺した鬼は、そのままにしていくわけにはいかない。放っておけば、鬼というのはその怨念をその場に残し、近づく者に悪影響を与えることや、その妖気から更なる化生を生み出すことも少なくない。

 そのため、斃した鬼の後始末をつけるのも道士の役割だった。

 鬼の死骸へ近づいた晴明は、鬼を封じるための木札を取り出しながら、鬼の切り口を見る。快刀乱麻な見事な切り口に、晴明は改めて感服した。


「御強い、のですね?」

「ん、まぁな。これでも、武人の端くれだからな」


 やや謙遜気味に答える満仲に、晴明は平坦な笑いを浮かべる。これだけの強さを見せておいて控えめに振舞われても、ちょっとした嫌味や皮肉にしか思えない。

 そんな風に感じる晴明に、満仲は少し不思議そうな顔をするが、特にその事へ追及することはしなかった。


「それはともかく、こいつが件の行方不明事件の原因となっていた鬼と見ていいんだな?」


 満仲が訊ねると、晴明は小さく顎を引く。


「おそらくは。京の中で、鬼はそうやすやすと出るものではないので……」

「そうか。なら、後は無事退治したことを保憲殿に報告しておくだけだな」


 満仲の言葉に、晴明は頷く。無事仕事を終えたことは、後で保憲に報告する必要がある。

 鬼の死骸を処理するだけでなく、その伝達も晴明が負うべき責務であった。

 そんなことに会話を交わしながら、晴明は鬼に対する鎮魂の術を開始する。


「思ったより早く終わったな。少し物足りなさを感じるほどだ」


 軽い口調で、背筋を伸ばす満仲に対し、晴明は微苦笑を浮かべた。


「俺としては、早く終わるのに越したことはないですけどね」

「だろうな。俺と違って、お前さんは喧嘩馬鹿じゃなさそうだし」


 少しだけからかうように満仲が言うと、晴明は喉を鳴らして笑いつつ、鎮魂の術を続ける。

 ともかく、これで鬼の調査と討伐の任務は終わりだ。

 予想以上に早く片が付いたことに、晴明は安堵する。当初はもう少し長丁場になるかと思ったが、幸いあっという間に仕事は片付いた。

 そのことに胸を撫で下ろしつつ、晴明は鬼を封じる作業を続ける。

 木札を用いてそれを行なう晴明に、満仲は少しだけ興味を覗かせた様子でじっとそれを見つめるのだった。


   *


「この度のご協力、ありがとうございました」


 鬼を木札に封じ終え、小屋から出たところで晴明は改めて礼を口にする。その言葉に、先んじて小屋を出ていた満仲は快活に笑う。


「いいって、そういう社交辞令は。少し、振り回してしまってすまなかったな」

「……それこそ、社交辞令では?」


 満仲の言葉に晴明が言うと、満仲は少し意外そうに目を瞬かせる。


「ほう。お前さんもそういう揶揄を口にすることがあるのだな」

 おそらく、晴明はもっと真面目一徹な人間だとおもっていたのだろう、満仲は驚いた様子だった。

 その反応に、晴明は小さく笑う。


「貴方に合わせて見ただけですよ。あ、別に今の言葉に他意はないです」

「そうか。確かに俺とまともに付き合うには、真面目一辺倒では無理だろうな」


 からかうような晴明の言葉だったが、満仲は不満に思うことなく、あっけらかんと応じた。この程度の皮肉に動じないところからも、彼の懐の深さを感じさせる。


「では帰ろうか。あ、そうだ。よかったら一杯どうだ?」

「……生憎、鬼を封じた直後に酒を飲めるほどの図太さは、俺にはまだありませんよ」


 満仲からの誘いを丁寧に固辞すると、晴明は帰路に入る。満仲も、それを見て彼に並ぶように歩き始める。


「それは残念。では、俺は弟とでも飲むことにするさ」

「この時間ですけど、起きているんですか?」


 すでに周囲は暗く、自然の明かりは月光と星々のものしかない中である。電源がないこの時代、人は暗くなったらそそくさと床に入ることが多い。この季節の時間的にはすでに彼の弟やらも寝ているのでは、という疑問が浮かぶ。


「寝ているかもな。だが、叩き起こす」

「本気で? ひどくないですか?」

「ははっ。冗談だよ冗談。寝ていたら一人で飲むさ」


 素直な晴明の言葉に、満仲は豪快に笑う。その横顔は、先ほど鬼に見せた物とは明らかに異質の、人を魅了し心安んじさせる、不思議な顔であった。

 そんな横顔を見ながら、晴明も帰途につく。

 二人の雑談・歓談は、自宅の帰り道の分岐路である、朱雀大路に至るまで続くのだった。

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