第8話:晴明の遍歴
8、
「……自分も、なれるものなら陰陽寮の役人として働きたかったですよ」
ぼそりと、晴明はやがて聞こえるか聞こえないといった声量で口を開いた。
「望みは、保憲さんと共に陰陽寮の役人として働き、そこで存分に自分の力を振るうというものでした。それを期待されていたし、自分もそれに応えたかったです」
「期待されていたとは、誰に?」
言葉の間を縫って満仲が問うと、晴明は前を向いたまま、言葉を少し詰まらせる。
「……師の、
重く、言葉を口にすると、晴明は無意識のうちに拳を握った。
賀茂忠行――彼については満仲も知っている。陰陽寮の重鎮である稀代の陰陽師の一人であり、現在重役にある保憲の実の父親でもある人物だ。
その人物の名、そして晴明と彼との関係性の一端を聞き、満仲は納得する。
「なるほど。忠行殿の弟子なのか、晴明は。どおりで陰陽の術に通じている訳だ」
満仲が知る限り、忠行は現在多くいる陰陽師たちの中で、もっともその道に通じている第一人者である。その人物の弟子であると言う晴明の言葉に、満仲は種々の疑問を一気に理解する。
「じゃあ、陰陽道の技は、あの人から教わったわけか」
「えぇ。師匠にはそれこそ杯に水を注ぐが如く、こちらが恐縮するほど手厚く、ご指導を頂きました」
満仲の問いに晴明は頷く。
首肯したが、何故かその顔には少し悔しそうな色が浮かんでいた。それを見て、満仲は新たな疑問を覚えるが、それを彼が口にするより前に晴明は続けた。
「幼少の頃、俺の家は父が自力で俺を養育するのも困難なほどに貧窮していました。そこで父は、親交のあった賀茂家へ俺を奉公の名目で預けたのです。そこで俺は、師匠から陰陽道に関する才能があると見出してもらって、陰陽道の技術を教わりました。師匠からは実の子供同然に、保憲さんからは弟同然に、手厚く指導を受けました」
目を伏せたまま、晴明は平坦な口振りを装って語る。
重いその口ぶりで話す晴明の言葉を聞きながら、満仲はやがて晴明が言葉の中に込める痛悔の理由を敏く悟った。それはきっと、彼らへの恩情の深さゆえの、それに応えられなかったということに対する自身への悔恨によるものだ。
己の不甲斐なさを自責しつつ語っている晴明の心境を悟り、満仲はその顔から柔らかさを引く。その微妙な表情な変化に気づかぬまま、晴明は息をついてから述懐する。
「おかげで俺は、陰陽寮に入る前の時点で、陰陽道のおおよその教育は受け終えました。そして成人していざ出仕となった時、当然陰陽寮へ務めることになれると思っていました」
「……ところが、といったところか?」
晴明の口振りと話の流れから、結末をおおよそ予想して満仲が口を挟む。
晴明は頷く。
「えぇ。いざ務めようとした時に宮廷から出されたのは、陰陽寮への出仕を認めないというものでした。理由は、俺の家が現在は落ちぶれた下級貴族の家だから、というものでした。師匠はその決定に異を唱えて俺が陰陽寮に入れるように奔走してくれましたが、決定が覆されることはなかったです。そのため俺は、仕方なく今の大舎人の役についたわけです」
「そうか……。陰陽寮の人間でもないのに陰陽道に通じているのも、それだけの腕がありながらも大舎人になっているのもそれゆえ、か」
語られた現在の立場に繋がる過去の遍歴に、満仲は渋い顔を浮かべる。
それは、一言で感想を述べるとすれば難しい問題であった。家格によって人生のすべてが決定してしまうようなこの時代、貧窮な家に生まれた人間が、それだけで思い通り生きるのは難しいものだ。
「それだけの才能を持ちながら、下級の官職に就かざるを得ないのは理不尽と言えば理不尽だな」
「……自分の才能が優れた物だとは思っていませんが、確かに不条理で悔しいですね。あれだけ期待されて育てて貰ったというのに、恩返しも出来ずにこのような官職に甘んじているのは」
天を見上げながら、晴明は嘆息する。それには、今の世を恨むと言うより、依然として師たちの期待に応えられなかった自分に対する鬱屈が込められていた。
「いっそのこと、官職を捨てて野に下り、在野の道士として活動するというのも手ですが……それだと、師匠たちへの恩に報いたとは思えないんですよね。それに、そんな大胆な勇気もありませんし」
「そうだな。一度官職を捨てれば、もう一度仕え直すことは難しいしな」
「えぇ。限りなく可能性は薄いですが、まだ望みがある以上は、宮仕えをやめるわけにはいきませんし」
薄く自嘲しながら、晴明は目を細める。
ここでは語らないが、陰陽寮に入ることが出来なかった晴明に関しては、未だに忠行や保憲たちは、彼が陰陽寮に入ることに何らかの手立てがないかを模索しているようだ。何か特例として晴明を陰陽寮の許へ招き入れる方策はないか、それを考えて日々職責をこなしているようであった。
彼らがそうやって諦めていない段階で、当の本人がその可能性を捨てるわけにはいかないだろう。ゆえに晴明は、今も困窮な生活の中で大舎人としての雑務を行なっているのだ。
そんな耐え忍ぶ日々が辛くないわけはない。だが、決して退屈というわけでもなかった。
「こうやって、たまに頼りにされる時もありますし、今の生活を捨てるわけにもいけませんしね」
「そうだな。保憲殿からすれば、自分たちが動けない時に動いて貰えるありがたい存在ではあるだろうしな」
今の立場について、その中でも有用な立ち位置にいることについて、満仲も頷く。
その言葉に、晴明はその通りだと感じてか、僅かに頬を緩めた。
公式な陰陽師ではなく大舎人である晴明であるが、そんな自分の立場を上手く利用して、忠行・保憲たちは自分に何かと仕事を回してくれる。彼らが自分に使い道というものを見出してくれて働かせてくれる以上、安易に今の生活を捨てて野に下るという選択肢は取れない。そんなことをすれば、彼らがかけてくれる配慮にも背くことになるからだ。
また、現実的な問題として、野に下ればきっと生活は今以上に困窮したものに変わるだろう。安定した収入は得られず、不安定な生活基盤の中で活動しなければいけないことは苦しいものであり、自分の場合は途中で挫折して、下手すればそのまま餓死してしまう可能性も充分にあった。
そんなことに思いを馳せる晴明に対し、満仲が空を見上げて目を細める。
「難しいなぁ。家の問題は、俺たちではどうにもすることは出来ない。上級の貴族どもが、心変わりするのを待つしかないだろうな」
「そうですね。そんな日が来るかどうか、望みは薄いですが」
腕を組みながら愚痴る満仲に、晴明は固い笑みを返す。肯定しつつも、心の裡ではそんな日が来るとは露ほども思っていない。貴族たちが自分の事情を鑑みて態度を変えるなど、まずありえないと、冷静な思考は現実的に考えていた。
そんな風に思っている中で、晴明は顔を上げる。ちょうどその時、彼は空から気配を感じ取っていた。
やがて夜空から、一羽の小鳥が戻ってくる。それを、晴明は腕に止めた。
「運がいいのか、それとも悪いのか……」
「ん、どうした?」
腕に式神を止めた晴明に、満仲が振り向く。それに対し、晴明は顔を上げる。
「些か早いとは思いますが、どうやらそれらしきものが見つかったようです」
具体的に何が、とは言わないが、それだけで満仲には晴明の語るものの正体が伝わったようだ。
彼は目を細めた後、にっこりと頬を緩めて笑みを浮かべる。
「そうか。じゃあ、早速行くとしようか」
「えぇ。ですがくれぐれも慎重にお願いします」
念のため、晴明は注意を促すと、それに対して満仲は笑みを浮かたまま顎を引いた。
*
二人が足を運んだのは、右京の中でも南北の狭間、やや東寄りの一帯である。
そこまで小鳥の案内に従って進んだところで、空を飛んでいた小鳥はぐるぐると宙空を旋回し始めた。式神のそれは、ここの近くにそれがいるということを示すようにそう飛び回ると、やがて目印になるかのように、一つの家屋の上に止まる。
それを見ると、晴明は目を細める。
「……どうやら、あそこのようですね」
緊張の面持ちで、晴明は懐に手をやる。そこに潜めてある
「そうか。人の気配はまるでないがな」
身を固くする晴明に対して、満仲は泰然とした様子であった。彼は晴明の横を歩きながらではあるが、腕を組んだままほどよく肩の力を抜いている。
そんな彼へ振り向かずに、晴明は言う。
「隠れているのでしょう。おそらく、この近くを通る人の気配を探りながら潜んで――」
「なら、こっちから出向いてやろう。逃げる間も与えずに、な」
そう言って、満仲は晴明の前に出ると、垣根の間から式神が止まっている小屋の敷地へ、ひょいっと足を踏み入れていった。おそらくは鬼が潜んでいるだろう、その屋敷の中へ身軽に足を踏み入れた彼に、晴明は反応が遅れ、慌てる。
「ちょっと、いきなり近づくのは危ないですって!」
「平気平気。見ていろって」
警句を発する晴明に対し、満仲は危機感も緊張感もなく、小屋の入口に向けて近づいていった。その足取りに、晴明は焦りながら続いていく。術符を掴み直しながら、彼は大胆とも考えなしとも取れる満仲の動きを制しようと後を追う。
晴明が慌てて術符を備える中、満仲は小屋の入口に到達し、そして間髪入れずに入口の戸を横に開いた。
「邪魔するぞ」
ガラガラと音を立てて戸を開いた満仲は、そう言って小屋の中へと入っていく。その大胆不敵、あるいは思考停止した考えなしとしか思えない行動に、晴明はまたもぎょっとする。慌てて、満仲の背に続いていく。
「おい待て満仲殿。無防備が過ぎる!」
「大丈夫大丈夫。あと、満仲でいいってさっきも言っただろう?」
叱責するような様子で声を掛けた晴明に、満仲は何を根拠にか平然と笑い返した後、入り口から中を見た。
小屋の中は、部屋の仕切りがない一般的な民家であった。入口の少し向こうには
暗いその民家の中に踏み込み、内部を見回す満仲と晴明であったが、そんな彼らの視線上、囲炉裏の向こう側にふと影が入ってくる。
竈の前に現れた影は、小柄なものだ。
よく見ると、それはどうやらうら若い少女のようだった。その姿を見つけて、満仲は眉を持ち上げる。
「おい晴明。人がいるぞ」
そう言うと、満仲は小屋の中へとより深く踏み入っていく。そんな彼に対し、晴明は不審を覚えた。彼も人影には気づいたが、それは先ほど一瞬前までなかったように思えたからだ。
警戒を密かに覚える晴明に対し、満仲はそんな素振りは一切見せずに、少女へ近づいていく。
そんな彼らに対し、暗がりの中で少女は満仲たちを見て瞠目する。闇の中で視認しづらいが、少女はなかなかの美容で、その顔に驚きの色を浮かべていた。
「どちら様、でしょうか?」
いきなり家の中へ入ってきた満仲たちに、少女は警戒と緊張を孕んだ声で訊ねてくる。それは、いきなり戸も叩かずに入ってきた侵入者に対しては当然過ぎる反応で、特におかしなことではない。
「ん? ただの通りすがりさ。嬢ちゃん、少しいいかい?」
答えたようで答えになっていない言葉を返すと、満仲は少女の前で友好的な笑みを浮かべる。そこには、やはり不思議と怪しさはなく、人の緊張を思わず解くような愛嬌のある笑みであった。
「最近、この近くに鬼が出るという噂があるんだが、聞いたことはあるかい?」
「……鬼、ですか?」
満仲の問いかけに、少女は眉根を寄せる。そんな少女に、満仲は囲炉裏の手前、土足で上がれる最前線まで近寄って顎を引く。
「そうそう。なんでも、最近四・五人ほどが行方不明になっていて、周りの住民の間じゃ鬼の仕業じゃないかって話が出ているらしいが。御存じないかい?」
「……存じ上げません」
満仲の問いに、少女は首を振る。
その反応を見て、晴明は不審を強めた。鬼の噂は、一度上がれば広がるのは早いものだ。陰陽寮へ民草が訴え出るほどのものであるはずなのに、それを知らない者がいると言うのはあまり考えにくい。
そしてそれ以上に、何故少女が一人しか小屋にいないのかが不思議であった。両親や兄弟の類が全くいない、少女一人がここで暮らしているというのは考えづらい。
あるいは……そう考え始める晴明だったが、一方で満仲は少女の前で腕を組んで頷いた。
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