第7話:真夜中の出発

7、


 日は落ちた。

 夜の闇が下りた平安の都は、星々と月の光が薄らと辺りを照らしている。

 暗くはあるが全くの暗黒に覆われた訳ではない視界は、かえってその闇の奥から何か不気味な物が飛び出して来るのではという不安を感じさせていた。


 そんな不気味な夜闇の中を、晴明は慣れた足取りで進む。

 街灯がないこの時代、夜の闇の中を出歩く人間は多くない。ひとたび日が落ちれば人々は自宅に籠って外出を控え、そのまま再び朝が来るのを待つのが大抵であり、今の時世のように夜道を歩く人間は希少である。

 そのため、歩く晴明にすれ違う人の影はほとんど見られない。昼間は人が賑わっていた京の路上は、今はうってかわっての静寂に包まれていた。

 京の夜道を晴明は、朱雀大路を南に下って行く。京の中でも大きな通りを通って彼が向かった先は、昼訪れた源家の邸宅である。

 一度自宅へ戻っていた彼は、そこでこれからの仕事の準備を整えた後、こうしてまた源邸へ戻ってきた。


 しばらくして辿りついたその邸宅の門前では、一つの影が待ち受けているのが確認できる。

 猛々しい顔立ちと髭面は見間違えようもない……立っているのは満仲であった。彼は、足をしきりに屈伸させながら、門前で準備運動を行なっているようだ。

 やがて、晴明が彼へ近づいていくと、満仲はそれに気づいて振り向く。そして、視界に晴明を捉えるや、屈伸するのをやめて破顔一笑し、手を挙げた。


「よう。遅かったな、晴明殿」


 快活に声をかけてくる満仲に、晴明も薄ら笑みを浮かべて近寄っていく。


「すみません。いろいろと準備に手間取って……」

「あぁ、別に謝らなくていい。それより早く行こう」


 頭を下げようとする晴明にそう言うと、満仲は肩の関節を鳴らしながら笑う。


「久々の鬼退治だ。油断せずに行こうか」

「……あの、おともはお付けにならないのですか?」


 早速出発しようとする満仲に、晴明は不審そうに訊ねる。

 見たところ、辺りには満仲の供を務めるような従者の姿は見受けられない。化生の退治を行なうという時は、腕に覚えのある者を何人か供に伴わせるのが普通であった。

 だが、満仲の周りにそのような者の姿は見受けられない。まさかとは思うが、鬼退治に対して単身で出掛ける気なのか、と晴明は訝しがる。


「あぁ。今、役に立つ奴は出払っていてな。俺一人で行くつもりだが……なんだ、不安か?」


 悪戯っぽく笑われ、晴明は咄嗟に否定の反応を示しかけるが、迷う。思わず満仲が備える妙な頼もしさに安堵しかけるが、それは根拠のない安心感というものだ。彼の中の冷静な思考がそう指摘する。


「……危ないのでは? 一応、命懸けの仕事ですよ?」

「お、無難な言葉を選んだな。不安だと肯定すると失礼だし、そうじゃないと否定するのも白々しいと考えて、上手いこといなしたな」


 精一杯答えを考えた晴明に、満仲はからかうように笑う。

 その言葉に、晴明は固まった後で、やや憮然とした様子で目を細める。


「分かっているなら、そんな風にからかわないでいただきたいところですが……」

「ははは。いや失礼。どうしても他人の心が読めると、それをからかいたくなってしまう性質でな」

「……悪趣味だな」


 悪びれることなく謝す満仲に、晴明はぼそりと呟く。本音であるが、正面切って言ったわけではない。あくまで口の中で言うに留めただけだ。

 もっとも、密かに呟いた声量でもなかったため、おそらくは満仲にも聞こえているだろう。

 それを肯定するように、満仲は喉を鳴らして楽しそうに笑う。そうして肩を揺らしながら、満仲は晴明に歩み寄ってくる。


「ま、そういうことだ。俺と二人きりで少なからず心配かもしれんが、安心しろ。足を引っ張らないし、危うくなったら助けてやる。これに関しては冗談じゃないぞ。本気だ」


 目を細め、言葉だけはひどく真面目な様子で満仲は言う。

 その言葉に、晴明は少しだけ疑問の横目を向けた後、やれやれと言った様子で息をつく。反論の一つでも口にしたいところであるが、今の満仲に言っても、きっと軽くいなされて終わるだろう。ここは、素直に頷くに限る。


「分かりました。では、本日はどうかよろしくお願いします」

「おう。任せろ」


 改めて頭を下げる晴明に、満仲は胸を叩く。その口ぶりと所作からも、何の根拠はないにもかかわらず、不思議と頼もしさが感じられた。

 それを見ると、晴明は右京の方角に向けて身を翻す。そうして、満仲と共にそちらへ向かって歩きはじめるのだった。


   *


 右京に入ってしばらくしたところで、晴明は懐から数枚の札を取り出す。指に挟まれたのは、鳥の形に切り取られた数枚の紙札である。子供の工作品のようなその札を、晴明は指に挟んだ状態から宙へ放り投げた。

 すると、その紙札がぽんっと別の物に転じる。転じたものの正体は、数羽の鳥だ。雀の様な色彩をした数羽の小鳥が、紙からなりかわって出現する。

 小鳥たちは、本物の鳥ではない。鳥の形をした化生のようなもの、簡単に正体を述べれば、晴明の式神しきがみであった。


 式神とは、おおよそ意味は通るだろうが、要は陰陽師が使役する使い魔の類のことである。陰陽師の命令によって動く忠実なしもべ・精霊のようなもので、戦いに役立つものから、生活の補助になるものまで、様々な種類に及ぶ使い魔であった。

 紙から転じて出現した晴明のそれは、少し宙を羽ばたいた後、晴明の腕にとまる。腕に乗った数羽の小鳥を見て、晴明は命令を念じると、鳥たちを宙に放つように腕を振るう。それによって、小鳥たちは晴明の腕を離れ、京の都を照らす宙高くへと飛んで行った。


「ほう。あれが、お前さんの式神か?」


 晴明が式神を放つと、それを横で見ていた満仲が口を開く。一連の、式神の召喚からそれの使役までの行動を見て、彼は興味を抱いた様子で目を瞬かせている。

 そんな相手の問いに、晴明は顎を引く。


「えぇ。雀を基にした、鳥の式神です」

「普段は紙幣に封じておいて、いざとなったら実際に実体に戻して使役するって、結構な高等技術じゃないのか? あまり頻繁ひんぱんに見受けられる技じゃないと思ったんだが」


 満仲が続けざま訊ねると、晴明は彼に振り向く。顎に指を馳せて言っている満仲に、晴明は目を細め、疑問の眼差しを向ける。


「何故、そんなことを知っているのです?」

「あぁいや。以前保憲殿と一緒に仕事した時に、呪術についていろいろ聞いてな。その時、そのような話を聞いた覚えがあったんだ。式神は陰陽道では有名な使い魔だが、その用途は種々様々で、封じて扱うというのはなかなか難しい技術だと教わった記憶がある」


 晴明の怪訝を満仲が説明すると、それを聞いて晴明は納得する。

 一瞬、どうして晴明の式神の用途が難しいものであるかを知っているのかが不審であったが、そういえば保憲と旧知であったのだったということを思い出して納得する。過去にどんな関わりを持ったのかは不明だが、その際に様々な陰陽道に関する情報を仕入れていたようだ。


「確かにそうですね。あまり、多くの者は扱えない術だと聞いています」

「それはつまり、自分はあまり例を見ない優れた陰陽師だという自負かい?」


 晴明の言葉に、満仲は少し揶揄するように笑う。

 その言葉に、晴明は少しだけむっとする。


「からかわないでください、満仲殿。別に、他の陰陽師を貶しているわけではないです」

「すまんすまん。少し揶揄やゆが過ぎたな。あと、俺のことは『殿』つけしなくていいぞ。二人きりの時は、気軽に『満仲』と呼び捨てにしてもらって構わないからな」


 謝りながら、満仲はそう提案を持ちかけてくる。先ほどまでずっと丁寧なやりとりをしていた二人だったが、満仲の方はどうもそのやりとりに限界を覚えている様子だった。


「代わりに、俺もそちらを呼び捨てにするから。異論はあるか、晴明?」

「……いいえ、構いません。ですが、十近くも年下の相手に呼び捨てにされて嫌じゃないのですか?」

「全然。逆に、そっちの方が親しみを覚えるぞ、俺は」


 依然として慇懃な口調で訊ねる晴明に、満仲は胸を張りながらそう言葉を返す。その率直な本音に、晴明は思わず微苦笑を浮かべた。

 そんなやりとりを交えてから、二人は右京の中を歩きはじめる。

 今しがた式神を放ったのは、鬼退治に向けて実際に鬼がいる位置を探るためだ。人間が地上から二人で、闇雲に歩き回って鬼を探すのには限界がある。そもそも鬼というのは、夜闇や人気がない場所に潜むのが得意な性質を持っているため、人間の五感だけで探り当てることは困難なのである。そのため、鬼を見つけるためにまずは式神を使役するというのは、陰陽師の間では非常に一般的な行動であった。


 放った式神が帰ってくるのを待ちながら、その場に留まり続けるのも手持無沙汰てもちぶさたなので、二人は右京の中を歩きながら、自分たちの直感でも鬼の居場所を探し始める。見つけるのは容易ではないが、何もしていないよりはマシであった。

 歩きながら、晴明は右京の様子に目を馳せる。

 都の中で右京というのは、ざっくりといえば過疎地であった。朱雀大路を挟んでの左京との境界ではそれほどではないが、西へ進めば進むほど、右京からは人のいない家屋や荒れ地が多くなる傾向にある。

 この時代から数十年先にはなるが、当時の文学者によれば右京には人が全く住んでおらず、水路や耕地の身が広がった閑散とした地帯と化していたそうだ。右京に住む人間は希少であって、多くの住宅は左京に集中していたそうで、京の都に西はさながら農耕地帯となっていたそうである。


 徐々に過疎化と農地化が進んでいるそんな右京の中を、晴明と満仲は進んでいく。数少なくなった人家の間の道路を渡り歩きつつ、二人は視線を時々左右に振りながら、鬼の気配を探っていた。


「――そう言えば、ひどく疑問に思っていることがあるんだが」


 ふと、満仲が口を開く。それは、本当に何となく思いついたような開口ぶりで、晴明は目だけ振り向いた。


「なんです?」

「今回の依頼、陰陽寮は訳あって動けないから、代わりに大舎人の職にいるお前さんに解決を託されたというが、それはお前さんが、鬼退治に加勢できるほどの実力がある陰陽道の使い手であるからだよな?」

「まぁ、そうなりますね。単独で鬼を退治できるかと聞かれれば、あまり自信はありませんが」

「何故、そこまでの道士であるお前さんが、大舎人おおとねりなんだ?」


 軽く首を傾げながら、満仲は不思議そうに問うてきた。その言葉に、晴明は静かに唇を引き結ぶ。


「大舎人といえば大内裏の雑用役――普通は、何の取り得もない連中が就いている役職だ。式神を使えて、保憲殿から今回の様な依頼を受けるほどの人間が、どうしてそんな役職にいるんだ?」


 単純な疑問であるように見えて、なかなか鋭い指摘を満仲は唐突に放ってきた。その言葉に、晴明は口を噤む。

 そもそも、考えてみれば今回の鬼退治の依頼は不思議なものであった。

 大舎人の雑人であるはずの晴明が、この若さで陰陽道の道に通じていることや、年の瀬が近いとはいえ陰陽寮の重役であるはずの賀茂保憲と深い関係を持っていること、それから陰陽寮が動けないという事情があるからとはいえ、保憲から単独で怪異の調査を依頼されるような人間であること――等など、普通ではまずありえないことが多くあった。


 それらに対する疑問・興味を質問した満仲は、横目で晴明を見下ろしながら返事を待つ。答えを急くような真似はしない。晴明が沈黙しているのをどう思ったか、満仲は目を細めたまま晴明を凝視する。

 長らく、両者の間の沈黙は続いた。

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