第2話:陰陽師・賀茂保憲

2、


「すまないな。急に呼び出してしまって」


 やや申し訳なさそうな言葉を口にすると、男は文机ふづくえの上に読んでいた書物を置く。深緑の狩衣に身を包み、品のいい雰囲気と顔立ちをした人物で、見るからに育ちの良さというものが窺がえた。

 場所は京の東側、左京にある屋敷の一室だ。庶民が住んでいる町屋よりも広く、しかし上級貴族が住む館よりは小さい、質素な造りと手狭な庭である邸宅である。中級貴族の中でも一般的な造りといえる屋敷で、絢爛ではないものの裕福な暮らしを送っていることを推察させる場所だ。

 そんな屋敷の屋内で、晴明はるあきらは男と向き合っていた。


「いえ、お気になさらず。別に他の用事もなかったので」

「そうか。ならばよかった」


 晴明の言葉に、男は緩やかに口角を持ち上げて安堵する。その笑みは、自然と相手に好感を与える爽やかな笑みで、彼の人柄の良さを容易に相手へ伝えるものであった。

 男性は、名を賀茂保憲かものやすのりという。

 京の都、殊に大内裏だいだいりにおいては有名な陰陽師――陰陽道の道士であり、まだ三十になったばかりだが、その実力は宮廷の陰陽師たちの役所・陰陽寮の中でも屈指と言われている人物だ。


 背筋を伸ばして姿勢のよいその男を前に、晴明は対面で胡坐あぐらをかいて座していた。対面している相手に胡坐をかくというのは現代では不遜や非礼に当たる時もあるが、この時代では特に非礼にあたるものではない。この時代、まだ正座と呼べるものはなく、着座となれば普通はこの体勢になるものだからだ。


「生活はどうだ? 無理しているのではないだろうな?」

「あぁ……最近ちょっと厳しいですね」


 保憲からの問いに、晴明は頬を掻きながら答える。

 その日の食事にも困っている貧しい暮らしをしているのだが、それを保憲の前で素直に白状するのは躊躇われた。神妙に語れば、相手が何を言ってくるか容易に想像がついているからである。

 実際、少しまごついた晴明の返答に、保憲は目を細めた。


「苦しいのか?」

「まぁ、少し。あ、でも保憲さんがお手を煩わすほどのものではないです。なんとかやっています」


 真剣な目をする相手に、晴明は慌てて取り繕う。目の前の相手に、本当のことを話すのは控える。保憲の性格からして、事実を聞けばきっと節介を焼いてくるはずだ。晴明としては、保憲にそのような労をかけるのは遠慮したいところであった。

 誤魔化す晴明に、幸い保憲は追及してこない。


「そうか。だが、辛くなったらいつでも私たちを頼るのだぞ? 階位に違いこそあれ、元は同じ家で育った同士だ。いつでもここを実家と思って頼るようにせよ」

「ははは……はい。分かりました」


 温かい保憲の言葉に、晴明は苦笑しながら体裁ていさいを保つように頷く。相手の配慮はありがたいものであるが、そうやすやすと保憲の世話になるような状況になることは避けたかった。

 会話から察しがついた者もいようが、二人は知己である。それも、かつては同じ屋根の下で生活を共にした間柄であった。そのために、保憲は晴明のことを実の弟のように温かく迎え入れて言葉を交わしてくれている。

 もっとも、晴明からすればそれは少なからず畏れ多いことだ。自分と保憲には、家格の違いという壁が存在している。中級貴族である保憲に対し、晴明は下級の役人だ。その身分差は大きく、そう簡単に保憲の世話を受けるわけにはいかない。

 もし自分が保憲の庇護を受けていることが広がれば、保憲の周りや貴族の間で、彼が自分の様な下級役人を養っていることに悪評が立つ可能性がある。何故保憲ほどの人物が下級役人を丁重に扱っているのか、不審に思われてそれが遠回しに保憲の立場に悪影響を及ぼす可能性がないわけではない。


 保憲はきっとその事を気にしないだろうが、晴明からすれば彼にその事で迷惑をかけるのだけは避けたかった。

 保憲は今、宮廷において驚異的な出世をしている人物である。三十になったばかりにもかかわらず、その陰陽師としての力量を買われて陰陽寮の重役に抜擢され、その期待は日に日に大きくなっている人物なのだ。上級貴族からの信頼も大きくなってきており、そんな貴族たちに意見も出せるだけの立場になりつつあった。

 そんな彼の足を引っ張る様なことだけはしたくない、と晴明は考えている。順調に出世をしている彼が、自分の様な底辺の人間と付き合ったことで挫折するような憂き目に遭うことだけは御免であった。

 そんな思惑もあって、晴明はぼろが出ない内に話を変えた。


「ところで、俺に何の用ですか? なにやら急ぎの案件のようですが?」


 自分を呼び出した理由に、保憲は顎を引く。


「あぁ、それな。実は、市井しせいから密かに訴えが来ていてな」

「市井?」


 晴明が復唱すると、保憲は頷く。


「最近、右京うきょうの方に鬼が出るらしい。噂として聞いていないか?」

「……いえ。知りません」

「そうか。ならば説明をした方がいいな。実は今朝、私の後輩の陰陽寮の一人に、訴え出てきた庶民がいたそうだ。それによると、最近左京さきょうの方で、夜な夜な行方不明になる人間が多いらしい。なんでも夜に外出したり、夜に職場から戻ってくる道中にいなくなったりするとのことだ。いなくなったのは全員男性で、その忽然とした消え方から、市井では鬼が出たのではないかと疑いが立っているとのことだ」


 腕を組みながら、保憲は淀むことなく語る。その顔は、かなり真剣だ。


「実際に陰陽師が調査したわけではなく、あくまで庶民たちの推測であるのだがな。しかし、五人以上がいなくなっていることから、ただの偶然とも思えない。陰陽寮としては、すぐにでも調査に出たいところなのだが……」


 すらすらと説明をしていた保憲だったが、目を伏せると、少し言いにくそうに口の端を歪める。


「上の貴族の方々はすぐに許可をくれそうにない。行方不明者の探索なら検非違使けびいしなどに任せておけ、お前たち陰陽師が出るほどの案件ではない、という感じでな」


 苦い口調になりながら、保憲は言う。

 話は、要するに調査に動きたいという役所の陰陽師たちに対して、その許可などを司る貴族たちが消極的だということだ。

 ちなみに、検非違使とは現代で言うところの警察機関のようなもので、犯罪の調査や罪人の捕縛、刑罰などを司る役職のことである。京に治安維持や取締りを担っており、年々その権限は強まる傾向にある。

 調査を陰陽師ではなく検非違使に行なわせているというのは、つまり貴族たちは市井からの訴えに対し、今回の事件は鬼の怪異ではなく、単なる失踪事件と捉えていることを意味している。


「つまり、保憲さんたちには、暗に動くなと言っているのですね?」

「そういうことだ。上が許可を出さない以上、我々も安易に動くことは出来ない」


 渋い顔で、保憲は肯定する。保憲も所属する陰陽寮は、京で起こる怪異の調査を行なうこともあるが、それは基本政務を司る貴族たちの許可ありきのものだ。自由に調査に動くことは出来ず、あくまで限定的な範囲でしか活動できないという制限があった。

 今回もそうらしい、と晴明は理解すると、同時に何故自分がこうして保憲に呼ばれたのか、その理由についても話が読めてきた。


「ですが、だから俺に調べてくれと言われても……。俺一人で調べるのはともかく、もし本当に原因が鬼だった場合、退治までしなければならないわけでしょう? 力量によりますが、鬼を相手に一人で渡り合うほど俺は自分の腕に自信がないのですが……」


 先読みして晴明が言うと、察しが早い晴明に保憲は微笑を浮かべて顎を引く。


「分かっている。だから、助っ人を頼もうと思っている」

「助っ人?」


 眉根を寄せて訊ねる晴明に、保憲は再度頷く。


「あぁ。鬼の探索は晴明――お前に任せて、退治するのはその手の専門である武人に頼むつもりだ。武人が退治に協力してくれるなら、お前もそれなりに安心だろう?」


 保憲がそう確認すると、晴明は口を噤む。

 陰陽師が腕利きの武人と手を組み、怪異――怨霊や鬼を退治するという例は少なくない。陰陽師は優れた怪異の退治屋であるが、膂力の凄まじい鬼などを一人で退治できるかと聞かれれば、そうとは言わない。中には例外もいるが、陰陽師が怪異を退治するには人数を組むのがほとんどだった。


 特に、退治に際して武術に優れた武人を雇うことはよくあることだ。陰陽師は怪異の発見や正体を見破る補助の役割に徹し、実際の退治は武人に任せるというように役割を分けて協力を仰ぐことは多い。

 今回に関しても、保憲はそのような協力者を捕まえて、晴明に怪異の調査と討伐を願い出ようとしているようだった。

 それを理解すると、晴明は少し渋い顔で口を開く。


「それはそうかもしれませんが……しかしアテはあるのですか?」

「あぁ。源満仲みなもとのみつなかという男を知っているか?」


 保憲が口に出した人物の名に、晴明は聞いたことのない名であったために首を振る。


「まだ名はあまり知られていないが、相当の武人だ。以前に何度か、私も彼と共に化生の退治をこなしたが、あの強さは頼りがいがある。それに豪快磊落ごうかいらいらくな性格をしていて、その癖に頭が非常に切れる。きっとお前のこともすぐに認めてくれるだろう」


 朗らかに笑いながら、保憲は晴明に語る。保憲が認めるということは、相当腕が立つ人物なのだろう、晴明はそう推察した。


「彼と一緒に、左京の調査を頼まれてくれないか? 幸い、雑人ぞうにんという立場上、それなりに暇なのだろう?」

「……それなりに暇ですが、あまり気は進みませんね」


 保憲の依頼に、晴明の返答は芳しくない。

 苦い顔をした彼は、あまり快く思っていない様子で保憲に言う。


「鬼退治もそうですが、俺ははっきりいって武人や兵の家の人間は好きじゃありません。そんな人間と組んで、命懸けで鬼退治をしてくれと言われても、ちょっと……」

「嫌、か?」


 確認され、晴明は頷く。

 怪異の退治というのは、多くは命懸けの作業だ。それをそうやすやすと安請け合い出来るようなものではなく、それなりの覚悟と自信がなければ受けることは出来ないものだった。


「はい。いくら保憲さんの頼みでも、そうそう命懸けの仕事は受けられません。俺もまだ死にたくはないので」


 晴明は保憲のことを慕ってはいるものの、それとこれは話が別だった。いくら彼の頼みでも、命の危険が迫られるかもしれない仕事をあっさりと承諾することは出来ない。

 その返答に、保憲は唇を歪める。そこには、少しばかり口惜しそうな色があった。


「受けてくれない、か」

「はい。誠に申し訳ないですが」

「そうか……残念だ」


 相手の意思に、保憲はそう言って嘆息し、組んでいた腕を解く。

 と、その時彼の袖から、何が細長いものがぼとりと文机の上に落ちた。

 その音に、晴明が反応して目を落とすと、そこには真ん中の穴に糸を通されてひとまとまりにされた銭の束があった。


「せっかく、前金としてこれだけ用意したんだがなぁ……」

「…………………」


 ぼそりと溢した保憲の言葉に、晴明は黙り込む。銭の束は、およそ一ヶ月は食に困らなくなるだろう程の量であった。

 そんな彼を、保憲はちらっと一瞥する。


「受けないというならば、これも無駄になったな。調査が終われば、これと同じ額を渡そうと思っていたのだが……」


 そう言って、保憲はもう一度、晴明をちらりと覗き見る。晴明は、そんな彼の所作に気が付かず、じっと銭の束を見ていた。


「場合によってはもう少し増やしてもいいと思ったのだが。やらないというならその配慮も――」

「保憲さん」


 ぼそぼそ言葉を紡ぐ保憲を遮り、晴明は彼をじっと見る。

 名を呼ばれ、保憲は首を傾げた。


「ん、何だ晴明?」

「是非やらせてください。俺に任せれば、万事解決です」


 先ほどまでとは一転、晴明は快く自信を漲らせて依頼を引き受ける旨を申し出る。

 その分かりやすい転身に、保憲は嬉しさと呆れをい交ぜにした微笑を浮かべるのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る