第1話:貧乏役人の嘆息

1、


 平安京、という名の都があった。

 山城国やましろのくに葛野かどの郡――現在の京都府南部にあった日本の旧首都で、西暦七九四年に長岡京から遷都されて出来た都である。平安時代末期にあった平清盛の福原遷都という空白期間を挟むものの、後の明治時代初期の東京遷都まで、千年以上に渡って日本の首都であり続けたその都は、現在の京都府京都市の一部にその面影を残している。

 唐の長安ちょうあん――現在の中国の旧王朝の首都をモデルにして造られたその都市は、その名が示すように無事で穏やかな世を祈って造営された都市だった。当時は疫病や災害などが度々起こり、人々や社会は不安を絶えず感じていたこともあって、それらを一掃することもこの都市には期待されたのである。


 ただ、その願いは最終的に成就されたかというと、肯定は難しい。仔細を語りだすと歴史の講義になってしまうので割愛するが、平安京が造営され、政治の主権が武家に取って代わる間の期間、俗にいう『平安時代』というのは、多くの政変や反乱が起こった時代でもあった。

 平和な時期がなかったわけではない。ただ、平和な時代の中にも不満や怨念が常に裏には潜んでおり、次の時期には政変や反乱に繋がるという例があまりにも多い時代だった。

 そしてそれら不満や怨念は、時に人外の存在を生み出し、人々を大いに苦しませた時代でもある。

 人への怨み・怒りは、やがてその者やその願いから化生けしょうを生み、怨霊・悪鬼となって人々を害し、悩ませた。その力は凄まじく、流行病はやりやまいや災害なども、多くは怨霊や化生の仕業と常識的に考えられ、人々はそれを鎮めるべくあらゆる手を駆使していた。

 現在では鼻で笑われるような迷信だと思われそうだが、当時の人たちは実際に、その被害に酷く苦しんでいたのである。


 この時代は、清少納言や紫式部に代表されるような国風文化が花開き、多くの芸術作品が生まれた華やかな時代と思われがちだが、一概にそうとは言い切れない。怨念や不満、怒りや恨みで彩られた、呪いの時代という側面も持っていたのだ。

 これから語るのは、そんな一時代の中で、その闇と真っ向から向かい合っていた者たちについてである。

 その時期を『今』と称するなら、今は天慶てんぎょう九(西暦九四六)年二月にあたる。

 歴史上有名な平将門と藤原純友の反乱事件「承平じょうへい・天慶の乱」から数年が経ち、事件当時の混乱から比較的平穏さを取り戻すことに成功した時期――その頃の京の都であった、とある事件についての話だ。



   *



 空は夕焼けによって赤みがかっている。鮮やかな朱色によって染まった、美しくも神秘的なその空の下で今、盛大な溜息が一つ吐き出された。

 溜息をついたのは、京の大路を進む一人の青年だ。黒い烏帽子を被り、薄汚れた白張しらはり装束を身に纏った、二十代半ばあたりの男である。

 白張とは、糊を強く張った白布製の衣服のことだ。狩衣かりぎぬといわれるこの当時の男性貴族の平服として着用する衣服の系統に属する衣装であり、白張は主に雑役に従う者が着用する服であった。

 その名の通り白い衣服……とはいえ青年のそれは使い古されて汚れている。


「――銭が欲しいなぁ……」


 真っ赤な空を見上げながら、青年は平坦に自嘲気味な笑みを浮かべて呟く。持ち上げられた顔は、太っている訳ではないが丸顔で、あまり風采ふうさいが立たない。醜いほどではないが、あまり立派と言えない顔つきで、自嘲気味なその顔は人によっては不快な気分を抱く類のものだった。

 空を見上げて呟いた後、青年は顔をぐったり俯かせ、周囲を歩く他の庶民が少し訝しげに視線を向けてくるのを尻目に嘆息する。


「銭が、本っ当に欲しいなぁ……」


 悲嘆に暮れる声は、情けなくみっともないものだ。他人が真面目に聞けばむっとしそうな嘆き方であり、青年の甲斐性の無さを叱りつけたくなるような感じがある。それだけ情けない姿であった。

 もっとも、そこに悲哀を感じなくもない。青年の嘆きは切実であって、決して贅沢な悩みではなさそうなのは、声の響きから充分に伝わってくる。


 青年が嘆いている原因は、己の身の貧しさにあった。

 つい先ほど、青年は都の南東にある東市に出向き、そこで食品を買っていた。数日分の食糧を確保するのが目的であったが、そこで彼は、食料を買うのに手持ちの金品を使い切ってしまったのである。手持ちのものが全財産であった彼は、それがなくなり、残ったのは買い取った食料だけになったことで、そのことにひどく悲嘆していたのだった。


 この説明から察しはつこうが、青年はひどく貧乏であった。彼は都の政庁、大内裏だいだいりに出仕している役人であるが、その仕事は雑事をこなす雑用人・「大舎人おおとねり」という役職であるため財には乏しい。その余裕のなさは、その日の食にも困ることからも推察できるだろう。

 ……実はこの青年、後に「陰陽おんみょうの達者なり」と讃えられるほど、とある道においての大家として大出世を遂げることになるのだが、それでも今は、しがない雑人の一人に過ぎない。


「なんでこんなに貧しいんだろうなぁ。少しくらい、俺にも財があっていいじゃないか……」


 猫背気味に俯きながら、青年は独り愚痴を始める。愚痴とは当然、見ていてみっともないことが多いものであるが、この青年の貧困の度合いを考えると、それについて愚痴もしたくなるのはある程度しょうがないところだろう。

 彼の身の上の不幸は、はっきり言えば生まれた家が悪かったということに尽きる。

 彼の生まれた家は、内裏において貴族や役人などに対する食事を司る大膳職の家であった。あまり裕福な家系ではなく、一応貴族であるが最底辺――いわゆる下級貴族と呼ばれる家の出だ。


 平安というこの時代、生まれた家の格というもので、その一生が決まるといっても過言ではない。

 上級貴族の家で生まれれば、政治の中心に立ち、一流の文化人として優雅な一生を約束される。一方で庶民に生まれれば、貧しい生活と重い税と雑役ざつえきが待っており、ただでさえ短い一生をさらに縮めるという悲惨な生涯が待っていた。例外は、ほとんどないと言ってよい。

 青年の場合もそうだ。彼も生まれた家が貴族とはいえ下級であるがゆえに、貧しい生活を、その日の食事も困るほどの貧しい暮らしを余儀なくされていた。それはおそらく、今後も変わることはない。容易に変われる程、この当時の社会は身分格差に対して甘くはなかった。

 そのため青年も、このまま貧しい一生を過ごし、終えていくという暗い未来をついつい想像してしまう。それは妄想でなく現実的な推測で、当たる可能性の非常に高いものであった。


 食べるものに困り、餓死する未来を想像したところで、青年はぞっとしてから頭を振る。

 それは、今更考えたところで仕方がないことだ。

 非情なその現実を嘆いたところで、自分の力ではどうすることも出来ない。

 無力な自分を嘆くことすら無駄、考えること自体が無駄であった。そんなことに気を回すくらいなら、今はとにかく、明日以降のことも考えながら、今日をどう生き延びるかを考えた方が建設的だ。

 とりあえず、今は家に帰って休むことが重要だった。幸い、食べ物にはこの時を見越して、多少の蓄えは用意してある。それを上手く切り詰めながら、次の給付日まで耐えるしか他に手立てはない。


 そう割り切ると、青年は気を取り直して帰路につく。彼はこれまで通り大路を北へ進み、自分の家へと帰ることにした。

 ただ、その道中である。

 今日買った物を抱えながら歩く青年の視線が、ふと止まった。彼の前方から、目につく人影が姿を見せる。少年だ。まだ烏帽子は被らずに髪を旋毛つむじ辺りで括っている、萌葱もえぎ色の狩衣を着た少年が、両袖をくっつけながら南に向かって歩いてきた。

 青年にとって見覚えのある人物だ。またこの辺りを通るには、少し不思議な人物でもある。

 目を向けていると、やがて相手側もこちらに気づく。目が合うと、彼はその口元に笑みを浮かべ、組んだ両袖を解いて、こちらへ早足にやってくる。それを出迎える青年の口元には、知らず知らずに嬉しげな笑みが浮かんでいた。


「探しました。今、お帰りですか?」


 近寄ると、少年はそう訊ねてきた。人好きされそうな好印象な笑みを浮かべており、それを見て青年は、彼とは一回りも違う彼の兄の顔を咄嗟に連想した。

 そして、そのことには言及せずに素直に頷く。


「あぁ。今、東市からの買い物帰りでな」

「そうですか。何かいいものは買えましたか?」


 少年は何気なく、無邪気な様子で訊ねてきた。

 その言葉に、つい先程までの暗い連想が胸中に再出し、青年は笑みを乾いた物に変えながら、視線を逸らす。


「いや……あんまり……」

「……失礼しました。あの、実は兄上から言伝ことづてを預かっておりまして」

「言伝?」


 失言に気づいたか、少し申し訳なさそうに少年が言葉を告げると、その言葉に青年は笑みを消して目を戻す。

 再び目が合い、少年は頷いた。


「はい。なんでも、出来るだけ早く屋敷に来てほしいとのことです」

「それは、いつまでの内に?」

「出来れば今日にでも、とのことです」


 少年の言葉に、青年は「ふむ」と顎に指を当てる。急な呼び出し、そのこと自体はあまり珍しいことではないが、そんな時は大抵、青年にとっては面倒な用を告げられたり頼まれたりする場合が多い。

 少し考える彼に、少年はじっと待っていたが、ふと青年が手にしている物を見て、思いついたように口を開く。


「そういえば、今晩のうちに来て下されば、一緒に食事も出ると思いますよ? 兄上も、久々に一緒に飲みたそうにしていましたので――」

「おい保胤やすたね、それは本当か?」


 相手の言葉を遮る勢いで、青年は食いついた。

 その目は真剣そのもので、訊ねるというより確認に近い。おそらくは、「食事も出る」という単語に過敏に反応したと思われた。

 その問いに、少年・保胤は少し苦笑する。


「はい。どうでしょう、今から僕と一緒に向かうというのは?」

「分かった。すぐに行こう」


 少年の提案に、青年は即断する。今後のことを考え、食生活を切り詰めたい青年からすれば、少年の提案は魅力的であった。

 しかも、少年の言葉を信じるなら、食事が出るというだけでなく酒もふるまってくれるかもしれないという。酒は当時高級な嗜好品であり、庶民や下級役人にはよほどのことがないと口にすることさえ出来ないものであった。それが出るということも、青年が即座に決断することに背を押したといってもよい。

 見事に釣れた彼に、少年はちょっと引き気味であったが、それでも嬉しそうに微笑みながら半身を翻す。

 そして言う。


「では、参りましょうか、晴明はるあきらさん」


 保胤の案内に、晴明は顎を引いて歩き出した。

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