4歳vs27歳


 先に一報を入れていたためか、早く帰っても狐は特に何も言ってくることはなかった。出迎えすらもせず、ごろごろと居間でI Padを弄っている。我が式神ながら、異形とかあやかしとか式神という響きから想像する固定観念を根こそぎ根底から破壊してくれそうな姿だった。


「たっだいまー」


「お帰りなさいませ二人とも。ですがまず、手を洗ってうがいをしてきてくださいな」


 ごろごろ怠惰に寝そべっているだけの癖に他人に対しては無駄に厳しい。しかし言っている内容は正論なので、サヤカと一緒に二人で手を洗う。洗い終わると幼女はさっそくマイおもちゃを出して遊び始めた。


「はーい、遊ぶ前にちゅうもーく! おもちゃは後! これから重大発表がありまーす!」

「じゅうだいはっぴょうー!?」


 突然始まるイベントの予感に、弟子がいいリアクションで驚いてくれた。そそくさと素早くおもちゃを片付けると、手拍子を取って歌いだす。


「おーはなし! おーはなし! だーいじーなおーはなし! たーのしーいおーはなし! きょっおのおっはなっしなーんだっろな?」


 そしてメガホンの形にした手を口元にあてて、


「はっじまっるよー!」


 フィニッシュ。


 当然のような顔で謎の儀式を済ませた弟子は、そのまま何事もなかったかのように綺麗に座り直した。実際に目の前で目撃しても何があったのか正直よく分からなかったが、特に意味もなさそうなのでスルーしておく。


 良い子の姿勢で座るサヤカの瞳はキラキラと期待に輝いている。小さい子供の瞳というものはどうしてこんなに綺麗なのだろう。恒星の如く煌めくそれは、何か尊いものを思わせた。


 その瞳に吸い込まれるような錯覚を覚えながら、春明はごほんと咳払いした。目の前に座る弟子を見下ろしながら、とっておきの秘密を打ち明けるように話す。


「今日うちの兄貴から連絡が入ったんだ――お前のママの病気、治ったってさ」


 サヤカのまんまるな目が――


 ただでさえ丸いクリクリとした瞳が、これ以上なく精一杯に見開かれた。理解が追いついていないのか、呆気にとられたようにぽかんとしている。


 そして。

 そして彼女は――歓声をあげた。


「ほんとーーーー!?!?!?!?!?!?!?」


「ほんとほんと。よかったなーサヤ。これでやっとママに会えるぞ」


「やったー!! やったやったやったー!!!! ママ治ったのやったー!!!!!!!!」


 歓声をあげながら、ぴょんぴょんと(文字通りに)部屋中を跳ね回る。いつもは行儀作法に口うるさい識も、この時ばかりは何も言わなかった。


「さやね、ずっとね、ママがはやく治りますようにーってお願いしてたんだよ! だからママ良くなったのかな?」


「ああ、きっとそうだよ。サヤも一杯頑張ったから、ちゃんとお願いが叶ったんだ。今度お見舞いに行った時にでも、どんなにサヤが頑張ってたのかママに話してやるといい」


 実際には見舞いに行くより先に退院してしまう可能性もあるが、それならそれで問題ない。元々、本来の入院のきっかけであった病気も完治していると聞く。ならば呪詛が無事解けた以上、回復はそう遅くない筈だ。


「おみまい!」


 見舞いという単語が新鮮だったのか、サヤカがくわっと目を開いた。勢い込んで言ってくる。


「サヤね! ママにたくさんほいくえんでお手紙かいたの! おみまいにもってってあげようかな? あとお花の絵もあげようかな?」


「おー、いいねいいね。喜ぶと思うぞきっと」


「じゃあ、すぐおしたくするね!」

「ん?」


 そう言って。


 宣言通り、すぐにいそいそと準備を始めるサヤカに春明は思わず首を傾げた。


「サヤカさん? 何してんの?」

「おてがみ! ママにあげるの!」


 今まで書き溜めていたのか、広告の裏に書いたお手紙(らしきもの)や、同じく落書き帳に書いたお花の絵(らしきもの)を、せっせとお出かけ用のポシェットに詰めている。いまから出かける気満々だ。


「ちょっと待て。お前、まさかいまから行く気か?」


「うん! まだお外くらくないから行っていいでしょ?」


「いやまぁ暗くはないけどさ……」


 今日はお迎え自体がいつもよりずっと早かったので、確かにまだ日も沈んでいない。休日だったら公園に遊びに行っている時間帯である。だがしかし、さすがに今日の今日で見舞いにいくのは早すぎるだろう。


 念のため兄にも聞いてみるが、やはり答えはNOだった。解呪には成功したものの、まだ意識は戻っていないらしい。さもありなん。そもそも体調に問題はないとはいえ、一か月以上も昏睡状態だったのだ。体力や筋肉が回復するのも相応の時間がかかる筈である。サヤカの気持ちも分からなくはないが、許可が下りるまではいけない。


「今日はまだ駄目だよ。まだ治ったばっかで母ちゃん疲れてるらしいからまた今度。次の週末にでも連れてってやる。そのかわり、今日はこれから公園連れてってやるから」


「やーだー!! こうえんいかない! ママに会いにいくの! ちゃんといい子にできるからー!」


「あのなぁ。連れていかないって言ってるわけじゃないんだから、ちょっとだけ我慢しよう? なっ? 週末なんてすぐだからさ」


 じたばたと地団太踏んで暴れる弟子を、なんとか宥めつつ言い聞かせる。普段のわがままとは違い、なまじ相手が悪いことをしていない分、説得が難しい。


「やだー! ママのところいく! ちょっとだけ! すぐ帰るからちょっとだけ!」


「ちょっとだけでも今日は無理。まだ会えないんだって。サヤだって、どうせ会うなら元気になったママに会いたいだろ? ここで無理させて、ママが帰ってくるのがもっと遅くなったりしたら嫌だろ?」


「やぁだー!! いく!! サヤはきょういきたいの! いくったらいく!! がうっ!!」


 しまいには癇癪を起して噛みついてきた。


 噛みつかれた。


「――――!?!?!?!?!?」


 ものすごく痛かった。


「痛ぃって痛い!? やめんか阿呆! 何すんだこいつ!?」


 まだ乳歯とはいえ、四歳ともなれば既に歯はしっかりと生えそろっている。顎も口も小さいが、なまじ小さい分、一切手加減をしてこないからタチが悪かった。慌てて全力で振りほどいたものの、よほど本気で噛みついてきたのか肉にくっきりと歯型が残っている。


「痛って!! 痛いめっさ痛い! 痕が残ってるっていうかこれ肉がちょっと抉れてんじゃねーか!? どんだけ全力で噛みつきやがった動物かお前は!?」


 甘噛みとかいうレベルではなくガチ噛みだった。


 いつもいつでもどんな時でも厳しい式神にだって、肉を食い千切られたことはない(しっぽで叩かれることは稀によくある)。


 そもそも一般的な式神はまず主人に噛みついたりしないという常識的な大前提はさておき、さすがにこれは冗談で許せるレベルではなかった。


「あーもー! とにかく今日はもう駄目絶対駄目! 自分の意見が通らないからって、人に噛みつくような奴は見舞いになんて連れてってやらん! 他の人の迷惑になるって病院に怒られるからな」


「やだーーー!!!!!!」


 大人らしく叱ってみたら子供らしく反抗された。


 こちらが理詰めで説得しようとするのに対し、ただただ感情に任せて押し通そうとするだけという、ある意味、水と油みたいな対立になった。


 だがしかし。


 だがしかし。今回ばかりはここで引いてやるわけにはいかない。ここで妥協してやるわけにはいかない。


 感情に任せて噛みつくようなことを、この先もこの子に許していくわけにはいかない。


 春明も、だからがんとして決して譲らなかった。


「駄目ったらだーめ! なんと言おうと駄目なものは駄目。泣いても駄目。俺だって噛まれて痛かったし怒ってるんだよ。ちゃんと謝るまでは許してやらん」


「やだー! もうしない! もうしないからぁ……」


「もうしない、じゃなくてこういう時はごめんなさい、だろ? サヤだって、いきなり誰かに噛まれたりしたら嫌だろ? 嫌なことがあったからって、相手を傷つけるようなことはしちゃ駄目だ。もしやっちゃったなら、その時はちゃんと謝らなきゃ駄目だ」


「うううううう……うあああああんん……!!」


 ごめんなさい、の一言は時に大人でも難しい。


 子供は大人よりも素直だけど、素直なだけにより一層、自分の感情に嘘をついて謝るのは難しい。


「うわああああああんん……おじちゃんきらいいいいいい……もう遊んであげないからあああああ……」


「いいよ別に。こっちだって遊んでやんねーから。今日はもう公園もなし。ちゃんとごめんなさい言えるまではお見舞いもなしだぞ」


「やあああだあああああ……ママに会いたいいいいいいい……」


「ちゃんとごめんなさいが言えてからだ」


「おじちゃんのばかああああああ……もうしらないいいいいい……」


「あーはいはいそうですか。だったらもう勝手にしろ」


「うえええええええええんん……」


 サヤカは大声で泣きながら。


 でも結局、最後までごめんなさいは言えなくて。


 その一言がどうしても言えないまま、泣きながら出て行った。


 隣の部屋へ。


 めそめそとべそをかきながら、すぱんっと勢いよく襖を開けて、居間の隣にある子供部屋へと家出した。


 驚くほど短い家出だった。

 せめて二階に行けと言いたかった。


「……とりあえず、お疲れ様でございました主殿」


「お前なぁ……」


 師弟喧嘩の最中はまるで剥製のように沈黙していた癖に、サヤカの姿が消えた途端に素知らぬ顔で起動開始した式神をじろりと険悪に睨みつける。


「黙って見てねーでお前からも何とか言えよ。隠形の如く気配消しやがって」


「それはなりません。だってあの場で私まで怒ったら、になってしまうではありませんか」


「はぁ?」


 怪訝そうに顔をしかめると、式神はさも当然そうに言ってきた。


「理由はどうあれ、あの場は噛みついたサヤカ嬢が悪かったです。明らかに一方が悪い以上、第三者がそこにどんな口を挟もうと小言にしかなり得ません。ですがそれをすると、サヤカ嬢の味方がいなくなってしまいます」


「悪いことしたんだから怒られんのは当たり前だろ」


 正しいだけの正論を述べる春明に、狐は不出来な生徒の間違いを指摘するようにちっちっち、と(どうやって音を鳴らしているのかは知らない)首を振った。


「ええ。当たり前ですよ。あの子は決して愚かな子ではありません。ですから本当はそんなこと、言われなくてもちゃんと分かっているのです。分かっているからこそあの子は主殿に噛みついたのですよ」


「………………?」


 不理解の色を瞳に浮かべて怪訝そうにする春明に、式神はそれこそ小さな子供に言い聞かせるように続ける。


「子供は大人ほど言葉を知っているわけではありません。特にあのくらいの子は、まだ自分の感情をうまく言葉で表現しきれないのです。だから『悲しい』という気持ちを現すために、泣いたり怒ったり噛みついたりしてしまう。ですが、それを頭ごなしに怒っては余計にこじれてしまいます」


「……ひょっとしてこれ、俺が怒られてる?」


「いいえ。それでも噛みついたのは確かにサヤカ嬢が悪かったですからね。あの場では怒る必要がございました。けれど、私までが一緒になって怒ってしまっては、あの子はますます意固地になってしまい、謝る機会を失くしてしまいます」


 狐の言葉には実際、春明を責める響きは一切なかった。いつもの毒舌でもなく主君を諌めるためでもなく、ただ当たり前の事として心の機微を語っている。


「『相手が悪い』という事実を、人を殴る免罪符にしてはいけません。被害にあっていない第三者までが叱責に加わったら、それはもうただの苛めになってしまいます。誰が耳にしても正しい正論で子供を叱るのは、相手が反論出来ないという意味では一方的な暴力にもなり兼ねないのですよ。ですから、誰のための正論であるか、使いどころを間違えないようにしないと」


「……難しいな」


 言っている内容は分からなくもない。それこそ『耳あたりの良い正論』にも聞こえるが、ならばどうするのが正解かのかと言われると正直、首を傾げざるを得ない。考え込む未熟な主人に、狐はにこりと笑った。


「まあ、そう難しく考える必要はございません。要は飴と鞭ということです。主殿がサヤカ嬢を叱る役目である以上、宥め役は私の担当でございましょう。頭ごなしに叱るだけでは届かぬ言葉もございます」


「それズルくない? どっちかっていうと、そっちの宥め役の方を俺がやりたいんだけど」


 怒って嫌われるよりは、宥めて慰める役の方がいいに決まってる。拗ねて告げると、式神は大仰に驚きの表情を浮かべた。


「何を仰る。弟子を叱るのは師の役目と相場が決まっているではありませぬか。師匠である主殿を差し置いて、式神風情が大事な一番弟子殿の躾を担当するなどとてもとても」


「そうなんですけどぉー!」


「第一、主殿に相手の悪い所を指摘しつつ怒らせないように反省を促すなんて器用な真似が出来るわけないじゃないですか。宥め役をしているうちにムキになって、最終的にはまたサヤカ嬢を泣かせてしまうに決まってます」


「あー……それは確かにすげえ分かるな」


 人間関係の柔軟さにおいて狐に劣るという事実はかなり切ないものではあったが、より切ないことに我ながら反論が一切浮かばなかった。


「ええ、ですから慰め役は私に任せて、主殿は存分に叱って嫌われる側に徹してください。これも適材適所というものです」


 何がそんなに楽しいのか、にこにこと妙にご機嫌な従僕を睨めつけ、主君たる陰陽師は恨めしげにぼやいた。


「お前さ……前から思ってたけどちょっと俺に厳しすぎない?」


「古来より、獅子は我が子を千尋の谷から突き落とすと申しますからね。情けは人のためならず。可愛い子には旅をさせよ。敬愛すべき我が主にこのような苦言を呈すのは、私とても心苦しいのです」


「お前狐じゃん」




 狐だった。

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