才子31

 意識深く、あの部屋が見える。黒いだけで、床も壁もないような。それと、一脚の赤いソファ。そこに掛ける黒服の女。

 雅だろうか。才子だろうか。出来ることなら才子がいい。

 外の雑音は聞こえる。意識だけがここにある。奇妙な感じだ。しかし目を開けていても脳内で映像として見えている。

 口を動かさず、意識の中で語り掛ける。

「才子」

「何よ」

 返ってきた短い答えに安堵する。才子だ。高慢な物言い。才子だ。

「……雅じゃないのね。どういうこと?」

「文也だ。分かるか? 才子、君が館から消えたのは自覚しているか?」

「そうね、誰にも会っていない。今はこの部屋だけが隔離されて単体で存在している状態」

「相変わらずどういう状態だか一回では飲み込めないな」

 こんなやりとりも懐かしい。

「そのままよ。館内から私の部屋ごと消えたの。雅も来ないわ。どうなってるのかしら」

「雅なら館に来訪者としてきた。副人格化したのかもしれない。担当医にも会ったよ。雅を内部に残したまま人格のサイコに主人格としての社会生活を送らせる方針らしい」

「……何よそれ。雅はどうなるの?」

「本人は外に出たがっていないし、才子さえいればいいと言ってる。僕の記録を雅に見せたよ。人格はほとんどが統合された。もう館にはスティーブしかいない。僕も恐らくもう戻れない。最後の仕事を終えたから」

「あなた……! 何を勝手な真似を」

「ごめん、才子。でも僕は才子の重荷を軽くしたかった。抱えすぎだよ。持ってほしいって頼ってほしかった。僕に全部を話してくれたのは言葉を使わずに頼ってくれたんじゃなかったのか?」

「あなた、最後なのよね。……分かったわ、否定はしない。私は、雅の存在が重たい。でもあの子が居なければ私は存在しないし、あの子の記憶や思念が流れ続ける中で、どうにかしてあげたいっていう気持ちがあるのは本当。でももう、抱えきれなくなりつつあった。部屋が隔離されたのは、私の気持ちに迷いが生じている所為かもしれない。……いえ、本当は私じゃないわね。雅よ。雅が私の存在を必要としながらも卒業しかけているの。分かるのよ。流れてくる。私は……消えたくない」

「雅が待つ館に戻ってやってほしい」

「どうやってよ!」

「才子の方でも雅を必要としたらいいんじゃないか?」

「必要としてるわよ。ずっとずっと、この先も」

「重いかもしれないけれど、捨てずに居てやってほしい。あの館、一人暮らしには広すぎるだろう?」

「私が雅を捨てたっていうの?」

「違うのか?」

「……分かったわ。私が離れようとしていたのは、外部に雅の友人が出来る可能性が生まれたからなんだわ」

「それは二人の男子高校生?」

「そうね、信じる気になってる。中の私といつまでもお友達ごっこをしているよりも健全だわ」

「雅が中にいる間は付いて居てやってほしい。外の脅威――病院から逃れたら恐らくスティーブも消える。雅が一人になる。いつかは主人格代理のサイコと代わって本当の雅が社会生活を送ることになるかもしれない。そうであってほしいだろう?」

「それはそうよ。そのためには私は邪魔なのではないかしら」

「才子は居てもいいだろう。友人が中に居たっていいじゃないか。外からは見えない。実在していないこともお互いに理解している。雅だって人前では話さないだろう。才子、君は居てもいいんだよ」

「本当に?」

「ああ」

「そう……私、戻れるかしら」

「戻れるよ。才子、雅によろしく伝えてほしい。荒療治ですまなかったとも」

「ええ。戻れたらね」

「それから才子、最後だから言うよ。僕は君が好きだ」

「……何を馬鹿なこと」

「身分違いみたいだけれどね。じゃあ、才子。どうか元気で」

「文也、待ちなさい……」


 才子が何か言う途中で意識を遮断した。伝えることは伝えた。最後に話が出来て良かった。

 そうしてやはり思うのだ。僕は確かに才子が好きだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る