才子30

 日記帳を雅に押し付けた後、夕飯も摂らずに眠り、起きる。食事を摂らなくても平気だ。『悟』が人は楽しむために食べていると言っていたらしい。その意味が今は分かる。才子の居ない食卓にも近づこうと思わない。

 けれど、起きてみると何かが変わっている気がした。ぐずるように怠い身体を起こし、広間に向かう。青年が一人、ハンバーガーを齧っていた。

「スティーブ」

 青年が顔を上げて青い目をこちらに向ける。

「お前だけか?」

「は? 何言ってんだ?」

 あれ? 確かに僕は何を言ってるんだろう。でももう少し人が居たような気がする。気になるので雅の部屋に向かう。日記帳は雅の部屋にある筈だ。部屋の前まで行くと廊下に置いておいた日記帳は消えていた。どうやら読んだらしい。

「雅。日記帳を少し見たいんだが」

 扉が開いて、投げ出すようにして日記帳が返ってくる。ページがばらばらと開いたのを、舌打ちをしながら拾う。

「なんだこれ……」

 昨日まで、あと四人いたらしい。満咲、瑠璃子、Gさん、エミリー。彼らはいっぺんに跡形もなく『消えて』いる。そんな一度に複数人消えるものなのだろうか。『消えた』原因はやはり……目の前の扉を見つめる。雅がこれを読んだこと、か。

 スティーブと僕が残っている理由がよく分からないが。まだ必要とされているということだろうか。雅は確かに『上位存在』らしい。

「雅」

 返事はない。ドアの下を見てもメモは差し出されていないようだ。

「人格が四人消えたらしい」

 こういう時に才子が居れば、雅の心情を伝えてくれるのだが、その才子が今は雅なのだからどうにもならない。

「僕とスティーブだけ残っている。あとはみんな『消えた』。これを読んで何か思い出したのか?」

 二つ折りのメモが差し出される。開く。

『全部』

『お父さんが死んだ日の事』

 満咲か。

『保護施設でのこと』

 エミリーか。

『病院でのこと』

 性的虐待――瑠璃子?

『逃がしてくれた親切な人たち』

 外で会った高校生二人か。ん? Gさんは何故消えたんだ?

『才子』

 才子。目の前の扉に挿し込まれているネームプレートを見つめる。

「何処に行ったんだろうな」

 会いたい、けれど会えない。それは雅も同じなのか。

『わたし』

『ずっと逃げてた』

『あなたの言う通り』

『記憶が戻ってきて、外に出るのがもっと怖くなった』

 逆効果だったのだろうか。僕は自分のエゴを押し付けただけか。

『私は中に居る』

『この館には、誰も要らない』

『才子だけでいい』

 絶望的な一言だな。人格である自分の立場から言えば、だけれど。だってこれで、館内の人格は雅に統合されるはずだ。本人がそれを望むのだから。

『あなたにはまだやって貰うことがある』

『彼には館内の護衛が済むまで居てもらう』

 彼とはスティーブのことだろう。なるほど、それで僕とスティーブが残されたという訳か。

「僕がやる事って何?」

『外への連絡役。私はもう出ないから』

 参ったな、思っていると、また『あれ』が来た。強烈な眩暈――吐き気を催すような頭痛。立っていられずに倒れ込む。頭を抱えて床を這いつくばりながら、ああ、外に出れるのか――思いながら僕は目を閉じた。

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