サイコ16
翌日、雅の担当医から高校に捜査が入ると聞いていたので一日をサイコと共に過ごすことにした。家から持ち出したキャンプ用のランプを灯すと、薄暗かった室内は明るさを取り戻した。
改めて明るい場所で見ると室内の荒廃具合は廃墟そのものだった。剥がれた壁紙、削れたフローリング、サイコが必死に掃除した跡は窺えるが、そんなものでは歯が立たないような荒れ模様だ。
「寝る時、フローリングの上で痛くないのか?」
「少しは。けれど病院よりも寝心地が良いですよ。タオルケットもありますし、ゆっくり眠れますから」
侘しいな。夜中も襲われていたりしたのだろうか。人は眠る時、タオルケット一枚だけで満足できるものなのか。
「平穏な夜なんて久し振りです」
「そうか。……珈琲でも飲むか。好きなんだ」
「奇遇ですね。私も好き」
好きという響きにこそばゆいものを感じながら、珈琲を淹れる。当然電気もガスも通っていないのでガスボンベ式のコンロを持って来た。サイコが少しの間でも生活するのだから、なるべく不便な思いはさせたくない。
しかし好きなものが同じというのは喜ばしいことだ。……この調子じゃ後輩のことを言えないな。
内心、自嘲しながら沸騰したやかんのお湯を紙製のドリップ珈琲に注ぎ入れる。ぽたぽたと垂れる間、サイコを観察する。
綺麗だな。
そんな感想しか浮かばない。最初に彼女がこちらを振り向いた時のように。一昨日のことなのに、随分と長く傍に居る気がした。
大きく開いた目が薄明りの中、こちらを見つめていた。不謹慎だが、変な気を起こしたくなるのも分かる気がする。
「文也はどうしたかな。イマジナリーフレンドの才子も、雅も」
「雅が現れたらどうしますか? 全部話して聞かせますか?」
「話が通じないって医者が言ってたからな、努力はするが期待できないな」
「先生がいる時に現れるといいのですが。先生とは多少なりともお話出来る筈ですから」
「そうなのか?」
「そうでなければ私が雅の過去や才子について知っているのは不自然でしょう?」
「まぁ、そうか」
やはり何となく面白くない。自分たちとは恐らく口も利いてくれないという雅があの医者とは話すのか。
「珈琲、出たな」
豆から水分を切ると、サイコに差し出す。自分はブラック派だが
「砂糖でも入れるか?」
「いえ、このままで」
そう言って口を付けたサイコは激しく咳込んだ。
「おい、大丈夫か?」
「変ですね。飲み慣れているはずなのに。味が初めて飲んだものみたいで」
どういうことだ?
「それって、誰か統合したっていうことか?」
「どうなんでしょうね? 実感がないもので」
不穏な空気が流れる。中で何が起こっている?
「文也を出すっていう事も出来ないのか?」
「必要ならば出てくるかとは思いますが。前回はどうやって出てきたのですか?」
「悟が出てきて去った後……悟は消えたらしいけど、そのまま眠っていて起きたら文也だった」
「中で何か起こったということでしょうか」
「他の人格に雅が多重人格だという話をしたと言ってたな」
「では、中の事情でも外に押し出される要因になるのではないでしょうか」
「かもしれない」
医者の意見を聞きたいが、今日はまだ来る気配がない。後輩も昼休みまでは現れないだろう。高校に捜査に行ったらしい警察の動向も後輩から聞き出さねばならない。
「分からないことが多いな。下手に動けないし」
一応、昨日の失態は反省しているつもりだ。
「すみません。私も先生伝手に聞くことの方が多いものですから」
自分の過去や人格に自覚が無いっていうのも恐ろしいな。そういう不便さが彼女の障害なのだろうけれど。
ともかく、何も進捗もないまま世間話のようなことを話しつつ、後輩が現れるであろう昼休みまでの時間をサイコと二人で過ごした。
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