才子26
眠り、起きる。それを幾度か繰り返しても才子は部屋から出てこなかった。このまま放っておいてもいいのだろうか。雅について、雅の母親について、訊きたかった。
エミリーから得られる情報はあくまでも雅が5歳当時のものでしかないし、文通と言っても意識が通じているわけでもない……という設定でいるのだから、雅の本心や当時手紙に書かれていた『赤いの』や『怖い人たち』――これはテロリストだと思われる――、それと言葉の分からない人たち――これは異国でテロに巻き込まれたのだから保護施設で日本語が通じなかったことを意味しているのだろう――そうしたことしか聞き出せなかったのだ。それも当時の雅自身、ショックもあったのだろう。ひどく曖昧で断片的な記述になっていたらしい。受け取ったエミリーも困惑するような。
鍵はやはり雅の精神と直接繋がっている才子だった。しかし、才子自身迷っているのかもしれない。最終的に決めるのは『上位存在』である雅であるとはいえ、才子の場合に限れば人格の一人ではないのだから消える消えないが才子自身の手に委ねられている可能性がある。
才子自身は消えたくはないと言っていたが、一方で周囲とのコミュニケーションが取れないという雅の成長を自分が居ることで阻害しているのではないかとも言っていた。
人の中に人が住んでいて、完全に意識が通じていて何でも話すことが出来る存在。傍から見れば自己完結に過ぎないのだけれど、そうした存在が一人でも居ることで人は満足してしまい、それ以外の人間関係を必要としなくなってしまうのかもしれない。
『唯一絶対の理解者』――言い得て妙で、確かに自己の中の別人に勝る理解者など存在しないだろう。完全なる理解など、他人同士の間では成立し得ない。いくら言葉にして伝えようとしても気持ちの全てを伝えきれないことの方が多いものなのだ。しかしだからこそ、人は人を理解しようと努力する。
才子が存在することで、雅はその努力を放棄してしまっている。
才子は消えたがっていないけれど、消えるべきだと思い悩んでいるのだろう。何が雅にとって一番いいのか。自分が消えることによって雅はどうなってしまうのか。いつかは消えなくてはいけない日が来るにしても、それはいつにするべきなのか。一人で多くの思念を抱え込んでいるのではないだろうか。
僕たちは、副人格は、才子と共に生活しているというのに、助けることは出来ないのだろうか。僕たちは、才子と同じように雅を理解してやることは出来ないのだろうか。才子を通してではなく直接的に、人対人として。
それは、多重人格者の一人格に過ぎない我々には出過ぎた真似なのだろうか。才子も雅も守りたいだけなのに。何で、僕じゃなくて才子だったんだろう。抱え込んだ荷物をほんの少しでも肩代わりしてやりたかった。けれども才子は部屋の扉を閉め切って体全体で拒否している。僕たちが彼女の部屋に入り込むことを。
何日かが過ぎ、一人足りない食卓を繰り返し、僕はついに痺れを切らして才子の部屋の前に立っていた。
ノックをする。返事はない。
「才子」
声を掛ける。返事はない。
「訊きたいことが山ほどある。話したいことも山ほどある。何か思い悩んでいるとしたら話してほしい」
それでも返事は無かった。
「雅のこと」
声に出して発声すると、鼓動が早まる。今ここで出すのは反則である忌み名のような気がした。安直にも僕は、雅の名前さえ出せば最期にはこの扉は開くだろうと思っていた。しかし、それでも返事は無かった。
扉に手を突いてよろよろと膝を折る。両手で拳を作る。僕は無力だ。もうこの扉を開くために出来ることは無いのだろうか。でも、誰にも言えない。才子が僕にだけ語ってくれたことを他人に漏らすことなんて出来ない。彼女がこの館で暮らすことの孤独を、僕たちは誰一人本当には理解してやれない。――無力だ。
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