才子10

 スティーブを部屋に案内するため、才子は彼を伴って退出した。僕の初日もああいった感じだったのか。違うのは、スティーブがここの事情を少なからず知っていそうなことだった。

 入る前から知っているということは有り得るのだろうか。才子の言葉によればそういった人物も過去には居たらしい。やはり僕の知らないテレビ番組か何かなのだろうか。だとしたらとんだ茶番である。

 古い中で、満咲ちゃんに訊いても分からないだろうから悟に訊いてみることにした。

「悟、いいか」

「耳に障るんだが」

 こいつは聴覚過敏なのだろうか。しかし聞く耳は持ってくれるらしく、しんどそうに頭を上げて体勢を変えた。長い前髪の間からうすぼんやりと鈍く光る瞳が見える。

「スティーブは『吉田さん』を知ってるみたいだな」

「俺ももう覚えてはいないがな、最近『消えた』のは吉田っていうのか」

「そうだ。記録に書いてあった。『吉田さん』はここの構造を理解していたらしいとも」

「中に居ても解明可能なのか」

「少し考えればわかるそうだ。賢い人物ではあったらしいけど」

「賢ければ分かるようなものなら俺らは能無しというところだな」

「才子が以前にもスティーブのように館内の事を知っている人間が来たことがあると言っていたが、悟に心当たりはないか?」

 固唾を飲んで悟の返答を待つ。

「……さぁな。これだけ話した相手もそうはいないし、誰と何を話したのかもよく覚えていない」

 がくりと肩が下がる。やはりそうか。仕方のないことなのかな。記録しているのは僕だけのようだし。

「その記録というの、見たらだめかのう?」

 そばでコーヒーを煎れていたGさんが声を掛けてくる。今は次の一杯のドリップの最中らしい。館内の人間に脱出に関する件に興味を持ってもらえるのは嬉しいことだった。

「いいですよ、すぐお持ちします」

「頼んだぞ」


 部屋から持ってきた日記帳をGさんは老眼鏡を通してじっくりと読み込んでいた。時折手を止めてコーヒーを啜りながら。

「『吉田さん』というのは随分な才媛であったようじゃのう。才子を通さずに真相に辿り着くものがおったとはのう」

 Gさんもまた外には出たことがないと聞く。僕と同じく外の様子が分からない分、脱出したい思いは強くあるのかもしれない。

「わしの物忘れも年の所為とばかりは言えんようじゃな。皆、一様にわすれるのじゃからな」

「その忘れるっていう仕組みもよく分からないんですよね。『消える』と館内の人間には忘れられてしまう。しかしスティーブは『吉田さん』を知っているようですし」

「不思議なこともあるものよのう」

「テレビ中継でもされているんでしょうか。そんな映画がありましたよね」

「はっは。それこそ誰が得をするんじゃ。娯楽として楽しむには悪趣味が過ぎるじゃろう。それにテレビ番組と言えども人の記憶を操作できるとも考え難い」

「眠っている間に何かなされているだとか」

「窓も玄関もないこの館にどうやって人が入ってくるのじゃ。……いや、待て。入ってくることは可能じゃな。わしらもこうして館内に居るんじゃし」

「夜中だけ何者かが侵入しているんでしょうか」

「ううむ、無いとは言い切れんな」

 例えば脳科学者などが入ってきて夜中に施術を施しているのかもしれない。もっと言えばテレビ番組ではなく、ここは何らかの研究機関であって、僕たちは研究対象として選ばれて記憶の研究に使われているのでは……。スティーブが関係者であれば『吉田さん』を知っていたことにも納得がいく。

「色んな可能性がありますね。何らかの研究かもしれませんし」

「そうだとしたら迷惑な話じゃ。記憶をなくす前のわしらが契約したのかも分らんけれどもな」

 はっはと笑い、Gさんはコーヒーカップを傾けた。

 心理実験か、そんな映画もあった。看守役と囚人役とに分かれて生活する。その異常な状況はやがて看守役の暴走を招き破綻する。実話を基にした映画だったな。スタンフォード監獄実験――。

 現段階では有力な線かもしれない。僕はGさんに話を聞いてくれた礼を言うと、戻ってきた才子に新たな書物を要望するのだった。果たしてそれはすぐに手元に届いた。

 心理実験についての本だ。僕は部屋に持ち帰ると眠気が訪れるまで読み耽るのだった。

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