才子3
明くる朝、といっても眠ったのかどうか、窓のないこの空間で本当に朝が来たのかも分からない。けれど、ベッドの上で「目覚めた」のだから、恐らく眠っていたのだろう。夢も見なかった。
日記帳を取り出し、昨日書いた内容を確認する。何かの病気で一日ずつ記憶が失われているのかもしれないと危惧したからだ。しかしそれは杞憂だったらしく、書いてある内容はきちんと僕の記憶と一致していた。
「ふみゃー、朝ごはん食べよう」
こんこんとノックの音に交じって満咲ちゃんの声がする。どうやら朝ではあるらしい。ここの人たちがどうやって時間を把握しているのか分からないが。そういえば時計やカレンダーといった日時を示す類のものは何一つ見かけていない。
広間に向かうとバイキングの様相を呈していた。食べ物はどこから来るのだろう、そう思ったのも束の間、満咲ちゃんに急かされるように皿を渡されてサラダだの果物だのハムだのサンドイッチだのを次々と盛り付けていく。
見回すと各々好みの物を食べてはいるのだが、どうやらそれぞれに偏食が著しいらしかった。
満咲ちゃんの皿はケーキやプリンなどの甘いデザートだらけだし、Gさんは昨夜と変わらずブラックコーヒーの満ちたカップを傾けていた。瑠璃子はスムージーのような緑白色のどろどろした液体しか口にしていないし、才子の皿は様々な果物で彩られていてまだ健康的な方だった。吉田さんは淡々とトーストにバターを塗ってサラダや卵と共に非常に優等生的な栄養摂取をしている。
彼らは(吉田さんを除いて)偏食とは言え、食べているだけまだ良かった。悟は昨夜と同じ部屋の隅で膝を抱えて虚空を眺めているだけだった。
「悟」
思わず声を掛ける。
「食べないのか?」
「ああ……ええと……食べなくても、死にはしない」
いや、死ぬだろ。常識的に考えて。
「今日だけなのか?」
「……いいや。いつものことだから。俺のことは放っておいてくれ。他人の声は耳に障るから」
少々カチンとくる物言いをする。そんなに一人で縮こまっていたいなら広間に出てこずに部屋でじっとしていればいいものを。
「ふみゃー、食べないの? 悟はいつもそうだから平気だよ」
いつも、って。悟はいつから絶食しているんだ? 何故生き永らえている?特異体質か何かなのだろうか。
諦めて立ち去ろうとした瞬間、背後でぼそりと呟きが聞こえる。
「……人は、楽しむために食事をするんだよ。だから俺には必要ない」
振り返ると、膝に頭を埋め込んでいる悟の姿があった。
才子は赤い色のマスカットを房ごと掲げて口を付けている。曰く、一見葡萄だが紛うことなきマスカットなのだそうだ。舌を出して粒を拾い、かつりと小さく歯の音を立てて大ぶりな一粒丸ごと食していく。その造作に妙に色気を感じてしまい恥じ入る羽目になった。食べられる自分を想像するなど。
出来れば普通に食べてほしい。思いながら、僕はといえば房から一粒ずつちぎってはもしゃもしゃと溢れる果汁を味わっていた。
しかし妙な感覚がある。味を感じないのだ。なるほど、悟の言う楽しみが味覚であって、それがなければ食事の必要はないというのは一理あるのかもしれない。
この感覚は、何だろう。彼らが偏食であったり、吉田さんが栄養優良児であるのには、彼らが彼らであるべきアイコンでもあるかのように思えてきた。彼らは、これらを食すべきであったり、食さないべきであるのだ。それで各々偏食に陥っているのだ。誰に説明されたわけでもないが、なぜか理解できてしまった。
才子が、こうした妙な食事法を見せびらかしてくることさえもその一環であるかのように思えてくる。
雑多な皿を眺めながら考える。僕は今日から何を食せばいいのだろう。何を食すべきか、が正しいのだろうか。それが決まってくれば僕が何者なのかの記憶を取り戻せそうな気がしてならなかった。
僕がどういう人間だったのか、まだ遠いところに居て、ここに居る彼らは僕よりもそれに近づいている。没個性が個性に変容していく。ここでは食事さえその過程に過ぎないのだ。寧ろ、食事には生命維持ではなく、人格の維持としての必要性しかない。
それならば、僕よりも悟の方が余程「近い」のだ。
そうして「近づいた」時、外に出られるのだろう。
才子の果物を食べても味はしなかった。
瑠璃子のスムージーを飲む。味はしない。
Gさんの珈琲を飲む。味はしない。
満咲ちゃんのデザートも、吉田さんのブレックファーストプレートも。
どれも味がしない。
この中には僕が食すべきものはないのだろう。
そして悟も、これまで見つからなかったのだろう。
その場に用意されていたものを一通り食べても味がしないので仕方がないかと思い、和定食でも作ろうかと才子に頼んで白米に納豆、卵焼きに味噌汁を用意してもらうと、残念なことに美味しく味わえてしまった。
没個性が僕の個性なのかもしれないと思えば複雑な心境ではあったのだが、ひとつ自分の居場所を確保できた気がしたのだった。
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