サイコ4
三度の合図らしきノックの後、開かれた扉の先には誰も居なかった。
視線を落とすと、小さな女の子の姿が見えた。白色でストラップ部分がレースになっているシンプルなワンピースを着ている。年の頃は就学前後か。
「ふわっ? お客さん?」
その子は目を丸くしてサイコに尋ねる。サイコは指先を唇に当てて、しーっとしてから、頷いた。
「この子はナルコといいます。いつも鍵を開けてもらっていて、この子もここの小児精神科に掛かってるんですよ」
小さいのに大変だな。サイコの話し振りや時間的に考えても入院患者なのだろう。どういう病気かは知らないが、こんなに小さいうちから入院とは。
「よろしく、ナルコちゃん」
横で後輩が挨拶をするとナルコはサイコの陰に隠れてしまった。成る程、人見知りか。
軽くショックを受けている後輩の肩を叩いているとサイコがハイヒールを脱いで裸足になりながら訊ねてくる。
「どうしますか? 中まで入ってみますか?」
いいのだろうか。分からないけれど、好奇心が勝って気付くと頷いていた。
足を踏み入れたは暗がりの病棟。先程の排水路よりはマシだがこれはまた別種の不気味さを覚える。誰もいない暗い廊下に緑の点灯が遠くに見える。
サイコはナルコの手を引いて歩きだす。自分たちもそれに続く。
何となく、声を出してはいけないような気がした。昼間の警備員の様子から、自分たちがこの病院にとって招かれざる客なのは理解できていたから。声を出して夜勤の人間に見つかると面倒そうだと思ったのだ。後輩はといえば、別の意味で声も出ない様子だが。
サイコがどこに向かうのかは分からなかった。サイコもナルコも黙っている。サイコが外出するのは本来禁じられているようなので、外から病院に出戻った時にはこれが常なのだろう。
全員がそれぞれの理由で押し黙ったまま無人の廊下を行く。昼間の警備の様子からすれば夜の病棟は何と不用心なことか、見回りもなく、あるいはサイコが記憶していて巡回ルートを避けているのだろうか、院内の人間には誰にも遭遇しない。
階段で三階まで登ると先行していたサイコが重々しい扉を開いて隙間から左右を確認すると後続する自分と後輩を手招きした。
三階の廊下を少し歩くとサイコは鍵を取り出して一室の鍵穴に差し込んだ。手慣れたように音もなく開錠すると四畳ほどの個室に招き入れられた。
全員が室内に入るとサイコが口を開く。久し振りの、音。
「今日は、大冒険でした」
手にしていた黒いハイヒールを大事そうにクローゼットへとしまう。
「ここはサイコの病室か?」
「そうです。個室を宛がわれています。事情がありまして」
事情って何だ。訊こうとするがサイコは気にする素振りもないし、あまり立ち入った話をするのもどうかと思い口を閉ざした。
「いつもは決まったルートしか周らないものだから。神社まで行ったのは初めてでしたし、缶飲料に触ったのも、それから、外の人とお話して招き入れてしまうなんて大胆なことをしてしまうだなんて、自分でも驚きです」
「なぜ院内まで連れて来たんだ?」
「だって、興味がお有りだったんでしょう?それと、退屈凌ぎです。いつも変わらぬ生活をしていて、何も刺激がないものですから。院内の様子はいかが?」
「不思議なくらい無人だな」
「あまり人が外に出てこないの。見回りはうまく躱して歩いてきたのだけれど。この病棟は患者同士の関りも薄くて。私も、この子くらいしか話し相手はいないんですよ」
言いながら、サイコはナルコの髪を撫でる。随分懐いている様子で、ナルコは心地よさげに目を細めている。
「ナルコちゃんと同世代の子はいないんですか?」
「ここは精神病棟だから、なかなかね」
このくらいの年の子が入院するのだから、分からないながらもナルコの症状はそれなりに重いのだろう。あるいは、親が原因の何かなのだろうか。虐待が原因で病気になっただとか、死別して心に傷を負っただとか。その割には仕立ての良いワンピースに整った髪といった風貌で、身なりが良いのだが。
「ナルコは私と似たような症状なのよ。子供なら珍しくはないんだけど、親御さんが心配してね、それが原因で同年代の子とも遊びたがらないらしくって」
サイコが説明する。似たような……か。
「サイコは」
「はい?」
「サイコの病気は何なんだ?」
「ああ、ええと……私は病気ではないの」
……は。息だけが漏れた。じゃあなんだってこんなところに居るんだか。
「義務だからよ。私自身は健康」
どういう意味かうまく解せない。病気でもないのに個室で長々と入院生活を送ってわざわざ外に忍び出てるっていうのか。
「そういうことになりますね」
頭の中に次々飛び出してくるクエスチョンマークは一つずつ解き明かしていくしかないようだった。
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