才子2
この空間は館と言って差支えない程の広さを有しているが、案内がてら才子に聞いた話では何処にも窓や玄関はないらしい。それでどうやって外に出る者がいるのか不明だが、訊いても教えてもらえないのは僕が新入りだからなのかもしれない。
消えるという現象がどんなものか分からない今、目的は外に出ることと設定した方が良さそうだ。
そうこう考えているうちに才子に案内された先は、館の一室というよりはワンルームマンションの一室といった方が具合が良かった。
キッチン付き、風呂トイレ別。六畳程で大学生が地元を離れて初めて一人暮らしを始めるに相応しいような部屋だ。
どうやら公衆浴場などはあったとしても使う必要が無さそうだ安心した。Gさんや悟と裸の付き合いをしろと言われたら多分僕は困惑する。
案内を済ませた才子が出て行くと、洗面台に対面する。僕はこういう顔だったのかと思う。
敢えて何か言う程、特徴があるでもない。ただ、自分の顔さえも覚えていなかったものだから。そうして暫し自分の顔を眺めていた。
不安だが、目覚めた時の酷い頭痛は既に消えていた。
「欲しい物があったら言いなさいね。調達してくるから、あなたは何もしなくていいわ」
才子の言葉を思い出す。後で請求することもないそうだ。吉田さんの読んでいたいかにもマニアックそうな洋書もこうして手に入れたのだろう。
僕は一先ずメモとペンを頼んでおいた。明日、朝起きて全てを覚えている保証はないから。起きているうちに記録を付けるべきだと思ったからだ。
部屋の様子見と場所を覚えたら応接間に取りに来るように言われていた。しかし、全面白で代わり映えのない廊下の中から自分の部屋を覚えるのはなかなか難儀そうだ。一応、扉の横に『文也』とネームプレートがあるのだが、僕が名付けられたのはついさっきで、いつこんな物を用意したのか疑問ではあったのだが、この空間で気にするには非常に些末なことだった。
「ふみゃー! 迷っちゃった? 才子が待ってるよ。頼まれた物持って来たんだって」
分かりにくいにも程がある廊下を彷徨っていると満咲ちゃんがトテトテと小走りで迎えに来てくれた。
「まさに困っていたところだよ。迎えに来てくれてありがとうね」
再び満咲ちゃんに連れられて白い廊下を歩きながらさっきまで居た黒の応接間へと向かう。
応接間に着くと、白から黒への世界の変遷に目が眩みそうになる。これも慣れが必要なのかな。
頭をふわふわとさせたまま才子に話しかけると頼んでいたメモとペンを渡されたのだけれど、僕は大学ノートとボールペン程度の物で良かったのに、ご丁寧に立派な装丁の厚い表紙のメモ……というか日記帳と、インクカートリッジ式の高価そうな万年筆を渡された。
「そんな物で良かった?」
「いや、予想外に立派な物が来てびっくりしてる」
「あら、そう? また何か入り用なら言いなさいね」
僕はソファに掛けると机上に日記帳を開き、これまでのことを記し始めた。
記憶喪失のこと、頭痛、満咲ちゃんに付けられた自分の名前。住人の名前と特徴、応接間から部屋までの地図……。
それから、才子から聞いた話。
記憶喪失や名前がないのは珍しくなく、外に出る者と出ない者が居て、消えることがあるということ。
取り仕切る長の役割は黒い服の才子が担っていることなど。
こうしている間も他の人達は先程と変わらない様子だ。
悟は部屋の隅で何かに怯えているし、瑠璃子はイライラしたようにネイルアートの施された派手な爪を噛んでいる。吉田さんは微動だにせず洋書のページだけを捲り、満咲ちゃんはうさぎやくまの人形と戯れている。Gさんは香りの良いブラックコーヒーのカップを傾けながら全員の様子を見守っていて、才子は、足を組んで1人掛けのソファで休んでいた。
そのうち1人ずつとじっくりと話をしてみたい。特に外に出ているという人達とは。
「外に出るには条件があるのか?」
頬杖をついていた才子に問うてみる。
「条件……そうね。あるにはあるわよ。必要な時ね。こちらの都合は御構い無しよ。私は自分の意思で出ないようにしてるけど、そんなの出来るのは私だけだわ。あなたの番がもし来れば拒否権はないから」
「悟が怖いって言ってたけど、外は危険なのか? 戦争があってここはシェルターとか?」
「どうかしらね。まぁ、考えようによっては似たようなものね」
「はっきりしないな」
「はっきりさせられないだけよ」
薄々感じていたが、長とはいえ才子の上位存在の気配を感じる。言えることと言えないこととは才子の独断だけで決めているわけではなさそうだった。
「才子は誰かからここの管理を任されてるのか?」
「別に。私は居たいから居るだけで、やりたいようにやってるだけよ」
「……そうか」
今はこれ以上聞き出せそうになかったので口を噤んだ。Gさんが、飲むか?と珈琲を勧めてくれたが眠る前だったせいもあり断りを入れると、夜も更けたのかここでは判断が付かないが、各々が解散し始めたので僕も満咲ちゃんに連れられて自室に戻って行った。
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