才子1
目が覚めると真っ白な天井と目が合った。目が開いているか確かめる。どうやら開いている。起き上がればただ長く続く一本の廊下しかない。
どうしてだろう。思い出そうとする。しかし何も思い出すことが出来ない。自分の名前すらも。
ただ、ひどい頭痛がする。頭を打ったのかもしれない。額に手を当てて痛みと記憶とを回復しようとしていると
「お兄ちゃん、だぁれ?」
不意に幼い声を掛けられる。振り返ると、フリルだらけのワンピースを着た幼女が屈んでこちらを覗き込んでいた。いつから居たのだろう?
「それが、分からないんだ。自分がここに居る経緯も、自分の名前すら思い出せない」
「そっか。名無しのお兄ちゃんだね」
一大事だというのに何でもないように返される返事に拍子抜けする。年の頃は6歳というところか。就学前後程度と見えるから、記憶喪失という事の重大さをまだ理解できないのかもしれない。
「そうしたらね、えっと、ふみゃ……ふみゃ。文也お兄ちゃんね。満咲、決めちゃった」
幼女は唇に指を当てて暫く考え込んだ後、急な提案をしてきた。どうやらこの幼女はミサキというらしい。そして訳も分からぬまま自分には文也という名が付いてしまったようだ。まぁ、一時的なものだ。この場所で名乗るだけに過ぎない。
「うん。じゃあ文也で。よろしくね、満咲ちゃん」
手を差し出すとさっと後ろに隠していやいやと首を横に振る。
「触るのはだめなの。満咲、嫌なの」
「あ……そうなんだ、ごめんね。知らなくて。」
「いいの。ねぇ、みんなに会わせてあげるからこっちに来て。こっちだよ」
他にも人が居るのか。良かった。この子だけだとこちらも何も分からない。大人が居れば何かしら情報は得られるだろう。
言われるがまま付いて行く間に気付いたが、この長い廊下には窓が一つもない。ただ白い天井と壁と床とが延々と続き、遠近感覚さえ狂ってしまいそうだった。この上更なる不便を増やされるのは御免被りたい。
暫く廊下を進む。代り映えのない情景に、自分が何者かも分からない不安、弱まってきたが未だに続く頭痛で時間の流れが酷く遅く感じる。
満咲ちゃんは小走りしているが子供の足だ。そうペースが速い訳でもない。揺れるツインテールを眺めながら、心に宿るもどかしさは否定できなかったが、今はこの子の案内に頼る外ない。
いやに時間が長く感じられるのでどれくらい時間が経ったのか分からないが数分かそこらだったのかもしれない。
案内された先の扉を開くと白一色だった廊下と一転して黒い空間に赤いソファが置かれただけの簡素な広間があった。
中には数人の人物が見える。髭を生やし身なりの良い初老の男性、隅で身を縮こませているひょろりとした体型の顔色の悪い青年、頻りに爪を噛む髪色の明るい若い女、こちらを気にせずに分厚い洋書を読み続ける女学生、それから、1人掛けのソファに座る全身黒服のモデルのような綺麗な痩せぎすの女。床に座る青年以外は皆ソファに掛けている。
大人はいる。少し安心した僕はそれぞれに軽く会釈をしてひとまず自己紹介を兼ねて挨拶をすることにした。紹介するような自己の記憶などないのだけれど。
「はじめまして。あの……先程、この子、満咲ちゃんに文也と名付けられました。名付けられたというのは、その、名前も何も自分のことを全く覚えていなくてですね……。ここは一体何処なんでしょう?」
恐る恐る口を開く。とにかく現状を把握しなければならない。
僕が質問すると全員が黙って黒服の女を見る。
黒服の女は立ち上がり、カツカツとヒール音を立てながら近づいて来る。奇妙な圧迫感に思わず退きそうになるが、何とか踏み留まる。
「そう、新入りね。大体満咲が名付けるのよ。楽しいみたい」
黒服の女が言うと、満咲ちゃんは先ほどのように、笑いながら僕を指差してふみゃふみゃと繰り返した。
「記憶喪失って言ったって、ここじゃ珍しいことでもないわ。私は才子。長みたいなものだから何でも聞いて頂戴。言える範囲で話してあげる。ここは、まぁ、隔絶された場所よ。それだけ分かれば今はいいわ。ここが何処なのかあなたに分かる日が来るかは私は知らないけれど、私からは教えてあげられないの」
サイコと名乗った女が手を伸ばして来たので握手を交わす。その手は氷のように冷たかった。
「あっちのはGさん」
初老の男性を指差して紹介が始まる。
「ジョージじゃよ」
「爺さんなんだからいいじゃない。満咲が付けた名前に文句言わないの。Gさんも名前がなかったのよ」
記憶喪失が珍しくないだとか名前がないだとか平然と言う才子に僕は戸惑っていた。
「で、あっちで縮こまってるもやし男が悟。サトルって書いてサトリね。あの子は最初から名前があったの。それから金髪のギャルが瑠璃子。そこで本を読んでるのは吉田さん。」
サトリにルリコにヨシダさん。何故、吉田さんだけ名字なのか不明だが、敢えて突っ込まないことにした。
「他に住人はいるんですか?」
「今はこれで全員よ。増えたり減ったりするけれど。今日、あなたが来たみたいにね。」
「減るってどういうことですか?」
「さぁ?私に訊かれても分からないわ。突然跡形もなく消えるだけよ。その後のことは私も知らない」
才子は平然と説明するが、僕は背筋が寒くなるのを感じた。消える……?
「あの、外に出る方法はないんですか?」
「私は自分の意思でここに留まっているけど、満咲や瑠璃子なんかはたまに出るわよ。他の子も。悟やGさんは滅多にないけど、出たことあったかしらね?」
Gさんは首を横に振る。
「わしはまるでないのう。外に嫌われとるんじゃろ。外出の必要も然程ないから構わんよ」
「悟は?」
「……無いわけじゃない。でも何もしなかった。ここの外は怖い」
俯いたまま悟が応える。外が怖いって、獣でもいるのだろうか。例えばここはシェルターか何かなのか?
分かったような分からないような、しかしどうやら出入り自由とはいかないことだけは理解した。
「もういい? 私たちは大体みんなここに集まってるけれど、それぞれ自室は持ってるの。文也の部屋に案内するから付いて来て」
才子に言われて、全員に向けて会釈をすると遅れないように後を付いて行く。
速足で、ピンと背中を張り颯爽と歩く才子のウォーキングはファッションモデルそのものだった。
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