セカイはとっくの昔に、終わってたんだよ

今村広樹

本文

創作方法で1つの虚構を見せるのにディテールを細かく固めていくタイプと、1つの虚構を作りだすのに細かい部分を犠牲にしてでもその虚構に殉じるという2つの型がある

近作で言うと『シン・ゴジラ』は前者で、『君の名は。』が後者といったところか

僕は後者にシンパシーを感じるが、それとは別に「そもそも創作でどの部分を重んじるかの話であって、そこまで対立するものかね」とも思う

しかし、世の中にはそう思わない人もいるらしく、ある記事では、『シン・ゴジラ』は「登場人物や喚起される映画的記憶や、実際に怒った東日本大震災を想起させるモノがが機能としてしか使われない娯楽作」であり、

一方、『君の名は。』は「アニメーションという表現を使って、忘れることへの悲しみを描いた」作品と書かれている

しかし、2つの作品をそのように比較する事が、逆にその作品を見失ってしまっては、いないか?

『シン・ゴジラ』と『君の名は。』にあえて共時性を見出すとするなら、庵野、新海両氏が過去の自作すら引用できる『余裕』をうている、という事だろう

つまり「勝手に、色々語ればいいよ、僕等は好きにする」とこうしてこの文章を書いている僕を含めて、置いていってしまったのだ

あるいは、とっくの昔に終わっていたモノが、作った当事者によって、改めて終わったと宣言されたのだ

ならば、僕等も、どんなに寂しくても、『セカイ系』なるモノから、出ていかなくては

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