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25
※
夕暮れは終わり、本当の月明かりの下で。
許子は携帯端末に向かい、コールのサインを送る。
学生時代は毎日のように使っていた機能だったが、こうして社会人になると私用の通話はめっきりと使わなくなった。今だって、決して私用という訳ではない。現状の報告と、上司の安否の確認だ。ホウレンソウ、ホウレンソウ。
やがてスピーカー越しに、低い男性の声。
「ああ、猪原さんか」
こちらが一体何度電話を掛けていたのか、まるで事情など知らない風に九条が言葉を放つ。
「そっちはどうなってる? 大丈夫」
「大丈夫、じゃないですよ!」
思わず出た大きな声を潜め、隣にいる老婆に笑みを向ける。
この老婆は亡霊ではない。作り物の笑顔ではなく、生者として困った顔を作ってみせる。許子は軽く頭を下げ、電灯に照らされた室内から、薄暗い縁側へと移動する。響いていた虫の音が鳴り止んだ。
「九条さんの方こそ、何度電話しても出ないし、接続されないって出るし、なんか元の――」
ん、と言葉を詰まらせ、咳払いでごまかす。
「夜に、なっちゃって……」
声を潜めて伝えると、向こうから「ああ」と軽い調子で帰って来た。
「僕の方でシステムが落ちたからね、その眼鏡も落とされたんだろう。まぁ、盗聴とかはされないようにしてあるからいいけど。ん、それじゃ、猪原さんは今何処にいるんだ? ちゃんと帰れた?」
「帰れる訳ないじゃないですかぁ」
泣き言という程ではないが、語尾は弱くなる。
許子が振り返ると、明るい居間で老婆がリンゴの皮を剥いている。
「九条さんがどうなったか解らないし、終電も逃しちゃって……それで途方にくれてたら、宗さんっていうお婆さんが声をかけてくれて、なんとか家に泊めて貰ったんですけど……」
「ああ、役場の」と九条。どうやら老婆を知っているようだ。
「それじゃあ、君が潜入していたのはバレてはいない、ってことか。多分、普通に親切で泊めて貰っているんだろうから、失礼の無いように。くれぐれも新興宗教だとか、D率が高いとかは話題に出さないでおくんだ」
後者については、既に話してしまっている。許子の冷や汗。
「細かく指示したい所だが、その村でそれ以上変な事はしたくない。猪原さんは大人しく世話になって、朝一で帰りな」
「ええ、最初の所、私も同感です……」
最後に軽く挨拶をかわし、許子は通話を切った。切ってから、九条の身の安否の確認をするのを忘れた事に気付く。とはいえ、掛け直す気持ちが磨滅するくらいには、今日の事で頭が一杯だった。
「上司さんと電話できたん? 大変やったね」
居間に戻ると宗が優しく声をかけてきた。許子は卓袱台の前に座り、勧められるままにリンゴを口にした。
「ほんま迷惑かけてしもうて、村のもんがようけ酒飲ませちゃったしなぁ」
「いやぁ、はは、なんとか酔いも醒めました」
正直に白状すれば、村のもう一つの風景を見た段階で、すっかり酔いなど醒めていた。しかし、村の中をふらふらしているのを見つけられ、声を掛けられた段階で観念し「酔っぱらって終電を逃してしまった」と、もっともらしい嘘を吐いた。老人達の言い訳の出来ない所を逆手に取ったようで、いくらか気が咎めはするが。
「そりゃ大変やねぇ、新しい職場なん」
いつの間にか、リンゴを茶うけに――合う合わないは別にしよう――茶飲み話へと移行していた許子。宗を相手に、ここ最近のストレスの原因を言い立ててしまっていた。勿論、不必要に警戒されるような文言は避けた。
「私も村に来たばかしの頃は、よう馴染めんで、えらい思いしたけぇど、今はあんじょうやっとる。お姉ちゃんも、その内慣れてくるよ」
「ありがとうございます。宗さんは、こちらに嫁いでこられたんですか?」
「そうや、生まれは兵庫でなぁ、今のお姉ちゃんの歳くらいに、旦那の所へ来たんや」
何かを懐かしむように、宗は日焼けして皺だらけの自身の手を見つめる。
「旦那も仕事が忙しい身やって、子育ても私一人だけでやったようなもんじゃったけぇど、息子も一人立ちして、それに旦那が腰をいわしよってからは、村で静かに暮らしとるんじゃ」
そこまで言ってから、宗はどこか視線を遠く彷徨わせ、ばつが悪そうに口籠った。
「お茶、無うなってるね。待っとっちゃって、今、新しく茶ぁでも沸かすな」
「あ、私がやりますよ」
腰を曲げる老婆を制し、許子は台所へと向かう。宗もそれ以上は無理を通さず、皺に埋まった目を細めて笑った。
――この人達は、決して悪いことをしている訳じゃない。
台所に入って戸棚を開ける。急須を探しつつ、許子は漠然と老人達の事を考えた。彼らは本当に普通の老人で、ただ自分達が大事にしているものを壊されたくなくて、必死に信仰を守り通している。その為に、村のインフラを誤魔化し続けている。それは確かに悪い事だ。しかし、だからといって自分がそれを糾弾できるだろうか。何も知らない、役人風情が。
「わっ」
徒然に考えていたせいか、疎かになった手許から茶筒が抜け、床に茶葉が広がった。
――どうしよう、謝らないと。ううん、その前に掃除しなくちゃ。
台所を抜け、廊下に出る。許子は納戸の傍に箒が置いてあったのを覚えていた。スリッパのまま、いくらか古びてツヤを無くした板張りの廊下を歩く。すると、その先の部屋の襖が開けられているのに気付いた。
「こっちゃ来ないな」
声は襖の奥から聞こえてきた。
自分が呼ばれたのか確信は持てなかったが、誘われるままに許子は奥へと歩む。
「あ」
思わず叫びそうになるのを必死に抑える。あれだけ幽霊のような物を見た後でも、いきなり予想外の物を見れば身が竦む。
「あんた、市の人やろ」
部屋の奥で、電灯も無く、限られた月明かりに影を見せる老境の男性。彼は、和室の半分を占めるベッドに縫い付けられているようにして、首だけをもたげて許子を見据える。弛んだ皮膚に、破れてしまいそうな細い首。気色は優れないようで、双眸には力が籠っていない。
「あの……、宗さんの旦那さん、ですか?」
許子の問いに、男性はゆっくりと頷いた。
弱々しいその様子に、許子は昼過ぎに彼を見ていたことを思いだす。窓辺に見えた寝たきりの老人。その時は終末期医療の一つの形だと思ったが、今では別の見方ができる。彼の老人はベッドと一体になった端末によって、もう一つの村に没入しているはず。恐らくは九条の言う所の「生身では手に入れられない自由を謳歌している」のだ。
「えっと……」
「アンタ、さっき会うたな」
「あ、ああ、昼過ぎに家の外から見て――」
「そうやない。ひまわりの國の中でじゃ」
その言葉に、許子は思わず弾かれるように身を引いた。
あの、その、と口籠る許子に対し、老人は初めて微笑んでみせた。痙攣にも似た痛々しいものではあったが。
「碁に誘うたじゃろ」
許子は「あの時の」と言葉に出してから、咄嗟に口を押さえた。
「ええよ。あれはそうか、死んだ花田のアカウント使っとっちゃったのか」
この老人は一体何を言うつもりなのか。身震いもするが、穏やかな様子に心を許し、小さく頷く許子。
「ええもんやな。俺は動けんけぇど、ああしてアバターなら村の中を歩ける」
アバターということは、あの時、ベンチに腰かけていた老人は投影されていただけの幻という訳だ。それに対して少しでも反応してしまったのだから、こうして自身がログインしていた事が露見してもおかしくない。つくづく危ない橋を渡っていたのだと、許子は肝を冷やす。
「あ、あの、私は、理由があって――」
「アンタに、話したいことがあるんじゃ」
許子の言葉を遮って。
虚ろな表情とはそぐわない、強い意思を秘めた言葉に息を呑んだ。
借りた浴衣の襟を合わせ、許子は縁側へと出る。老夫妻は既に寝入った後だ。
ジージーと
あの中では、今でも老人達が西日に照らされて遊んでいるのだろうか。ここに在るのに、ここには無い世界で。
――ひまわりの國なぞ、まやかしじゃ。
最後、老人が吐いた言葉に、許子は正しく反応できなかった。
――何が御詞じゃ。全部、作り物で、騙されとるだけじゃ。
老人が語ったのは、この村を覆った影の、その元になった像。
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