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18

 許子が二ツ山村に着いたのは、昼過ぎを回ってからだった。

 最寄りの駅からでも数十分、のどかな県道をしばらく歩く。緑の山、青い空。柔らかな日差し。爽やかな風に、周囲の木々が揺れて。広がる田畑に郷愁の色。汗がしっとりとシャツを濡らしていく。


 ――良い雰囲気のところだな。


 電車に揺られている間は不平も漏らしたが、今となっては小旅行めいた現状を意識して、わずかに笑みが漏れる。


 昨日の事。

 例のトラフィックマッピングの作業を終え、小さな村のD率が異常に高いという、どうしても承服しかねる現象が起きた。初めての仕事での予期せざる事態。いざそれを相談しようと思っていた上司は一向に帰ってこず、仕方なしに家に持ち帰るも解決策は見えず、最終的に自身の異動を命じた課長に相談する羽目になった。


「じゃあ実際に行って確認してきて」


 返ってきたのは、そんな言葉だった。

 いくらなんでも、と思ったが次の瞬間には諦めていた。抑止課が役所の中でどう思われているのか、実によく伝わる一言。姿を見せない九条にも、面倒な調子で応じた課長にも、そして未だに何もかも上手くいかない己自身にも腹が立った。


 そういう時は気分転換するに限る。

 そんな前向きな判断の下、許子は午前の業務を切り上げ、二ツ山村への実地調査に赴く運びとなった。


 実際に何かが見つかるとは思っていない。単に通信量を図る機械が壊れているとか、そういう下らない理由がまずあって、九条もそれを理解してトラフィックマップの方を直して報告しているのかもしれない。かたや、それはそれで陰謀論的な謎を求めていない訳でもない。


 しかし、いざ二ツ山村に辿り着けば、そんな小さなロマンも吹き飛んだ。

 道々をランニングシャツ姿で歩く老翁たちの朗らかな様子。畔に止められたトラクター。野良仕事の手を休め、道端の地蔵に頭を垂れる老婆。遠くで吠える犬の声。とうとう、と山間に鳴くキジバト。どこまでも、のどかな風景。


 ――歩きやすい靴にすれば良かったかな。


 田圃風景と数えられる程度の人家。まっすぐに続く村道を歩く許子の表情に、午前までの陰鬱な調子は微塵も見えない。こうなれば伸ばせるだけ羽を伸ばしてみよう。そう考えた所で、許子の目に一つの光景が飛び込んでくる。


 道に面した敷地の中、瓦屋根の家の窓辺に映る人の影。虚ろな表情をした老人が、ベッドに横たわっていた。足を止め、垣根越しに注視すると、老人の寝るベッドに各種の機械が取り付けられているのにも気づいた。そこまで見止め、許子は再び歩き出す。


 終末期介護の在り方を大学で勉強した事もあったが、実際に目の当たりにするのは初めてだった。機械に疎い許子でも、あの老人の未来くらいは理解していた。彼は電脳化された介護用ベッドに張り付けられ、死ぬまで生かされるのだ。


 のどかな村の、影。


 ここに住む人達は、多くが死を待つ老人達だった。そうして村に暮らす人々は姿を消し、やがてはこの村そのものも消え果る。いかに交通が発達し、スープの権能が過疎地域の生活を潤そうと、その事実が覆された訳じゃない。この村もまた、死ぬまで生かされている、だけだ。


 許子は悲愴な未来に顔を歪ませるのと共に、浮かれていた自分を戒める。


 ――自分は市の職員として来ているのだ。


 何も市街地だけで業務を行うのではない。こうした地域の生活を支えるのもまた、自身の仕事ではないか。そうして許子は、それまで不遇を託ち、くさしていた己の職務への認識を改めた。

 職務を果たそう。そう決意した所で、ならば実際どんな調査をするべきかの判断が差し迫ってきた。


「人に聞くしか、無いのかなぁ」


 仕方なしに許子は、左右に比較的新しい家を備える、村のメインストリートと思しき場所を進む。先程から、何人かの村人とすれ違ったが、いずれも笑顔を向けるだけで特別話しかけるには至らなかった。


 ――これ以上やってると、変な人に思われるな。


 許子は覚悟を決め、白い軽トラの横で作業をしている老婆に話を聞こうと歩み寄る。


「あの、すいません。市役所の者なんですが」

「おお、また来とってや」

「また?」


 許子がいぶかしげな表情を見せると、老婆は顔をシワにまみれさせて答えた。


「昨日も役所の人が来とっちゃったのよ」


 はぁ、と返答する許子の脳裏に疑問と、一拍遅れて九条の顔が浮かんできた。それが答えではないかと、直感的に気付いていた。


「あの、もしかしてですけど、昨日来た人って、なんというかズボラな感じの人じゃありませんでした?」


 我ながらなんという言いざまか、と許子。


「おお、そうじゃな。いや、真面目そうな人じゃったよ。髭とか髪はあれだったがの」


 大いにポジティブな解釈をしてくれたが、九条で間違いないはずだ。

 恐らくは、一足先に九条もD率の異常に気付いたか、それとも自身の知らない所で既に仕事をしていたのか、とにかく彼は昨日の内にこの二ツ山村に来て作業を行っていたのだろうと、許子は推理した。


「そうでしたか、ええと、どんな仕事をしてたんですか?」


 言ってから気付いたが、まるで九条の行動を怪しんでいるような物言いになっている。単に会話を繋げようとしたのと、自分に黙って九条がどんな仕事をしていたのか、実際的に興味があったのと二つの理由がある。


「寄合の方の機械がな、わいはよう解らんが、市の方で必要な操作があるつうて、直しちゃったよ。ああ、なんか間違っとった? なら寄合の方に行くこ?」

「ああ、いえ……」


 悩む。

 元より許子に高度な作業ができるはずもなく、D率の異常について村人に二、三質問して持ち帰り、それを九条に報告するつもりでいた。しかし、既に彼は村に来ていたのだ。もしかしたら問題も解決しているかもしれない。だとしたら自分の行動は完全に無駄足だが、それは事前に言わなかった上司が悪い。ホウレンソウは社会人の基礎だぞ、と小さく憤慨する許子。


 だからといって、このまま帰ったのでは本当になんの為に来たのか解らない。ならばここは一つ、社会勉強だと思って、この村に暮らす人達に話を聞いてみるのも悪くない。もしも九条に手落ちがあれば、自分からサポートするのも良い。そうすれば最低限は意味のある仕事になるはずだ。


 幾度かの判断を重ねた結果、許子は親切な老婆の案内を受けた。道すがら東京の方まで出て行った孫の話などを添えつつ、やがて村役場の裏手にある寄合所の方まで連れられてきた。どういう訳か、既に数人の村人が待ち構えており、許子も作り立ての名刺を何枚か配って渡した。


「こんな辺鄙なとこまで、よう来とくれちゃった」

「いやあ、可愛え娘さんが来たもんじゃ」


「ほんな別嬪じゃ引手数多じゃろうに」

「いやあ、そんな……あはは」


 老人たちの、返事を期待しないマシンガントークが始まる。役所から来たお堅いイメージではなく、親しみやすいキャラクターを意識しようと思って来たので、悪くない感触だった。


「それで、市の人が何で来たこ?」


 一方的に盛り上がる村人の中の誰かが、そのような言葉を吐いた。それに対しては「知らん」「知らねぇ」と口々に言い立て、次第に許子の方に懐疑の視線が集まる。

 これはいけない、と許子は居住いを正す。


「え、えっと……、うちの者がやった作業の、点検とか、確認とか」

「そりゃええ、点検の点検やがぁ!」


 わはは、と一人の老人が愉快そうに声を上げると、それが伝播するように他の老人達も朗らかな笑みを漏らした。いくらか居心地の悪さも感じたが、すぐに一人の老婆が奥の方を指差し「それだったら、あの端末を見ちゃったわ」と、付け加えた。


 許子が寄合所の奥の方に設けられた舞台を見遣ると、天井付近に神棚があるのと、その斜め下に黒い装置が据えてあるのに気付いた。それなら仕事でもしようか、と、ごく軽い調子で端末に触れるが、一向に起動のさせ方が解らない。


 黒い箱を撫ぜ回しているだけの許子を見かねたか、先の老婆が「こうするんや」と手際よく端末を起動させ、テーブルの上のガラス板を操作して画面の方も呼び出した。


 少し前に似たような光景を見た。しかしそれでも、こんな山奥の、自分よりも四周りは上の老人に機械の扱いで遅れを取るとは思わなかった。許子は、彼らと自分とを勝手に同類扱いしていた事を恥じた。


「そいで、何か解りますこ?」

「え? あ、ああ、えーと、はい、大丈夫です。問題ありません」


 適当に画面を流し見して、許子は脳内の台本を読み上げた。


「そりゃ良かったわ。これでウチん村も取り残されんで済むわな」


 これまた誰かの声。それを呼び水として、再び老人達は賑やかしく騒ぎ立て、勝手気ままにお互いの近況や生活の不満を並び立てる。いちいち聞いてもきりが無いので、許子は溢れる老人達の笑顔を掻き分けて、本題に入ることにする。

「あの、それで、昨日来た人、この村のD率が異常に高いこと、聞いてませんでした?」



 時間が止まった。



 目の前でにこやかに笑い合っていた老人達は、水を打ったように静まりかえり、能面のような表情に凝り固まっていた。あとには山鳥の鳴き声と古い壁時計の音だけが残る。許子は二の句を継ごうと思ったが、自身もまたゼンマイが途切れたように動けない。


「え、えっと、D率っていうのは……、フォーラムっていうものへの使用率みたいなもので、この村も、おらが村ソーシャルって、使ってると、思うんですけど……」


 息の詰まるような静寂の中で、必死に言葉を吐きだそうともがく許子に対し、一人の老翁が歯抜けの顔を歪ませて、ゆっくりと手を挙げてみせた。


「ああ、それな。通信局の方の機械がぐつ悪うてな、役所の人も近々直すて言うとってや」


 その発言に対し、老人達は堰を切ったかのように沸きかえり、そこかしこで同意を示す笑い声が溢れる。


「そうですか、ええと、それじゃあ……」

「まぁまぁ、まぁ、ええから」


 先の老人が立ち上がり、制すような仕草を伴う。さらに数人が立ち上がり、許子を押し戴くようにして舞台の上座の方へと促される。そのまま、神棚の下に座布団が敷かれると、そこにちょこんと座らされる。


「よう考えたら、せっかく来てくれちゃったのに、なんのもてなしもせんで」


 懐かしいような古畳の臭いを感じさせつつ、近づいてきた老人達は許子に笑顔を向ける。

 まるで座敷童が姿を現したかのような騒ぎ。にこやかな老人たちに合わせて愛想笑いを浮かべ続ける許子。すると奥から、一升瓶を持った初老の男がやってきて、


「まあまあ、お姉さん。こないなもんしかないけど、ないよりはマシじゃろう。イケるクチか?」

 と云い、台所から持ち出したコップに注いだ。その杯は許子の目前へと差し出される。


「そ、そんな、公務中です。お気持ちだけで結構です」

「堅いこと言うない。なあ、玄さん」

「ほうじゃ、ほうじゃ。飲めるうち飲んどけ」


 許子は困惑して、酒に視線を落とす。地酒だろうか。ほどよく濁った白桃色の液体を、山歩きで渇いた喉が否応なしに希求する。無下に断っても場の空気を悪くする。一口だけ。一口だけ。自分に言い聞かせて、受け取った杯をグッと飲み干す許子。


「美味しいですね!」

「ほうじゃろう、ほうじゃろう! さあ、もう一杯飲みないな!」


 公務を忘れたのは、言うまでもない。



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