第10話
突如出現した目標へと、アスカはブラックメイルを走らせる。
未知のアプサラス――ドクター曰く流体型――は、こちらの存在に気が付いていないかのようにひたすらに真っ直ぐ進み続けていた。その姿はアプサラスの皮を被った電車だと言われても信じてしまいそうなほどに長大で、何より『黄の海』から生えた一個の器官であるアプサラスとしてはありえないはずの移動能力を有していた。
(でも、動くのには驚いたけどそれほどの速さじゃない。これだったら、並走しながらでも攻撃ができるはず)
努めて冷静に相手を分析しながら、アスカは視界の端で地面の接近、すなわち高度の低下を確認する。伸ばした足の裏と地面の摩擦で少しずつ減速させながら、でも勢いを殺しきらないように意識しつつ――
(ここっ!)
失速しないギリギリのタイミング、の少し前で生身の脚を後方へ蹴り出す。その瞬間の神経のパルスを感知したパワーアシスタントが、わずかなタイムラグの後に外骨格のモーターを作動させ、ブラックメイルは再度水切りの石のように地面を跳ねる。
地面とほぼ平行なユウの全速ダッシュには到底及ばないが、これが現段階のアスカの全速力。当然、いずれはユウに追い付きたいが、今は自分にできる最大限を発揮するだけ。
『ユウはともかく、アスカちゃんはあれの正面には立つなよ。側面に接近して攻撃を仕掛けてみてくれ。反撃がないとも限らないから気を引き締めてな』
「了解です!」
ドクターの指示に答えながら、アスカはさらに距離を詰めていく。
◆ ◆ ◆
スクリーンやモニターが所狭しと並ぶ薄暗い部屋。煌々と光るそれらの画面の真正面に陣取った白衣の女――ドクター米良野が、マイクに向かって声を張り上げる。
「ユウ、目標は確認できたな? どうだ、何とかなりそうか?」
『情報が少なすぎるので断言はできないが……どうあれ、足止め程度はできるはずだ』
その返答に少し安堵を覚えつつ、しかし緊張を保ったままドクター米良野は続けて訊く。
「そうか。では、何時間持ちこたえられる?」
『最低でも3時間は』
「分かった。では足止めを頼む」
『了解した』
それを聞き届けると、マイクが拾わないように顔を離してから、ふぅと詰めていた息を吐きだした。
どうあれ、文字通り最後の砦である重層都市に緊急警報を出させるほどの事態ではない。そう思うと思わずため息が出てしまう。
しかし彼女が自身に許した休憩は、息を吐く間のわずか数秒だけ。直後、すぐさま一つの端末に指を走らせて通話を掛ける。
コール音が鳴るその時間さえ本当は惜しい。しかし、イライラしたところで通話が早く繋がるわけでもないと、はやる心をなだめて落ち着かせる。
『はい、こちら司令棟――』
「米良野だ。
皆まで言わせず食い気味に答える米良野。その語気に気圧されたか、一瞬の間が生じたが、しかし相手もプロ。すぐに返事が返ってくる。
『了解いたしました。少々お待ちください』
そして電子音のメロディーが流れ出す。クラシックらしいその曲を聞き流しつつ、その短い間で方針を再確認する。
「……やはり、縮んでいくピザを取り合ったところで、何も得られないものな」
そんな呟きが柔らかなメロディーと混ざって消え去り、そこで音楽の再生が途切れた。入れ替わりに聞こえてきたのは落ち着きを感じさせる低い男の声。
『吉丸だ。一体何の用だ』
「たった今『決壊』を観測した。もちろん流体型の出現もな」
答えるドクター米良野の声は、これまでとは打って変わって淡々としたものだった。それでも、相手には事の重大さがはっきりと伝わったようだった。
『――っ! 『決壊』か、こちらから部隊を出そう。後ほど掛け直す』
そうして、通話がブツリと切れた。
◆ ◆ ◆
「移動と言うよりも伸長だな、これは」
常と変わらぬ口調でユウがぼそりと呟く。その視線の先には細長く伸びた黄色があった。
距離はおよそ500メートルほど。今も進行を続ける流体型アプサラスを真横から眺める位置にユウはいた。
根元の位置が『波打ち際』の先にあり同化して判別が付かないが、長さとしては数百メートル。先端の移動速度、すなわち伸長の速度は、距離もあって正確には分からないが自動車よりは遅いと見える。
そして現状の確認を終えたところで、足止めに必要な武装を取りに装甲車へ向かおうと足を持ち上げ、しかしそこでユウの心に逡巡が生じた。
原因は視界の右端、今まさに黄色の巨体へと果敢に突撃せんとするアスカのブラックメイル。彼女を一人で向かわせて良いのかという懸念が、ユウの足を止めた。
確かに、彼女は変わった。
足取りが変わった。声色が変わった。顔つきが変わった。
前回の任務からすれば別人と言ってもいいほどに、
しかし、それは強さとは無関係だ。
前時代――『黄の海』が現れる前までの世界では、士気は戦士の強さを形作る重要な要素の一つだったと聞く。だが、アプサラスやそれに対抗するブラックメイル自体の強さに比べれば、今や人間の力など小さくて儚いもの。今の
(そして、それらを完璧に備えた人間だろうと死ぬときは死ぬ)
声に出さずにそう呟いて、ユウは自嘲気味に唇を歪めた。
宙に浮いていた足が、黒褐色の地面を踏む。かつて道路だった石ころがこすれ合い、ギリッと音を立てる。
(そう、彼女だって次の瞬間にも死ぬかもしれない)
その一歩は伸び続ける長大なアプサラスと平行に、アスカではなく装甲車の方へと向けられていた。
(それがどうした。今までだって目の前でもどこか遠くでも無数の人間が死んできたというのに)
決心したかのように、金色外骨格のブラックメイルは流体型アプサラスから視線を切る。そして砂煙を巻き起こして黒と金のブラックメイルは掻き消えた。
(それなのに、どうして俺は走っているんだろう)
黒と金の軌跡となってユウは駆けた。それは戦闘中と緊急事態以外では使わないことにしている超高速ダッシュ、ブラックメイルの理論上の最高速だった。
(そういえば、この前も彼女のために走ったんだったか)
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