第三話 デパートの秘密



 ……三時間以上経っても、こんからの電話は来ず、試しに麗美の方からかけてみたが、何度やってもつながらないままだった。

 麗美は、十数回目のコールを鳴らしている自身のスマートフォンを、苛立ちながら乱暴に切ると、溜め息を長く吐いた。


「だめ、取らなかったわ」

「……店長の方にも、電話は来てないらしい」


 一方、自身のスマホで、面面の店長に電話していた飛丸も、麗美とほぼ同時に電話を切り、落胆の表情で彼女を見た。

 二人と八咫烏は、路地裏に身を潜めながら、こんと連絡を取り合っていた。そこから戸ノ内デパートの本社が見えるが、ビル側からは彼らの姿が丁度見えなくなっている場所だった。


 暗い表情のふたりを、首から古い携帯電話を下げていた八咫烏はそわそわと所在なさげに見比べる。


「ど、どうするんだい?」

「多分、こんちゃんは誰かに見つかって、携帯は取られちゃったのね……」

「それじゃあ、携帯の電波を辿って、おいらたちの事もバレちまうんじゃないかい?」

「大丈夫よ。元々違法電波使っているから、辿れないわ」

「……今、さらりと恐ろしこと言わなかったか?」


 冷静に飛丸が呟いたが、麗美からの返事は無かった。

 一方、八咫烏はいてもたっていもいられないという様子で、真っ黒な翼を広げてばたつかせている。


「それよりも、早くこん嬢ちゃんや滴嬢ちゃんを、助けに行かないか!? おいらだけでも、先にビルの中に入って、」

「それは危険よ。こんちゃんの二の次になったらどうするのよ」


 麗美の厳しい一言に、飛丸も無言で頷く。

 八咫烏は翼を畳んで、しょんぼりと項垂れていた。


「でも、こん嬢ちゃんがどうなってるか、分からないんだぜ?」

「……これは完全に勘だけどね、こんちゃんは無事だと思うの。あの子が見た滴ちゃんや他の妖怪の子たちと同じ所にいるんじゃないかしら」

「俺も、一度結界を解いていった方がいいと思う。どんな術師相手でも、俺が倒すから」


 眼光鋭く、戸ノ内デパートの本社ビルを見据えながら、飛丸が断言する。

 ビル内にいる術師の実力や、人数も分からなかったが、彼は自分の妖力に強い自信を持っていた。

 だが、麗美はまだ険しい目付きを崩さない。


「ただ、相手がこんちゃんからこちらの情報をどれだけ手にしているのかが分からないから、今は慎重に動かないといけないわ」

「確かに、そうだな……」


 先程まで強い自信を見せていた飛丸も、表情に暗い影を落とす。

 こんがそう簡単にこちらの事を教えたりすることはないと思うが、彼女から手に入れた携帯電話のデータやメモから、人数構成や作戦などは知られているのかもしれない。


「多分、今一番警戒している所だと思うから、結界を壊すのは今日じゃなくて、明日にした方がいいじゃないかしら」

「……姉さんの言う通り、こん嬢ちゃんが酷い目に遭っていないのならば、作戦を一から立て直す必要があるな」

「ああ。確か、結界の札を持っているのは、デパートの店員だったよな?」


 麗美は頷き、電話の最後にこんが教えてくれた情報を思い出す。


「ええ、そうよ。ただ、普通のアルバイトやパートにそういうのを任せるわけにはいかないと思うから、札を隠し持っているのは、それぞれのフロアの担当者だと思うの。そういう人たちは、主に裏の方で仕事をしていて、フロアには出てこないはずだわ」

「じゃあ、どうするんだ? 他の店員に、呼んでもらうように頼むのか?」

「それは逆に危険よ。相手が警戒心を増してしまいかねない。私たちの持ち味は、不意打ちと言う形で実を結ぶのだから。だけどね、全く勝算がないというわけではないのよ」


 多少の苛立ちを見せる飛丸を制して、麗美はコートのポケットの中から、小さく畳まれた紙を取り出した。

 広げてみるとそれは、戸ノ内デパートのチラシだった。

 「ピエロがデパートにやってくる!」「㊙アイドルデビュー!」などの見出しよりも、一番上に大きく書かれた、「ハロウィン限定仮装割引実施‼ 30%OFF!!!」の文字を指差した。


「今日の新聞に入っていたチラシだけどね、このキャンペーンで、たくさんのお客さんが来るから、きっと担当者もフロアから出てきて、店員の手伝いをすると思うわ。この瞬間が、最初で最後のチャンスね」


 デパートの店員でもある麗美の言葉は強い説得力を伴っていた。顔を上げた彼女に、飛丸と八咫烏も力強く頷く。


「決行は明日、デパートが開店する、十時からよ」


 麗美の一言に、飛丸と八咫烏も共に、強力な結界に守もられて真っ赤に染まったままの、戸ノ内デパートの本社ビルを睨んでいた。






   □






 十月三十一日、ハロウィン当日に、いつもと同じ格好の麗美と、昨日と同じく真っ黒なコートを着た飛丸が、開店したばかりの戸ノ内デパートの出入り口前で仁王立ちしていた。


 「ハロウィン仮装割引 実・施・中!」という陽気な文字が書かれたのぼりが、気の早い北風に煽られているのを、まるで親の仇のように見つめる二人は、周りを足早に歩く会社員たちの群れの中で、非常に浮いている。

 しばらくして、飛丸が口を開いた。


「……いよいよだな」

「……ええ」

「本当に、誰か応援を呼ばなくてよかったのか?」


 眉を顰めながら、飛丸は麗美の方を向いたが、彼女は姿勢を崩さずに言い放つ。


「もちろん、情報が漏れているのかもしれないのなら、増員を考えるべきだけど、相手も手練れのようだから、無理に巻き込むのは止めた方がいいわ」


 デパートに行ったこんが捕らえられたことを鑑みても、相手の本拠地に向かう危険を冒す者は、最低限に抑えたかった。

 「それに……」と、麗美はデパートの本社方向の空を見上げる。そこには、風を切って飛び回る八咫烏の姿があった。

「私たちにもしもがあったら、八咫ちゃんが面面に助けを求めることになっているからね。その代り必ず、」

「一時間おきに八咫烏にメールを送って、無事を知らせるんだろ」


 少しだけ面倒臭そうに飛丸が続ける。

 作戦会議で万全の態勢を取っているとはいえ、この点については煩わしさが感じずにはいられない。


「じゃあ、もう一度確認のために言うけれど、結界の札を持っているのは、おもちゃ担当の山田さん、鮮魚担当の川島さん、婦人服担当の加藤さん、分かっているのはこの三人だからね。他のフロアの担当者も持っているかもしれないけれど、確定していないから、無理に話し掛けたりしないように」

「ああ、分かった。ただ、一つ頼みがあるんだが……」


 ここまでずっと真剣な顔をしていた飛丸が、初めて申し訳なさそうに麗美に告げる。


「俺は、鮮魚コーナーだけには、行きたくないんだ」


 苦々しげに、やっとの思いで吐き出す飛丸に、麗美はああと思い出したように頷く。

 飛丸は、鯖が大の苦手だった。食べるのはもちろん、匂いも見ることも酷く嫌がる。その為、彼のシフトの入っている日の面面は、一切の鯖料理を出さなかった。


「分かってるわ。誰だって苦手なものはあるもの、仕方ないわよ。私だって、もしもペットコーナーに連れていかれそうになったら、泣き叫びながら抵抗するわ」

「ありがとう、麗美さん」

「でも、代わりに婦人服コーナーは、恥ずかしがらずにしっかり見て回ってね」

「うっ……。分かった」


 まだ辛そうだったが、鮮魚コーナーに行くよりましだと自分に言い聞かせて、飛丸はやっと頷いた。

 それから、細かい点を確認してから、二人は堂々と真正面からデパートへと入っていった。

 ロビーに入って、辺りを見回し、二人はすぐ様あることに気付く。


「なんか、少し……」

「予想よりもずっと、お客さんがいないわね……」


 飛丸の呟きに、麗美も戸惑いを目元に浮かべる。

 この日がハロウィンであると同時、月曜日であるということを、彼らは完全に忘れていた。訪れている客はまばらで、仮装をしている人もぽつぽつとしか見られない。


「今日は平日だったわねー」

「そういや麗美さん、昨日今日と仕事休んでるけど、大丈夫か?」

「さすがに二日連続で有給取るのは気が引けたけどね、上司が理解のある人で、すぐにOKを出してくれたわ。飛丸くんの方こそ、大学はいいの?」

「授業は入っているけど、一日ぐらい休んでも単位に余裕があるから」


 おおよそ妖怪同士と思えない会話を交わして、ロビーを進んでいた二人だったが、誰が言うまでもなく二手に分かれた。

 麗美は一階の鮮魚コーナーへと、飛丸は二階のおもちゃコーナーへと歩を進める。


 それからしばらくは、二人で三つのコーナーを見て回り、あまり同じ所にいると目立つため、時折別の場所にも足を運び、こんが教えてくれた担当者を探し続けていたが、それらしい人を一人も見つけられなかった。

 そうこうしているうちに、こんからの連絡が途切れてから二十四時間以上が経ち、外では日も暮れてしまった。


 何回も一階と二階の往復を繰り返して、心身ともにへとへとになった麗美がおもちゃコーナーの前を通りかかると、


「あっ」

「おう」


 偶然飛丸と行き当たった。

 一度休憩しようと、おもちゃコーナーの前に並べられたベンチの一つに、二人並んで座る。


 日が暮れてから、親子連れや学校帰りの学生グループ、仕事終わりの若者たちが、思い思いの仮装をして、デパートの中を歩いている。

 増えてきた人影をぼんやりと眺めていた飛丸が、口を開いた。


「中々フロアに出てこないな、その担当者たちは」

「もうそろそろ、出てきてもいい頃だと思うけれど……」


 この作戦を提案した麗美も、自信を無くしてしまったのか、段々と声が小さくなっていった。


「おとうさん、はやくー」


 意気消沈した二人の目の前を、目に穴を開けただけのシーツを頭から被った女の子が、楽しそうに駆けていった。


「あまり走るなー。はぐれるぞー」


 お化けの仮想をしたその子の後ろを、白衣を羽織って縁なし眼鏡をかけた父親らしき人物が、注意を呼び掛けながら追っていく。


 その様子を見て、麗美は自然と笑みが零していた。


「仮装して道端で騒いでいる人たちは迷惑だけど、やっぱり子供の仮装はかわいいわね」

「子供……か……」


 しかし、隣の飛丸は麗美とは別の所が気になってしまい、眉間に皺を刻んでいる。


「なんで、デパート側は、子供の妖怪ばかり集めているのだろうな?」

「そういえば、そうよね。デパートに妖怪が出てきて不吉っていうのなら、なぜわざわざ一か所に集めるのかもよくわからないし……」


 麗美も飛丸の発言を受けて、下を向いて真剣に考え始める。そして、こんが見たという本社ビル内の滴たちの様子を思い返してみた。


「確か、滴ちゃんたちは、動きを封じられている訳でもなく、大怪我をしている訳でもなく、ただ疲れ果てている様子だったって、こんちゃんは言っていたわ。だから、あの子たちを集めて何をしているのか、目的が全く分からないのよ」

「集められているのが子供ばっかりというのも気になる。使い魔にしようにも、妖力が弱い上に、数も多い……」

「それに、それほど多くの妖怪の子たちが集められているのに、こんちゃんが面面に訪れるまで、その事を私たちは全く知らなかったって言うのもおかしいわ。妖怪のピンチは、必ず誰かの耳に入っているものなのに……」


 妖怪たちの仲間意識はとても強いもので、面面のような彼らの溜まり場には、小さな悩みから身の危険を感じるものまで、様々な相談事が集められてくる。

 それらを、適材適所で力を合わせて解決するのが、妖怪たちの習わしとなっていた。


「これほど、入念に力を入れて、計画を実行していたんだな。労力もリスクも高いはずだが……」


 そう呟いた飛丸は、何かを思い出したのか、前を向いたままぽつぽつと語り始めた。


「俺が村にいた時に、そこに来ていた百目から聞いた話だけどな、江戸時代、数人の妖怪が姿を消したことがあったらしい。それは、ある呪術師が、大昔に施された大妖怪の封印を、攫った妖怪たちを生贄にして解こうと目論んだからだった。封印は、例えどんなに強いものでも、されている側の妖怪と同じ妖力をぶつければ、壊されてしまうという性質を持っていたからな。しかしその計画は、仲間を攫われた百目たちによって、阻止された」

「その話だけだと、確かに今の状況と似てるようにも感じるけれど、まさかこの時代に大妖怪を解き放とうっていう人なんていないんじゃあ……」

「その計画を実行しようとしたのは、新月の夜だった」


 飛丸の一言で、麗美ははっと息を呑む。

 妖怪たちの力は、最も闇が深くなる新月の夜に強くなる。それに乗じて、妖怪の封印を解こうとするのは最もな作戦だろう。そしてまた、今夜も新月だった。


 麗美は酷く狼狽して辺りを見回しながら、とにかく一度落ち着こようと飛丸と自分に言い聞かす。


「……まだ、断定はできないけれどね、でも、それが本当かどうか分からなくても、今夜中にはみんなを助け出さなくちゃ、あ」

「おい、あれ……」


 右斜め後ろを向いた瞬間硬直した麗美の視線の先を辿って、飛丸も言葉に詰まった。

 それは、先程彼らの目の前を通り過ぎた親子が、恰幅のいいピエロの格好をした男性店員から、子供番組のキャラクターのぬいぐるみを受け取っている所だった。


「おじさん、ありがとう」

「どうもいたしまして」


 嬉しそうな少女ににっこりと笑いかけるその男性店員は、おもちゃコーナーを何度も行き来した二人も初めて見る人物であり、その首にかけられた社員証には、山田という名前が印刷されていた。


 親子が店員と別れた瞬間、麗美と飛丸は顔を見合せた。


「私が、彼から札を奪って、破壊するわ」

「俺は、非常階段から、本社ビルに飛び立てるように準備しておく」


 二人は力強く頷くと、ほぼ同時に立ち上がり、脇目も降らずに目的地へと進んでいく。

 麗美は山田という店員へと、飛丸は非常階段の方へと。






   □






 一方、自身が標的にされていることなど露知らず、店員の山田はぬいぐるみの棚を整えていた。


「すみません」

「はい、なんでしょうか」


 後ろを振り返った山田の姿を、麗美はじっくりと観察する。

 虹色をしたアフロのカツラを被り、白いワイシャツに大きな蝶ネクタイ、だぼだぼのズボンをサスペンダーで吊り、顔のメイクは目の下の涙模様だけだった。白塗りにしてしまえば、子供が怖がってしまうからだろう。

 そのままサーカスに出てもおかしくない格好で、年齢は四十歳半ばのようだったが非常に似合っているため、社員証がなければ管理職には見えない男だった。


 相手の顔に全く警戒心がないことを確認して、麗美は笑いながらも少し困ったように小首を傾げた。


「姪の誕生日プレゼントを探しているのですけど、最近の女の子たちの流行を知らなくて」

「分かりました。女の子のコーナーにご案内します」


 丁寧にお辞儀をして、山田はこちらですと麗美を案内する。

 この姿だけでは、ただの紳士的な人物で、彼が囚われの妖怪たちと関わっているようには見えなかった。


 辿り着いた棚の前で、山田は一つのおもちゃを手にとって説明する。


「最近はやはり、プリキュアの新シリーズが人気ですね」

「そうなんですか。でも、これはもう持っているかもしれません……」

「少しお尋ねしたいのですが、その姪っ子さんは、どんな子ですか?」

「……ちょっと臆病ですけど、友達思いの子です」


 麗美は、おっかなびっくり面面に入ってきて、行方知れずの友達を心配するこんの姿を思い出していた。


「そうですか……。では、お友達と一緒に遊べるよう、おままごとセットはどうでしょうか?」

「いいですね」


 山田の勧めてくれたおままごとセットを手に取って、少し悩むそぶりを見せる麗美は、「そういえば」と何気ない口調で彼に切り出した。


「ここ最近、このデパートの近くで、女の子が行方不明になっているって、聞いたことありませんか?」


 鋭く横目で、麗美は相手の様子を伺う。

 すると山田は、驚くほど慌てて、視線を宙に漂わせていた。


 女の子が行方不明といっても、それは妖怪の話であり、人間たちの間でニュースになるはずはない。

 しかし、この様子だと、彼は「女の子」と「行方不明」に何か心当たりがあるようである。

 先程までの狼狽ぶりを隠すかのように、山田はすぐに笑顔を作った。


「それは、ただの都市伝説ですよ」

「ただの、、ねえ……」


 声のトーンを低くして、麗美は持っていたおもちゃを棚に戻した。

 相手の雰囲気が変わったことに気付いた山田が、ごくりと唾を呑んだ。


 麗美はくるりと体を半回転させ、山田と向き合う形になる。そして、冷たい視線を投げかけながら、ゆっくりと語り始めた。


「人間の言葉には不思議な力が宿るものでね、一般的に言霊って言われているのは、誰もが持っていて、それが集まるとより巨大な力になるの。例えば、風もないのに家がギシギシなるのは家鳴のせいと言ったり、突然傷がついたのに血が出なかったのは鎌鼬の仕業だと言ったりして、不可解な現象に名前を付けて広まっていった時に、それらは存在するようになる。そうして、数多くの妖怪が生まれたの」


 突然、今までと全く無関係な話を、敬語を外して目の前の女性が語り始めても、山田はその話に聞き入っていた。

 それこそが、言霊によるものだと言わんばかりに。


「ただ、それによって、妖怪の弱点が決まってしまうこともあるの。あなたは、なんで電話を取った時に、もしもしっていうのか知ってる?」


 そう尋ねられて、山田は素直に首を振る。

 彼の様子を見て、女性はマスクをした口元に手を当てて、くすりと笑い声を上げる。

 オーバーリアクションでもないのに、山田は彼女の一挙一動から目が離せなくなっていた。


「夜が今よりもずっと暗くて危険だった時代に、もしも道を歩いている時に後ろから話しかけられて、それが妖怪だったら答えた瞬間に死んでしまうと言われていたの。だから人間は、妖怪は二回言葉を繰り返すことが出来ないから、もしもしやおいおいと言ったら、話しかけてきた相手は人間だという合図を決めたの。そのせいで、二十一世紀になった今でも、妖怪たちはもしもしを使えないのよ」


 何かが可笑しいと、山田はずっと感じていた。

 目の前の女性が、唐突に妖怪の話を始めてから、その後ろには仮装したデパートの客が何人も通り過ぎているのに、こちらの棚の方へ来ようとしない。それどころか、こちら側を見向きもしない。

 異質さを全身で受け止めているのに、彼の足はがたがたと震えているだけで、一歩も動けない。


「だけどね、それと同時に、人間たちの噂話は、妖怪の長所も決めてくれる。高速道路を走る老婆は、どんなスピードの車にも追いつける。公衆電話から自分の携帯電話にかければ、何でも答えてくれる少年が背後に現れる。二メートル以上ある女性に狙われてしまったら、塩と札で清めた部屋から出てはいけない。あなたも、そういうのは一つか二つ、知っているでしょ? それらを生み出したのは、だったの」


 ごくりと、山田は生唾を呑む。相手の話に、完全に呑まれていた。怖いはずなのに、続きを早く聞きたくてたまらない。


「そして、忘れてほしくないのは、都市伝説を退ける方法はあるけれど、誰かの記憶に残っている限り、その存在を消し去ることは決して出来ないということ……」


 そこまで聞いて、やっと彼は思い出した。小学生のころ、学校中に広まった、ある恐ろしい噂話を。

 真っ白いコートを着た、長い黒髪の、顔半分を大きなマスクに覆われた、しかしその目元はとても美しい女の正体を。


 同時に、その対策方法も思い出していた。べっこう飴は、今持っていない。ポマードは元々つけていなかった。

 あとは犬の鳴き真似か、問いに「普通」と答えて、この場から逃げ出すしかない。

 四十を過ぎた大人が、まるで子供のように、そんなことを真剣に考えていた。


「……一つ聞いてもいいかしら」


 女が、にっこりと優しく笑う。

 今はそれどころではないはずなのに、山田はそれに頷いてしまう。これもまた、女の力によるものだろうか。


 ゆっくりと耳からマスクを外す、長い指を、山田は目を逸らさずに見つめていた。この状況の異常さなど、気にも留めなかった。


「わたし、キレイ?」


 初めて見せたマスクの下は、口が耳まで大きく裂けていた。

 歪なその切り傷の中には、異様なほど真っ赤な咥内が見えて、歯も舌もはっきりと観察できる。

 それらが動いて言葉を発するのは、奇妙でグロテスクな光景だったが、言葉の意味だけは理解した。


 その瞬間、山田が思い出していた対策方法など全て忘れ去ってしまい、彼は白目をむいたまま、後ろに倒れ込んでしまった。






   □







 遠くに見える戸ノ内デパートの本社ビル、その屋上に張られていた結界が、糸をぶつんと切ったかのよう消えたのを、デパートの非常階段に立っていた飛丸にも確認できた。

 直後に、電話がかかってくる。


『飛丸くん、結界の札を破ることに成功したわ』

「ああ、ありがとう、麗美さん」

『ここからが正念場だけど、無理しないでね』

「分かった、気を付ける」


 麗美との短い会話を終えて、電話を切った飛丸の元に、


「坊っちゃーーーん」


 本社ビルを飛び回っていた八咫烏が、こちらの方へと近付いてきた。そのまま、飛丸が身を預けていた手すりの上にとまる。


「結界、上手い具合に解けたなあ」

「麗美さんが、札を壊してくれた」

「さっすが姉さん」


 感心してうんうんと頷く八咫烏の方を向いて、飛丸は「ところで」と話しかける。


「ビルの方では何か変化はなかったか?」

「それが、全然。不気味なほど静まり返っていたぜ。あと、少し前に面面にも電話してみたが、なんもないって言っていたよ」


 無念そうに尻尾を下げて答える八咫烏に、飛丸は無言で頷いて、視線を再び本社ビルへと戻した。


 確かにデパートの中や、外の歩道での仮装した人々の騒ぎから切り離されたかのように、ビル自体はひっそりとしている。

 この中で、こんや滴などの妖怪たちがどのような目に遭っているか、全く予想がつかなかった。


「よし、相手側に対策される前に、早く行ってしまおう」

「そういえば、坊ちゃん」


 ジャンプして手すりに足を乗せようとする飛丸に、八咫烏があることを思い出して切り出した。

 動きを止めた飛丸に酷く純粋な瞳で見上げながら、八咫烏が尋ねる。


「さっき、のっぺらの旦那から聞いたんだが、坊ちゃんにある大切なものを渡しているって?」

「………ああ、あれのことか……」


 酷く気の重い様子で、飛丸は肩から下げていた鞄から、出発前に店長から手渡されたものを取り出した。


「おおっ、かっこいいじゃないかい」


 彼が取り出したのは、真っ赤な顔に長い鼻が特徴の、天狗の仮面だった。


「……これをわざわざつけていくのか?」

「坊ちゃんには似合うと思うなあ」

「別に、このイメージがついたのって、戦国時代ぐらいからだし、俺たちはイメージで容姿が左右されるわけではないのに……」


 ぶつぶつと文句を言いながらも、律儀に仮面を顔にはめて、後ろをひもで縛る飛丸。仮面の次には木の葉でできた団扇を取り出し、それを持ったまま手すりの上に飛び乗った。背中から鳶の翼をはやすと、そのまま大きく広げる。


「さっさと終わらせるぞ」

「おう」


 こうして天狗と八咫烏は、星も月もない東京の空に飛び上がった。

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