第二十三章:気鬱
ある朝、いつもと変わらない朝が始まる。
いつものように食事の支度をして二人で済ませ、奈美を仕事に送り出す。俺は残りの家事をこなし、夕食を作り奈美の帰りを待つ。そんないつもと変わらない一日が始まる。そう思っていた。しかし悲劇は何の前触れも無く突然訪れる。
夕方、そろそろ奈美の仕事も終わる頃の時間にそれは起こった。木谷さんから電話が入る。
「ハル君、落ち着いて聞いてくれ、奈美さんが勤務先で倒れた。一時個人病院へ運ばれたが今は私の職場の系列である付属病院へ移動されている。今から来てくれ。三階の302号室だ、待っているよ」
何が起きたのか全く分からない。とにかく病院へと急ぐことにした。向かう途中、ただただ不安で仕方がなかった。奈美を失ったら俺はもう生きていく自信が無い。ああ、そんな事を言っちゃいけない。奈美は大丈夫だ。きっと大丈夫だ! そう願いながら病院へ入る。
病院内は妙な静けさに包まれている。焦る気持ちで病室へ向かう。病室には奈美が寝ている。その横で木谷さんが座っていた。
「木谷さん」
「ああ、来たかハル君」
「奈美はどういう状況なんですか?」
俺は小声で話しかけた。
「ん・・・・実は、職場で突然倒れたそうで、近くの個人病院に運ばれたのだが手に負えずこちらへ移ってきた。診断の結果は脳梗塞、右側半身に障害が出ている。ただ、リハビリ次第で生活に支障はないくらいに回復する見込みがある。そこが唯一助かったといえるところだ」
「今はどの程度動けるんですか?」
「今は痺れが強いようでほとんど動かせない。もう少し落ち着いてからリハビリをやっていくことになるだろう。どこまで回復できるのかはまだ何とも言えない。リハビリ次第ではあるが、以前のように仕事はできないだろう」
「ハル君、奈美さんが目覚め現状を知ったとき、相当なショックを受けるだろう。その時、君がそばに居て支えてあげないといけない。こういう病気の一番大切な部分が精神面でのケアだ。今まで動かすことができた部分が思うように動かない、そのストレスは想像を絶する。頼んだよ」
「それと、今後ハル君が介護をしていくことになる。我々も助けられる部分は助けていくつもりだ。遠慮なく言ってくれ。君も働きに出ることになるだろうし・・・」
「分かりました・・・木谷さん、何から何までありがとうございます」
俺はこう言うのが精一杯だった。木谷さんの話を聞き頭の中が真っ白になっている。まさかこんな早くに介護という言葉が出てくるとは思いもしなかった。俺は全力で奈美を支えていくつもりでいる。気持ちはいつもそのつもりだ。しかし、いざそれを目の前にすると、やっていけるのか不安が無いとは言えないのが本音だった。奈美が目を覚まし現実を知ったとき、俺は対応できるだろうか? どう関わったらいいのだろうか? 頭には何も浮かばない。俺はそのまま病院へ泊まり次の朝を迎えた。
俺はイスに座って奈美のベットに伏せて寝てしまっていたようだ。目が覚めて起き上がり背伸びをする。ふと見ると奈美は目を覚ましていた。
「奈美、おはよう。気分はどうだ?」
「ハル・・・私、どうなったんだろう・・・」
「奈美、昨日職場で倒れたらしい。そして病院へ運ばれてきた。病名は脳梗塞、気づいているかもしれないけど右半身が不自由になっている。ただ、リハビリ次第で動かせるようになる見込みがある。これから俺も全力で奈美のサポートをしていくつもりだ。一緒にがんばろう」
奈美は右腕を上げようと試みている。だいぶ痛みが伴っている様子だが腕は少し上がっている。
「ああ、良かった。この分だと何とかいけそうだ」
「ハル、ごめんなさい・・・迷惑かけて・・・」
これはまずい、明らかに奈美の生きる気力が落ちている様子だ。どうやって励ましたらいいのだろうか・・・。
「奈美、とにかく、昨日の今日だ、まだ病状も落ち着いていない、ゆっくりと少しずつクリアしていこう。俺はずっと奈美と一緒、何があっても支えていくつもりでいるから安心して」
「うん、ありがとうハル」
奈美の返事が力なく返ってくる。
しばらくは貯金でやりくりするしか手が無い。奈美がもう少し落ち着いてから働くなり考えていくしかないだろう。とにかく今は奈美の回復に力を入れ全力でサポートするだけだ。
あれから一週間が過ぎた。奈美は最初の数日はこんなにも動けないのかと絶望していたが、すぐに持ち味の負けん気でリハビリに向けての説明を一生懸命聞いていた。
病状は安定しているので明日からリハビリとマッサージが始まる。とにかく早くやれと奈美は急がせていた。本当に強い女性だとつくづく思う。俺が奈美の立場なら絶望で毎日泣いているようなものだろう。彼女はこの状況でも涙を全く流さない。俺は奈美が目の前で泣くのを見た事がなかった。
早速次の日からマッサージが始まった。主に足と腕、手の部分が集中的に行われる。病院でのマッサージが終わった後は俺がまめに行っている。マッサージに関しては痛くない程度にやった方がいいとの事だった。俺に出来る事は何でもする。奈美も回復に全力で挑んでいる。さすがだ。それから二週間、毎日リハビリとマッサージが行われ、奈美は歩行器を使って歩けるほどに回復していた。これには担当医もビックリしていた。これ以上の回復はないとの判断で更に一週間後、退院することとなった。
奈美は我が家に帰ってきてさっぱりした顔をしている。奈美の状況だが、歩くには歩行器や誰かの支えが必要。右腕や手の方は健常者のようには動かない。ゆっくりと動かす事はできる、しかし指の稼動がうまくいかず時間を掛けてやっと持てる程度だった。それでも諦めずに俺は毎日マッサージと簡単なリハビリは毎日続けていた。
そして、退院に合わせ介護ベッドを購入した。結構高かったが上体を上げ下げ出来るし地べたに横になるより移動も楽で負担が少ない。奈美はと言うと、心なしかこれ以上の回復が見込めないという医者の判断が気に食わない様子だった。それ以上の結果を見せてやると意気込んでいる。俺も奈美を見ていると大丈夫だ! と言えるような気がしてならない。奈美ならきっとやってみせるだろう。
それから数ヶ月、奈美の状態はほぼ変わってはいなかった。それでも奈美は諦めずにリハビリを続けている。生活は貯金を切り崩して賄っている状態、十四年間の貯金は伊達ではない。
今日も朝食を食べあらかた家事を済ませて家の中を歩く。俺が歩行器代わりとなって奈美の援護だ。今では回復というより歩くことに慣れてきたという感じだろう。不憫ではあるが歩くことになれスピードは若干伸びている。それでも常人が歩くスピードには程遠かった。俺はそれで十分と思っていたが奈美は違っていた。奈美が目指していたのは完全復活。正直それは無理だろう。だからこそ限界を知ったときの状況を危惧していた。それは意外にも早くに訪れる。
奈美はうまく歩けない、物をつかめない事へ苛立ちを隠せず、俺の手を振り払ったり、コップを投げたりしばしば当たるようになっていた。しかし俺はそれが逆に良い事と考えている。ここでストレスを発散できる相手は俺しかいない。なら、ばんばん当てて発散すれば奈美もすっきりするはずだ。だから全く苦にならず、むしろ喜んでいる。それが逆に奈美を逆撫でしているとは気がつかずに・・・。
八つ当たりされながらも歩行訓練を終え、仕上げのマッサージを行う。奈美に振り払われても繰り返す。
「ハル、もういい」
「よくない、もう少し続ける」
「いらないって言ってるでしょ!」
俺は仕方なく家事の続きをやり始める。奈美は回復の限界を知り絶望している様子だ。もう戻れないことへの怒りや不安が渦巻いているのだろう。
家事を終わらせ奈美にお茶を出す。ゆっくりと動く方の左手に持たせる。しかし奈美はあえて右手に持ち替え小刻みに手を震わせながらお茶をすする。しかし当たり前のごとく落としてしまう。
「熱っ!」
「大丈夫か奈美!」
俺はあわててこぼしたお茶を拭く。すると・・・あの奈美が涙をこぼしはじめた。
「ハル、ごめんね・・・ううう・・ごめんね・・・」
奈美は時折息を詰まらせ咽び泣きだした。
奈美が泣く姿を見たのは初めてだった。俺はその姿にひどく不安を感じてしまう。あの奈美が泣くほど今は辛い思いをしている。辛い思いをさせてしまっている罪悪感に襲われる。しかし俺に出来ることはなにもない。ただ奈美を抱きしめることしか出来なかった。
いくらでも掛ける言葉はあるだろう。しかし、今何を言っても慰めや慈悲としか捉えられない。今の奈美に生半可な言葉は届かない。
「ハル・・うううう・・どこにもいかないで・・・私を捨てないでぇぇぇぇ・・・」
「バカ! 捨てるなんてあるわけないだろ!」
「うううううぅ・・・早く治して働くからぁぁぁ・・・どこにもいかないでぇ・・・うう」
「奈美・・おまえはそんな事考えてたのか・・・・」
「ハルに迷惑なんてかけたくなかったぁぁぁぁのぉにぃ・・・うううう・・・」
奈美は泣き叫んでいる。
「奈美、安心しな、どこにもいかないし、俺には奈美しかいないんだから。何があっても奈美を見捨てるような事はしないよ」
そう言って俺は奈美を膝の上に乗せて抱きかかえる。そして軽く口づけをする。奈美は泣きじゃくり疲れきった表情をしていた。無理も無い。毎日毎日がんばってリハビリを続けてきたんだ。奈美もすでに四十四歳。体力的にも衰え始め、人生において曲がり角を過ぎている。少し無茶をさせてしまったな。
「奈美、焦らず急がず、少しずつやっていこう。少し急ぎすぎたかもしれない」
俺は奈美を抱えゆっくりとゆらゆら揺らして落ち着かせる。人は同じリズムで揺らしたりトントンリズムを刻むと落ち着くのだ。しばらくすると奈美は眠りに落ちた。
ふと眠りに落ちた奈美の顔を覗く。髪に白髪が交じり、いつしか深くなっていたほうれい線、少しシミも出てきた。そんな変化すら俺は愛おしく思っている。奈美が好きでたまらない。奈美が老いる事が羨ましいとさえ思う。出来ることなら一緒に老いて共有して、そんな人生を送りたかった。親父はなぜこんな体にしたのか・・・。
それから三年の月日が流れた。奈美は年を追うごとに生きる気力を失っているように見える。リハビリと言える事はすでにしなくなっており、たまにおぶって散歩へ行く程度。マッサージだけは俺がしつこく行っていた。
追い討ちを掛けるように、去年二郎さんが亡くなり、それを追うように今年千恵さんが亡くなってしまった。親代わりのように俺達に付き添い続けてくれた二人の死は奈美にとっても、俺にとっても大きな喪失感に見舞われている。別に良いことは無くても構わない。ただ、良くないことが続くとどうしても塞ぎ込みたくなるのが人の心情だ。
生活面でもそろそろ働きに出なければならなくなってきている。何かあったときの為に貯金はゼロにしたくない。そろそろ働きに出るタイミングだろう。奈美が何と言うか心配だが。
「奈美、そろそろ貯金も尽きかけている。そろそろ働こうかと探していたら隣町で市場のバイトを募集してるみたいなんだ。面接に行ってみようかと思ってさ、隣町ならバイクで何とか行けそうだし、しかも早朝四時からだから近所の人たちとも顔を合わせる心配が無いんだ、どうかな?」
「うん、いんじゃないかな・・」
奈美の返事には力が無い。
「よし、じゃ明日にでも面接に行ってみるよ。ちゃんとご飯の用意はしていくからね」
「ごめんね、苦労ばかりかけて・・・」
「全然、奈美がいれば俺はそれでいい、体力だけはあるから心配ないよ」
後日、面接に行った。するとすぐにでも来てほしいと即決だった。時間が時間だけに中々人が集まらず難儀してたらしい。明日から仕事をする事になった。時間は早朝四時から正午まで、家からだと朝三時には出発しなければ間に合わない。ちょっときついが奈美も眠っている時間だしむしろ都合が良い。朝飯を用意してお昼ご飯は少し遅くなるけど一緒に食べられそうだし、晩飯や風呂も難なくこなせるだろう。そして、俺自身外に出られる喜びが無かったと言えばウソになる。家に留守番させる奈美に後ろめたい気持ちが無いわけではなかった。
夜九時頃までに全てを片付け布団に入る。夜中の二時半に起きて奈美の朝食を準備、作り置きして三時には家を出発。中古で買ったバイクで職場に向かう。外は真っ暗だが何故か気分はいい、誰もいない道路を我が物顔で走り抜ける。
職場に到着すると活気であふれたセリの人たちでごった返している。俺は生きてるんだ、そんな実感が何故か湧いてくる。仕事の内容は決して楽ではない。とにかく運び運び運び続ける肉体労働だ。しかしそれが気持ちよく楽しさすら感じる。市場にはほぼ男しかいなく、他の職種に比べたらむさいと言える。案の定独身が多く、女を紹介してくれと言う人がとても多かった。俺の見た目から関わりがあるとでも思っているのだろう。残念ながら俺はあんた達より年上なんだよ、なんて言いたくなる。
修行中のセリ人の息子、すし屋の主人とその弟子、市場の中で食堂を切り盛りするおばさん達、競り落とされた魚を運んでいくトラックの運転手、ものすごい量の仕入れをしていく偉そうな業者、様々な人たちが入り混じり人間模様を咲かせている。彼らを見ているだけでも全然飽きない。ま、実際は長々と観察している暇は無い。むしろ彼らの方がそういう時間があるのかもしれないが、俺のような見方をしている人間はまずいないだろう。
仕事を始めて数ヶ月、仕事に全くキツさを感じてはいない。むしろ仕事が楽しく行くのが楽しみなくらいになっていた。しかし、そんな喜びを話す相手はいない。奈美にはとても話せるような雰囲気ではなかったからだ。いつか楽しく話せる時がくればいいな・・・そんな思いで仕事と奈美の介護を続けていた。
仕事が休みの日には奈美をバイクに乗せドライブにも出かけた。
一応免許はあるが更新をしていない、この顔じゃ免許の更新にはいけないだろ? だから警察には極力会わないよう気をつけて走っている。
奈美をバイクに乗せるときは俺の体と奈美をロープで結んで落ちないようにする。どうしても右腕に力が入らず体を支えきれないからだ。それでも奈美は力いっぱい俺にしがみついてくる。奈美も外に出ることで晴れやかな表情を見せてくれた。遠くに行く事がほぼ無くなっていた俺達にとってバイクの存在は大きい。本当なら車がほしいところだが、俺の稼ぎでは到底買えないし運転の仕方も分からない。
ドライブをして、食事をして家に帰る。きっと他の人から見ると母親の介護をしてる息子に見えるだろう。奈美はそれが嫌な様子だが俺は全く気にしていない。そんな目で見る人にはわざとキスをして見せる。すると大概仰天の目で俺達を見ていく。奈美は止めなさいと恥ずかしがるが顔を赤くしながらもドヤ顔気味だったりする。俺達の関係性の想像がつくまい! せいぜい混乱するがいい! なんて心の中で思うのだ。そんなちょっとした変化が俺達にとって大きな生きる力となっている。
家に閉じこもり、外界と接する機会が皆無な現在、奈美にとって一番良くない状態である事を理解しているつもりだ。障害を抱えた人が他人と接する機会など、どう作っていったらいいものなのか? ましてや俺が不老という化け物である以上それに関わるのは難しい。
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