獣と騎士と
――おれはなにをしている?
マキシムの意識は、既に曖昧だった。
自然と自分との境界線が薄れ、己の存在が薄らいでいくような感覚。大いなる存在の下、果てしない大地を駆けていた遥か遠い先祖の記憶が血潮の中から溶け出して、マキシムという脆弱な個人と
残っているのは、本能。
生きること。生き抜くこと。生きるために喰らい、喰らうために殺すことだ。
鼻をひくつかせる。
二人分の小さきものの臭いは、依然として森の直ぐそこから感じられる。鉄の臭いの染み込んだ、鼻につく臭いだ。
………そんな言葉遊びにも、マキシムの意識は動かない。ただ、獲物が近いということだけを理解して、狭い森へと前足を伸ばしているだけだ。
どうせ狭くて入れないのなら、いっそ助走をつけて木々を倒してしまえば良いのだが、そこまで知恵は回らないようである。
臭いが遠くなればそれも考えられるのだろうが、なまじ目の前でちらつく肉の香りは、獣から選択肢を奪っていた。
とにかく、腹が減った。
巨体は容赦なく全身のエネルギーを奪っていく。何もせずにただ維持するだけでも、恐らく何トンという量の食事が必要だろう。
だからこそ、目の前のご馳走を獣は逃がすわけにはいかず、だからこそ愚直に手を出し続けていたのだ。
それも、我慢の限界が近かった。
いつか何処かで誰かが読んだように、この木々の家を鼻息で吹き飛ばしてやろうか。
そんなことを考え始めるくらいに、時間のたった頃。
――………? 別れた?
獣の鋭敏な感覚がそれを捉えた。
一人が動き始めたのだ、それも、上に。
「はあああああっ!!」
矢のような速度で枝を蹴り、少女が獣の頭上へと躍り出た。気合いを込めながら振りかぶる剣を、獣は確りと見ている。
巨大だが、愚鈍なわけではない。人狼の頃と同じく動体視力は良いし、その他の感覚器も比べ物にならないくらい鋭く強化されているのだ。
常人ならば見事な不意打ちとなったろうが、生憎、その飛翔の行き着く先は
振りかぶる奇妙な形の剣からは、魔力が感じられる。ならば、口を開けるついでに咆哮を放って打ち消してやろう。
当然だが、人狼が変化した獣としての姿である以上、【
サイズが変わっている分出力も増し、音と風は大槌さながらの威力を持っている。打ちのめしてやれば、抵抗なく喰えるだろう。
獣は舌舐めずりしながら、機会を逃さぬよう目を大きく見開きながら、獲物の落下を待ち望んでいた。
その視界が、真紅に染まった。
マキシムの誤算は1つ。
不可視なる空気と音の大槌。
それは、ディアにとっては既知のものだということ。
――その手は、もう見ましたよ。
かつてディアの世界を破壊し尽くした、
巨人のように大きくなった彼女のわめき声は、ディアを幾度となく打ち据えた。最後は半ば意識朦朧としていてあまり覚えていないが、それでもその声が、武器としての力を持つことだけは理解できた。
大きな獣は、大概吠えるものだ。その声に力があると理解しているのなら尚更。
だから、ディアは攻撃を放たなかった。
かつて見た攻撃ならば、対処法も同じ。
「【
マーレンを解き放ち、中身をぶちまける。
赤い液体が天幕のように拡がり、マキシムへと降り注いだ。
獲物の一挙一動を見逃すまいと目を見開いていた狼は、それをまともに浴びてしまった。
マーレンの中身は、別になんでも良いのだが、赤いペンキを入れてある。
目に入ったら、さぞかし痛いだろう――少なくとも、暫くまともに見えはしない。
だから、次の一撃は避けれない。
「我は永遠を生きる者。誰もが私よりも老いていき、誰もが私を置いていく」
視力を奪われながら、マキシムはその声に反応して見せた。
全身に怒りと憎しみとをたぎらせる。獣の本能に呑み込まれながらも、リドルの声はマキシムにとって、けして赦せぬ記憶を思い出させる契機となった。
声の方向へ、その大口を向ける。放てなかった咆哮を、憎悪を込めて、憎むべき相手へと解き放つ。
所詮は獣、というべきかもしれない。或いは、半端に甦ったマキシムの記憶のせいだったかもしれない。
リドルへと意識の全てを向けたマキシムは、落ちてくるディアの事を完全に忘れていた。
十二人分の膂力を持つ、少女の事を。
「でやあああああっ!!」
振り下ろした拳が、マキシムの頭を打ち抜く。意識の外からの一撃に、とうとう巨狼はその膝を折った。
完全に動けないマキシムへと、リドルが悠々と剣を突き付ける。
たっぷり時間をかけた切り札を、解き放つ。
「祈りは途絶え、悲しみは枯れ、泪は潰える。汝の命運も、最早潰えるのみ。天へと送ろう――【
赤黒い雷の槍。
かつてディアに向けた全力よりも、それは遥かに強大な一撃。森から注がれる力が、リドルの力を底上げしている。
不愉快な助勢だ――しかし、それを不愉快と思うこと自体は、それなりに愉快だ。
――俺は、自由だ。誰を憎もうと、嫌おうと、その全てが俺なんだ。
雷の牙が、マキシムを呑み込んでいく。
心の底でわだかまっていた下らない何かも、同時に焼き尽くすように。
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