第5話 「虐殺」

 フィルスヘイトは住人の階級は、大まかに三つに分かれている。そして、その階級によって住む場所も決まっている。街の最北端に位置し、領主アナライ・ララが住む領主邸を中心に半径七キロ圏内には富裕層が住み、そこから下は一般市民が住んでいる。いわば階段型に作られている街である。


 そして最後はスラム街。街の南西に位置する住宅街の路地裏にある。路地裏の幅は5メートルほど。住人の数は数百人程度。

 街の人々には疎まれ続け、それを逆撫でするかのように、スラムの人間による軽犯罪が横行している。人々はその場所をバーミルエリアと呼ぶ。排水や不法廃棄された生ごみの腐臭がこびりついた――典型的で、ありがちなスラム街である。


 アンリエッタ・エナードは十九歳でありながら、大人たちと共にバーミルを取り仕切っている。

 彼女の朝は早い。まだフィルスヘイトが静寂に包まれている、早朝五時から始まる。ロッジ型のテントが数十メートルに渡って立ち並ぶ、一メートルほどの幅の舗装路をアンリエッタは歩きながら、一日の開始を告げる仕事に取り掛かる。


 最初にすることは、バーミルエリアから街の正門を抜け、そこから1キロ離れた場所にある、井戸から水を汲むことだ。日替わりで水汲みの当番を代わるのが普通なのだが、彼女はそれをせず、毎日彼女が水汲みをしている。なぜなら、それが彼女の楽しみの一つだからだ。静まり返り、まだ街が起床する前のフィルスヘイト――その景色を見るのが好きなのだ。

 両手で抱えることが出来る壺を持ち、舗装路を歩く。

 「ふんふん」と鼻歌を歌いながら、彼女は正門を抜け、井戸から水を汲み、もう一度同じ道を歩く。


 彼女のお気に入りは帰り道にある。実際、水が満タンに入った壺を持っているため、行きよりは辛いことには変わりないのだが、行きに見えない景色が帰りにはある。自分たちを疎み、迫害するフィルスヘイトの人間たちだが、日々進化するこの街をアンリエッタは好きだと断言できる。


「毎日やっててあんまり気にしなかったけど、やっぱこの壺重たいよね」


 自分が住むテントに壺を置き、少し休憩する。


 時刻はちょうど六時頃。朝食を作り始めるのには少し早いため、アンリエッタはテントの掃除を始める。別段、散らかっていたり、ほこりが積もっているなんてことはなく、彼女自身もただの暇つぶし程度にしか考えていない。というより、毎日やっているせいで掃除をする必要がないまであるのだが、このバーミルエリアでは娯楽と言う娯楽がないため、必然的に身の回りのことをしてしまう。


 掃除を一通り終わらせると、次の仕事に取り掛かるべく、ゆっくりと腰を上げる。


「何か、もっと軽くていっぱい水を汲むことが出来る容器とかないのかな」


 そんな願望を吐きつつ、アンリエッタは調理場へ向かう。

 調理場までは少し距離があるが、途中、眠れなかったのか、ネムがテントの外に出てきていた。


「どうした? 眠れなかった?」


 アンリエッタはネムの前まで近づき、屈んでから話しかける。


「……ちょっと、こわい夢見た……」


 ネムは俯き、肩を震わせている。


「こっち座ろっか。おいで」


 近くにある椅子にネムを座らせ、話を聞く。

 聞けば、ネムの母親の事だった。三年前、ネムがまだ三歳の頃だ。ある日、目を覚ますと彼女の母親がいなかった。バーミルの人間は総じて全員が見ていないと言っていたが、その後、ネム本人がフィルスヘイト郊外で死体を発見した。

 三歳のネムには、ただ眠っているだけに見えたのだろう。だが、実際の死因は性的暴行によるショック死だった。アンリエッタ含め、バーミルの人間は息を詰まらせた。ネムには「お母さんは、寝ているだけだよ」とその場では済ましたが、ネムは賢い。すぐに感づいたのだろう。こうしてたまに、母親の夢を見るらしい。


 十分程話を聞いていると、「もうだいじょうぶ!」とネムは立ち上がり、走り去っていった。アンリエッタは少しの間、ネムの背中を見守り続け、立ち上がる。


「さてと、私も仕事頑張らなくちゃ」




 調理場にはすでに何人かの女性が作り始めている。朝食の献立は、アンリエッタが富裕層の人間から分け与えられたパンと茹でたひよこ豆。いつもはパンなんて高級な食べものは出ない。せいぜい少量の米に少しおかずで食事を済ます。


「アンリエッタや、本当に良かったのかい? ……本当はアンタに感謝すべきなんだろうけど、アタシはアンタの身体が心配だよ」


 このバーミルエリアの女でありながら長を務めるローザが、顔をこわばらせている。


「わたしは大丈夫だよ、ローザおばちゃん。最初は抵抗あったけど、みんなのためって思ったら頑張れるし」


 アンリエッタは料理に取り掛かる。ローザは不安という表情を崩さず、それに加え周囲の女性たちは目を伏せている。


 その後、子供たちと共に街へ出る。子供たちは日中は中央広場の路地裏で遊んでいるらしが、アンリエッタはその間にスラムの人間という事を隠し、街を探索している。富裕層の人間から与えられた資金で手早く買い物を済ます。


 すると、その夜。


「どうしたの!? ティナもそんな泥だらけになって……ミナキだってなんでそんなに擦り傷が多いの!?」


 バーミルに帰ってきた子供たちの姿を見て、アンリエッタは目を見開き、肩が跳ね上がりそうなのを抑えながら、子供たち1人1人の状態を確認していく。


「……騎士が」


「きし?」


 ティナが呟いた一言を彼女は聞き逃さず、聞き返す。


「ティナ! それは言わない約束だろ!」


 ミナキが激昂し、ティナに近づく。


「ミナキ、待ちなさい。ティナ、騎士ってあの騎士よね? 今視察で来てるっていう王都の騎士」


「う、うん」


 ティナはおどろおどろしながら肯定する。ミナキの表情が激昂から、逆に怒られる態勢に変わっていく。その他の子供たちの表情も、ミナキと同じようで、全員が全員――今日街に繰り出していた者たちだけではなく、今日行っていなかった者もテントの中から顔を出し、ミナキと同様の表情を浮かべている。


「どうして黙っていたの?」


 表情こそ強張っているが、アンリエッタの声音はあくまで穏やかで、子供たちも目に溜めた涙を拭う。


「……お姉ちゃんに迷惑かけると思って……」


 ティナが目に溜めた涙を拭いながら、震える声で言う。


「そっか、ティナは優しいね。でも危ない目に合うのならお姉ちゃんに言って? おばさんたちに言いにくいのならお姉ちゃんに言って、ね?」


 「うん」と頷く、ティナの頭を撫でる。ミナキ含め、他の子供たちもうな垂れるようにがっくりと肩を落とす。


「で、でもな! アンリ姉ちゃん! さっきオレたちが憲兵に捕まった時に助けてくれた人が居るんだ!」


 肩を落としていたのを一変させ、ミナキとトアイが興奮した様子でアンリエッタに近寄る。


「それって昨日言ってた人?」


 声を揃えて「そう!」と言う二人を微笑ましく見守りつつ、その助けたくれたという人について質問する。


「ハルトお兄ちゃんだよ!」


 今度はティナが髪を揺らし、ミナキの肩から乗り出すように言う。


「ハルトお兄ちゃん、ね。私も会って見たいな。ねぇティナ、その人カッコいい?」


 ティナの耳に手を当て、他の子たちに聞こえないように小声でたずねる。


「……んー、微妙?」


 「なんで疑問系?」と苦笑しながら呟き、アンリエッタも憲兵の事など頭の隅に止めておいてしまっていた。


 子供たちを風呂に入れるのも彼女の仕事だ。六人しか入れないが、バーミルにも風呂はあり、時間帯で男女入浴時間が決まっている。

 子供たちを風呂に入れ、彼女も一緒に入る。その日あったことや、彼らの夢の話を聞くのが楽しみなのだ。


 風呂と言っても四人が入れば少し狭い――廃材置き場に捨てられていた煉瓦を浴槽に改良したものだ。


「ティナ、ネム……その傷……」


 アンリエッタは、先に一緒に入った二人の少女の足や腕にある打撲傷に驚愕する。擦りむいた膝の傷等に関しては気にしなかったが、さすがにこの傷に関しては見逃せない。


「さっき言ってた騎士の話と関係があるの?」

「……うん」

「なんてこと……」


 アンリエッタは憤りを覚える。

 だが、異端の貧民には発言する権利があるわけがなく、その場の怒りとして処理する他無い。


「もう大丈夫だってば、お姉ちゃんは気にしなくていいよ」


 笑顔を作り浴槽から上がるティナとネムの背を見送り、アンリエッタは沈んだ表情をする。心配もするし、彼らを傷つけた者に怒りも覚える。

 だがそれとは対照的に、


「成長したんだなぁ」


 赤子の頃から彼らを知っているアンリエッタは、少なからず成長した彼らに感心した。

 困難が訪れても強く生きる。

 このバーミルの人間たちの絆は固く、強く、並大抵の力では崩すことは出来ないが、



     さて――        



 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 数日後――



 いつものように一日を過ごし、夕食を作り始める前にアンリエッタはあることに気づく。


「あの子たち、まだ帰ってきてないの?」


 ローザも気づいたようで、口元に手を当て、考えにふけっている。

 今日も今日とて、彼らは街へ出ている。アンリエッタも街へ出たりはするが、それは買い物や娯楽のためである。貴族の人間から与えられた美麗な洋服に身を包み、バーミルの人間ということを隠して街を散策する。

 日中に彼らと出会うことは滅多に無いが、話を聞いていると、どうやら路地裏で遊んでいるようだが、あまり危ないことはして欲しくないと言うのがアンリエッタの率直な気持ちである。


 だが、いつもはすでに帰宅していてもおかしくない時間だと言うのに、一向に彼らが帰宅する姿は見えない。

 空気がざわつくというのだろうか、アンリエッタは妙な胸騒ぎと、背中に流れる嫌な汗を感じ取る。

 すると、「何か聞こえる」とローザがみんなの会話をやめさせる。そしてアンリエッタ含め、全員が音の方へと首を向ける。


 ずるずると何かを引きずる音――

 時折聞こえる、石に引っ掛けた音が妙に生々しい。


「――…ぇ……?」


 アンリエッタが嗚咽にも似た声を漏らす。

 影でよく見えないが、引きずられているのが人間――それも子供だということがわかる。そしてその子供が黒髪のポニーテールであることもシルエットでわかる。


「……ネ……ム……?」


 影から出現し、月明かりに照らされたその姿を見て、今度こそアンリエッタはかすれた声でその名を呼ぶ。

 カチカチと歯が震え、顔に恐怖が表れる。見たくない、見たくないと叫びそうになるのを堪えながら、アンリエッタは静かに伏す少女を凝視する。


「歩、け」


 胸元に勲章をつけているということは、この街に駐在している憲兵ではなく、王都直属の騎士なのだろう。ネムを引きずってきた騎士の男がそう言うと、後ろからティナ、ミナキ、トアイの三人が歩いてくる。


 瞬間――


 男の手から固形物質の魔法が放たれ、ミナキの身体が一度大きく脈打ち、次の瞬間には糸の切れた操り人形のようにその場に崩れ落ちた。数回に渡ってビクッと痙攣し、やがて静寂が訪れた。胸部から止め処なく溢れ出る赤黒い液体が、汚れたバーミルの地面に流れていく。


「……………………」


 アンリエッタ含め、その場にいる全員の呼吸が止まったかのように思える静寂。誰も口を開くことが出来なかった。アンリエッタは無言のまま、伏したミナキを見る。


 ――目が合った。


 ――ミナキと目が合った。怖いほど感情の無い瞳と。


 そしてアンリエッタは理解した。


 ミナキは死んだのだと。


「以前から、予定され、ていた、八代王が、就任後初、のフィルス、ヘイトの訪、問に当たって、以前から、貴様らに、はこの場、所からの立ち、退き及び、この街、から立ち退、きを勧告し、ていたが、度重なる、無視に、より、王から、貴様らを、殺害するこ、との許可が、下りた。だが我、が王は寛、大だ。今す、ぐこの地を手、放し、投降する、というの、なら奴、隷程度に、は落ち着く、と思うが」


 聞いていない。立ち退き勧告なんて聞いたことがない。バーミルの会合には毎回出席しているアンリエッタだったが、そんなこと聞いたことがなかった。ローザも同様のようで、その他のバーミルの会合に出ている人間全員が「そんな話、聞いたこともない」という表情だった。

 それに、騎士の男の様子がおかしい。アンリエッタとて、この騎士のことを知っているわけではないが、口調に濁りがある。幽かすかに垣間見える詰まりに詰まった話し方。


 まるで、何かに操られている人形のよう――


「誰が手放すか!」


 誰よりも先に語気を荒げ、乗り上げたのはミナキの父親だった。目の前で自分の息子を殺害され、そして今から自分の命を狙われる。尊厳を踏みにじられ、それでもなお、スラムの人間は諦めない。彼らは日常で快楽を貪り続ける人間たちの陰で、何にも屈することなく生きてきたのだから。


「そうだ!」

「俺たちは出て行かない!」

「子供たちを解放しろ!」


 バーミルの男たちの声が響く。

 アンリエッタも、もう限界だった。


「いい加減にしてよ!」


 声を荒げ、男に叫ぶ。


「貴様は……写、真で見た、顔と一致、しているな。アン、リエッタ・エナ、ード、貴様、は大富、豪ベル・ライネル、様と契約して、いる、娼婦と、いうこと、もあり、此度の件、からは除外、される。これは、ライネル、様のご好、意だ。感謝せよ」


 「え?」と言葉をこぼし、アンリエッタの大きく見開いた瞳から光が消える。自分はこんな事のためにあの男に身体を売っていたのではない。スラムの人間全員のために、自らの身体をあの男に捧げ、その見返りとして金や食材を貰っていたはずなのに。


『こんなことになるなら、いっそこの場で死にたい』


 そんな感情がアンリエッタを押し潰す。 


 唐突に訪れた日常の破壊。

 この破壊活動は無力な自分たちに止められるはずもない。

 何かを食べ、生き、そして死ぬ。

 同じ人間のはずなのに、なんの理由も無く、生まれた瞬間から価値が決められて、辛い生活を余儀なくされる。この不公平な世界。


 いつか、ローザが言っていたことをアンリエッタは思い出す。


『人間と言う生き物だけではない。世界に生存する生き物全てはみな等しく弱い存在だ。だが、魔法という力を手に入れれば、そこから溝が出来上がる。それでは力の無い人間はどうするか』


 当時十六歳のアンリエッタは、この回答に期待をしていた。自分が将来、このバーミルを平民街の一部に加えさせてやる、と。


 だが、答えは無常で、至極当たり前のことで、アンリエッタの夢は破壊された。


『アタシたちだけじゃない。このネビュラにいる全ての不当な扱いを受けている弱者はね』


『――弱くて、儚くて、すぐに消え去ってしまう。力を持つ者には抗えないんだよ』


 この世界は残酷だと言う事実を、アンリエッタは再度噛み締めた。 

 アンリエッタの深層心理からは、目の前の血溜まりに伏すミナキのことなど全て忘れ去られていた。


「娼婦だって!? そんな奴がこのバーミルにいたのか!? そんな子供ここにはいらないよ、さっさと出て行きな!」


 ローザは、アンリエッタに向けて怒号を放つ。

 そして一瞬、アンリエッタの瞳に光が戻る。

 ローザ含め、バーミルにいる大人たち全員はアンリエッタが貴族と肉体関係を結んでいると言うことを知っている。それのおかげで食料や金、生活用具を手に入れていることを知っている。

 今まさに、自分は逃げろといわれているのだ。


 そう確信した瞬間、アンリエッタは弾かれたように駆け出す。

 何の未練もないかのように、全力で。途中、裏路地特有のデコボコした地面に転げそうになるが、振り返ることなく体勢を維持し、走り続ける。


 走り始めて二秒後、耳に流れ込んでくる声、音。

 人々の悲鳴。壁、地面が削られる音。子供たちの泣き声。大人たちの怒号。


 今は走る。全力で。


 だがふいに、我に返ったように足を止め、アンリエッタは振り返る。



 そこに広がっていたのは『地獄』だった。



 アンリエッタの視界に写ったのは、ミナキの父親だった。

 彼は、勇敢にも息子の仇を取るべく、男に立ち向かった。

 そして宙に浮いた。

 ミナキの父親が、ではない。

 その首が。


 次に目に入ったのはティナとトアイだった。

 二人は、男が大人たちの相手をしているのを見計らって、駆け出す――が、駆け出した先には、男と同じ鎧を身に付けた者たちが多数居た。

 二人は振り返り、戻ろうとするが、それは許されない

 そして鮮血が舞い、幼い肢体が散り散りに弾け飛ぶ。 


 その次に目に入ったのは、アンリエッタも良く知る、そして自分の親友であるエトラという少女だった。彼女は四年前にバーミルの男との間に生まれた四歳の娘を引き連れ、その場から逃げようと試みる。

 彼女の夫が犠牲となって。

 だが、全力で逃げようとするエトラと、その娘では歩幅が違う。歩幅の大きいエトラに合わせるように、娘も歩幅を広げるが、大人と子供では合わないのが必然。そして娘がバランスを崩し転倒する。手を繋いでいるため、それに引っ張られるようにエトラも地に膝をつく。

 気づいた時にはすでに遅い。無表情でエトラの背に立つ男は、何の躊躇いも無く剣を振り下ろした。

 またも鮮血が舞う。娘はただ呆然とその光景を見ていた。

 自分の頬に母親の血が付いていることも気づかないほどに。

 そして娘は自分が刺されたと気づくまでに数秒の時間を要してから、ぱたりと倒れた。


 最期に目に入ったのはローザだった。

 元平民ということもあり、このスラムで唯一魔法が使える彼女は、勇敢にも男たちに立ち向かった。炎属性の魔法を拳に纏い、鉄兜にローザは拳を叩き込む。このスラムの長としての誇り。何より、この平穏を壊した者たちへの怒りを宿した一撃は、自らが殺されるかもしれないという行為を捨て置いた、全身全霊の一撃だった。兜を破壊する感覚をローザは拳で味わいながら、殴られた男は壁に叩きつけられ、沈黙した。

 だが、いくらローザであろうとも、数に敵うわけではない。後ろから接近する音に気づかず、ローザの首が飛ぶ。


――ああ、幸せというのは、すぐに無くなってしまうものなのか。


 アンリエッタはただ呆然と、何も考えずにその場で立ち尽くした。


 この狭い路地裏の街に、止む事はない悲鳴、怒号、斬音、そして血と空間の臭いが混ざり合った激臭、見ただけで舌に血が滲むような感覚。アンリエッタの目に耳に鼻に口に――そして身体に、逃げ場を失くすように五感全てに恐怖を刻み込んでいく。


 走るのを止め、立ちすくんでいるアンリエッタは荒い呼吸を繰り返す。

 視界に写るのは地獄の光景。

 今すぐにでもあの場に戻ろうとする足を殴りつける。


 アンリエッタは笑みを浮かべる。

 自らを嘲笑するように。

 自らの選択を悔いるように。


 そして頬を伝う二筋の涙。被虐的な笑みを浮かべ、そしてその瞳からは止まる事のない涙が流れる。

 今度こそ、アンリエッタは振り返り、歩を進める。 

 この場から一刻も早く立ち去るために。

 心を覆い尽くすような絶望を払拭するために。


 そして彼女――アンリエッタ・エナードの『楽園バーミル』は終わりを告げた。


 彼女は駆けた。夜のフィルスヘイトの街を。夜に活気付くこの街では、今まさに端では残虐非道な行為が行われているとは誰も思わないだろう。


 アンリエッタは、まとまらない思考でも充分に理解している。このままフィルスヘイトの街を駆け、何があったかを説明しようにも、誰も信じてくれないことを。それに、バーミルの人間が何人殺されようが、街の人間は一切気にしないだろう。


 もしかすると、心優しい人間が助けてくれる可能性もある。


ただ駆けた。


 途中、足をもつれさせ転倒する。膝をすりむき、血が滲む。だが、ひざの熱を帯びた痛みを気にすることは無く、彼女は走り続ける。馴染みの八百屋を抜け、たまにこっそりと食べに行った甘味処を抜け、自分をスラムの人間と知ってなお、平民と同じように接してくれた金貸屋を抜ける。


 体力的にもう限界が来た。

 まだ走れる。

 だがその場に座り込んでしまった。

 唇をかみ締め、血が滲む。


「……ゆぅしゃ……さま。どうか、おたすけ、ください……」


 絞り出た言葉はただ懇願することだった。世界を救った勇者にただ懇願すること。

 街を歩く人間たちは、アンリエッタが座り込んでも一切気にしない。なぜなら、今彼女が身に付けている服装は、貧民街の人間のものだから。


「……ぐすっ……うっ……うぅ……」


 流れ出る涙を拭い、鼻水をすする。

 助けを求めるように、ただ夜空に手を伸ばす。

 そして掴まれた。


「どうした? 怪我でもしたのか?」


 俯いているアンリエッタの手を取った者は、彼女の容態を案ずるように声をかける。

 高くも無く、低くも無い、男の声。

 アンリエッタはそっと、顔を上げる。何もない虚ろな目で。


「……あなたは、ゆうしゃさまですか……?」


 アンリエッタは、男に問う。


 それはありえない。勇者は女性だから。


「いや、違うけど」


 当たり前の回答を男はする。


「そう、ですよね」


「でも――」


 アンリエッタは「でも」と前置きした男の瞳を見据える。

 無造作な黒髪に茶色の瞳。整っているとは言いがたいが、少なくとも悪くは無いといえる顔。アンリエッタは震える唇をかみ締める。


「勇者じゃないけど、君を助けることはできるかもしれない」


 アンリエッタは「え?」と言葉をこぼす。それぐらいに衝撃的なことだったから。








 勇者に助けを乞うた少女に手を差し伸べたのは、奇しくも勇者の宿敵、魔王だった。

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