第4話 「その闇は」

 宴の翌日。昨日、ガルフの言っていた事をじっくりと思い出してみる。

 この街には物好きな人物は巨万ごまんといるが、特定の人物というものは居ない。おそらく骨董品屋こっとうひんやなどという概念が無いため、その特定に人物を自力で見つけなければならないということになる。


 まずは手当たり次第当たると言うところだが、


「……つってもなぁ……」

「どうなされましたか?」


 眉を寄せ考え込んでいるハルトを、荷物整理をしていたエリアスが、心配そうにハルトの元へ駆け寄る。


「いや、昨日ガゼフが言ってたことを考えてて。どうしたもんかと思ってたところ」

「あれを売るという案についてですか」

「そうそう」


 エリアスは少し頭に片手を付き考えた後、ゆっくりと口を開く。


「では、こうなさってはどうでしょう? この街にいる商人の中でも有力者――例えば、昨日の会合でみなの前に立っていたあの人間に取り入るというのは?」


「なるほど、ありかな。まぁ、今日はやることあるし、明日にでもガゼフに聞きに行こうかな」



 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 ハルトは最初に行くべき場所に向かった。


「ここか」


 中央広場から東に伸びた大通りに進むこと数分、ハルトの目の前には大きな金貨の看板が堂々と飾られており、石材で造られた壁がなんとも言えない威圧感を醸し出している。


「……異世界に来てこれだけはやりたくなかったんだけどなぁ……」


 力なく微笑み、のらりくらりとした足取りで店内へ入っていく。

 何を隠そう、ここは『金貸屋』。日本で言うところの金融機関である。毎日の食を繋ぐのが不可能と感じたハルトは、意を決して金貸屋に来たのである。


 収容人数は二十人強。店内に入って最初に目に入ったのは高級な家具や調度品。特に目を引くのが――おそらく商談の席なのだろう、いくつかのソファとテーブルがある。


――まるで高校の修学旅行で泊まったホテルみたいだな。


 店内には今まさに商談をしている者もおり、出迎えの人間がいないということを考えると、今は店員が一人しかいないのだろう。

 ガゼフから聞いた話を整合すると、ネビュラでの金貸しの仕組みは日本とあまり変わらない。

だが一つ、変わるところといえば全ての権限は金を貸す方にあるということだ。客をどのように動かし、どのように口車に乗せるか、利息はどうするか――これらも全て金貸屋の裁量によるものではあるが。


 金を手に入れる方法は金貸屋だけではなく、討伐した魔獣の鱗などの素材を金に変える方法がある。

 特定の店で取引をする方法もあるが、その場合は金のインフレーションを防ぐためという理由から、市場価値よりかなり下の値が付けられるというデメリットがある。だがデメリットがあるのと逆にメリットもある。詐欺の危険性が少ないという極めて当たり前のことなのだが、日本のように設備や市場平均価格が定まっていないネビュラでは詐欺が横行する。

 対人商談だと、詐欺が横行し手が付けられなく恐れがあるため、多くの人間はそれをしない――のだが、一部の人間は私利私欲の目的で高級な素材などを市場平均価格をはるかに上回った価格で購入したりする。


 とガゼフが言っていた。

 だが、それに加えガゼフが言っていたのは、魔獣の鱗などを売る人間はほとんどいないということ。実際的に言えば魔獣が強すぎるとの事。

 異世界定番と言えば、冒険者組合などもあるのかと思っていたハルトだったが、それがないと知るとへこんだ。魔王という枠組みに入っている以上、まず冒険者という職業に就けることはないのだが。


「お客さん?」


 ふいに後ろから声をかけられ、ハルトは肩を震わせ、振り返る。


「あぁ、はい。そうです」 


 そこにいたのは、白髪と無精髭が目を引く三白眼の中年の男だった。

 緊張した面持ちでハルトは返事をする。


「では、こちらへ」


 慣れた手つきで商談の席まで誘導する男の後を、拾われた子犬のようにビクビクとしながら歩を進める。

 そして備え付けられたソファに座り、男が切り出す。


「ようこそ、『バラメーナ』へ。僕はここでオーナーをやらせてもらってる、フリーデマン・レスロ。みんなはレスロと呼ぶみたいだし、お客さんもレスロでよろしく」

「えっと、ハルトです。よろしくお願いします」


 手を差し出すレスロにハルトも手を差し出し、軽く握手を交わす。


「では、ハルト君……はまずいな。お客さんと呼ぼう、まぁ当たり前なんだけど。まずはいくら借りたいかを聞いてもいいかな?」


 ハルトはこめかみをそっと押さえる。今の春斗とエリアスの二人ならばいくら必要か。というより春斗はこの国の通貨の知識を知らない。そのため『これぐらい』という度合いを決めることが出来ない。


「……1ヶ月食っていけるぐらい、となればいくらぐらいですか?」

「1ヶ月……一ヶ月ね。それだと二十万メルトぐらいかな」


――この世界の通貨単位はメルトっていうのか。ていうか二十万円で一ヶ月いけるのか微妙なところだけど。宿代とかあるし。


「じゃあとりあえず20万メルト借り――」


 ハルトが言い終える前にレスロは手で制止する。


「まぁ金額の話は少し置いといて、いくつか質問いいかな?」


――じゃあなんで金額聞いたんだ。


「どうぞ」


 眉を寄せながらハルトはレスロの話に耳を傾ける。


「まずは、返還期限――つまりはいつ返してくれるかだね。これを聞きたい」


 その言葉に意表をつかれたように目を見開く。今のハルトは一文無しなうえに職業不定。スマホを買い取ってもらうという目的はあるものの、それが大金になるという保証はどこにもない。


「……レスロさん的にはいつぐらいがいいですか?」

「ん? 僕? 僕は早く返してくれるにこしたことはないけど」


 レスロは前髪をかき上げながら、大きく欠伸をする。


「それと、今のお客さんの所持金と職業もどうなのか、聞いてもいい?」

「うぐっ」

「嫌なこと聞くようだけど、その様子だと一文無しで仕事してないって感じ?」


 その瞬間――ハルトは背筋が凍りそうな感覚に襲われる。図星をつかれた春斗は目をぱちくりとさせた後、視線を下へ落とす。


「別に僕自身、というよりこのバラメーナでは本来個人の詮索はしちゃダメなんだけど……まぁ細かいことは今は置いといて、返還の目処が立たない以上はこちらからは金を貸すことは無理だね」

「……いやっ、そこをなんとかっ」


 ソファを揺らし、勢いよく立ち上がったハルトをレスロは目を細め、注視する。


「お客さん。言っちゃ悪いんだけどさ、返ってこない可能性のある物を貸す人間なんて普通はいない。僕も職業上、『貸してくれ貸してくれ』っていう人は今まで何人もいたし、この仕事はお金を貸すことだ。だけどね、何でもかんでも貸してくれと言えば貸してもらえるって考えは今すぐ捨ててくれ」


 レスロは立ち上がり、春斗と目線を合わせる。


「金を貸すのはいいが、後々困るのはお客さんだ。悪いが今回は帰ってもらえるかい? これは追い返すのとは違う。出直してくれってことだ」

「……はい……」


 あっという間の問答でバラメーナから立ち去ることを余儀なくされたハルトは苦虫を噛んだような顔でバラメーナの出口の門をくぐる。すれ違う人間全ての顔が引きつるような意地の悪そうな抑揚を帯びた声で何かをぶつぶつと呟きながら大通りに出る。


「いつかリベンジしてやるからな――――!」


 すると、昨日の裏路地に差し掛かるところで春斗の胸の中の不快感が薄れ、気が緩む。異世界という未開の地に放り出されたハルトにとって、唯一の心の安らぎが、昨日路地裏で出会ったスラムの子供達になりつつある。子供たちの雰囲気が日本の子供達と変わらないというのが主な理由であるが。


「あいつらと遊んでやるか……」


 頭を掻きながら、裏路地に差し掛かる角を曲がる。ふいに表情が固まる。その理由は足音だ。ふいに路地裏に響いた足音。子供達のものではなく、その元は裏路地の出口――逆側の入口、四人の男が子供達を取り囲むように立っていた。


 男たちはハルトの存在に気づいておらず、取り囲んだ子供たちに侮蔑でも嘲笑でもなく、ただただ叩きつけるような眼光を送っている。

 ハルトは角に隠れ、男たちの身なりを確認する。身に付けた鎧と、顔面を覆う鉄兜で思い出す。


「……あいつら。昨日俺を尾行してきた奴らの仲間か」


 時折聞こえる子供たちのかすれた悲鳴と男たちの威圧の声音。わずかに見える子供たちの様子を見れば、手足に擦り傷や打撲跡がある。

 その様子を見た瞬間、弾かれたように地面を蹴ったハルトは路地裏を駆け、一番近くにいる男に右ストレートを叩き込む。

 ハルトの拳は男の鉄兜に阻まれ、鈍痛とも言える痛みが全身を駆け巡る。


「ぐっ」


――平然と殴る奴すげぇよ。殴る方が痛いってなんなんだよ――!


 拳の骨から伝わる鈍痛に顔をしかめながら、ハルトは打ち付けた拳を振り切る。


「なんだ貴様は!」


 ハルトの放った右ストレートは対したダメージにはならず殴られた男は少し後退し、残りの三人は剣を抜き春斗に向ける。


――魔王になったんじゃねぇのかよ。しっかりしろ俺!


 殴る前までは勝ちを確信していたハルトは、向けられた剣を凝視し額から汗が流れる。


「ハルトお兄ちゃん!」


 先程まで黙っていた子供たちの中にいたティナがハルトの名を呼ぶ。


「待ってろ、今助けてやるからな!」

「貴様、ここにいる者たちの知り合いか?」


 剣先はハルトの方へ向いたまま、男は質問をする。額から流れ出た汗は頬を伝い、あごの先から地面へ流れ落ちる。


「……ああ。そうだけど」


 絶望的な状況は変わらず。勇ましく立ち向かうハルトは自らの行いを悔いる。そして、なんとか子供たちを助け出す方法はないか模索する。


「その身なり……スラムの人間ではなく、街の住人か。ならば殺すわけにはいかんな」


 そう言い、男たちは剣を引き、その内の二人がハルトの前に立ちふさがる。


「殴って悪かった。殺さないんならそこどいてくれ」

「それは出来ない。この物どもはこのフィルスヘイトに違法滞在しているゆえ、これより中央関門まで連行しようとしていたところだ」


 ハルトは口元を歪め、眉間にしわを寄せる。金貸屋で論破され、イライラしていたところにこれだ。自分の思い通りにならないことは日本で充分体感しているが、この異世界でも思い通りにならないとなると、さすがにイラつくことこの上ない。


「悪いが、その子供たちは俺が昨日保護したんだ。街から追い出すにしても野垂れ死ぬことは避けたい。だから――」

「この物どもがどこで死のうが知ったことではない。以前、王都に来た旅の男が言ったと言われている言葉がある。『泥水にワインを一滴垂らしてもそれは泥水のままだが、ワインに泥水を一滴垂らせば、ワインは泥水となる』と」


――マーフィーの法則……? いや今注目するのはそこじゃない。


「つまりアンタが言いたいのは街全体をワインに見立てて、子供たち含め貧困層の人間たちを泥に見立てているのか。冗談じゃない」

「言い方に語弊があったか? そこにいる者たちは人間以下の家畜――いいや、違うな。家畜は生活の糧となることを我々人間が良しとしている。だがそこにいるのは我々人間とは住む世界が違う社会のゴミだ」


 男は言った。彼らを、子供たちをゴミと。家畜以下と。感情を抑えようとするが、沸点の低いハルトにそれを抑圧することが出来るはずもなく。


「いい加減しろ、どう見ても同じ人間だろうがッ! 何が泥水だよッ」


 ハルトは語気を荒げ、男に食ってかかるように腕を振る。


「昨日保護したと言っていたが、貴様とこの者たちは一日二日の付き合いのはずだ。どうしてそこまで固執する。剣を持つ我々に殺される可能性すら考えられるこの状況で、なお楯突こうとするその真意は一体どこからくるものなのか」


「そんなもん決まってる。この子達も人間だからだ。俺たちと同じ、飯食って寝て起きて、俺らとなんら変わらない」


 日本では弱者の存在を肯定する者はいた。弱者を否定する者はおらず、強者が勝利を欲する世界。

 だが反対に、弱者の存在を肯定した上で手を差し伸べる者もいる。無能に怠惰に日々を過ごしていたハルトでさえ、弱者の存在を良しとした上で自身も弱者とし、彼らを助ける側に立とうとした。人間の真意とはそういうものだとハルトは思っていた。


「あいわかった。貴様の真意とはなんたるか、理解した。だがそれは貴様の願望であり、行動理由にすぎん。今この現状を打破するには根本的に力が足りない」


 手を挙げ、「やれ」という合図とともにハルトの目の前に立っていた、一番の若手であろう男が臨戦態勢に入る。それと同時にハルトも覚悟を決め、顔を引き締め、対峙の構図が完成する。


「さぁこいチート!」

「何を言っているのか知らんが……二等、この男を拘束せよ。抵抗するならば少々痛めつけても構わん」


 ハルトは決意を固め、目の前で構えた拳を再度握り締める。


「殺すのは人間種規定に違反するため、貴様には剣ではなく拳で傷を負ってもらう。聖都二等憲兵がお相手する、覚悟を」


 瞬間――


「かはっ」


 ハルトの気づいた時にはすでに男が懐に入り、左ストレートがハルトの腹部を捉えていた。肺の空気が一気に放出され、悶絶する。そして立て続けに右ストレートが放たれ、ハルトの顔面――主に鼻面を直撃し、盛大に鼻血を噴出させながらハルトは吹っ飛ぶ。


「……コフッ、いきなりはないんじゃないの? ったく服が血まみれだ……」


 ゆらっと立ち上がり、強がるようにふらつく足を叱咤する。だが追撃は終わらない。


「うっ……」


 男の蹴りがハルトもみぞおちを捉える。

 内臓を抉られるような痛みが全身を駆け巡る。残った酸素が全て吐き出され、血眼で酸素を求めるように何度も呼吸運動を繰り返す。そして遅れてやってきた嘔吐感に堪えられず胃液を吐き出す。


――……朝飯食べなかったのが幸いだったか……。


「……う、ぷっ。ッ……ハァ。まだ、やれるぜ」


 もちろんただの強がりに過ぎない。日本にいた頃に喧嘩なぞしたことがなく、戦闘経験といえば、中学の頃に近所のボクシングジムに体験入会したぐらいだ。2週間ももたず辞めてしまったが。

 男は少し驚いたような顔をし、わざと肩を震わせ仲間の男たちに笑みを送っている。


――一発……一発だ。あの顔面に叩き込んでやりたい。


 のらりくらりと、すでに足取りが怪しいハルトに対して、男は笑みと侮蔑が入り混じった表情でハルトを見下ろしている。


「……え?」


 男の腕は動いていない。何が起こったのか、理解するのに数秒を要した男の行動は、ハルトを地面に叩きつけることで終了した。


「なにを、した」

「わざわざ私の手を汚すのは癪だった。ただそれだけだ」


 男の言っていることをハルトは理解できない。異世界転生という事実を易々と受け入れることが出来たハルトではあったが、『魔法』というものを受け入れるにはまだハルトの脳内は落ち着いていなかった。

 そして地面に這いつくばったハルトへ追撃の蹴りが顔面にクリーンヒットする。身体はそのまま宙を舞い、再び噴出した鼻血と唇と口内から洩れ出た血が宙に半円を描く。仰向けに倒れ伏したハルトは沈黙。


「終わりました。一等殿」


――まずい、死ぬ。生き返ってまだ二日だぞ。ここで死ぬわけには、いかない。


「ご苦労。ではこの物たちを処分した後、拘束し聖都へ連行する」


 ハルトは目を瞑り、ティナ含め、助け出すことを叶わなかった子供たちの心中で詫びた。


 刹那、


「矛を収めなさい、下郎。至高の御身にそのような粗末な剣を向けること……万死に値すると知っての行動と取ってもよいのか」


 凛とした声が路地裏に響く。耳に残るこの凛声をハルトは知っている。ハルトを魔王と慕い、自らも魔王幹部と名乗る銀髪翠眼の少女――


「お迎えに上がりました、ハルト様」


 『バラメーナ』側の路地裏の入口に立っている少女を見て、少なからずハルトは安堵した。

 腰まで伸ばした銀髪をさっと払い、鋭い眼光を男たちに向けている。


「何者だ。貴様」


 ハルトの時と同じように、男はエリアスに質問を問いかける。

 だがエリアスはその質問者である一等と呼ばれていた男を一瞥しただけで、無言でハルトの元へ歩を進める。そしてハルトの元まで行くと、魔法を発動しハルトの傷を癒していく。

 一等含め、その他の男たちは、近づいてくる――そして目の前でハルトを治療するエリアスに対しての行動を起こすことが出来なかった。外見上はただの美しい少女。だが、いざ近づいてみると、圧倒的な存在感が周囲の空間を御する。


「質問に答えぬのであれば、貴様もこの男同様に痛い目を見てもらう事になるが」


 自衛の態勢に入りつつ一等が話しかけるも、依然としてエリアスはそれを無視し、ハルトの傷を癒している。


「ハルト様、申し訳ありません。私は回復魔法に特化していないゆえ、傷の治りが遅いのが致命的。この者たちを退けた後、宿にてゆっくりと治療を再開致します」


 最低限度の治療を終え、無言で立ちあがる。怒りも無く、表情一つ変えることなく真顔。普通、敬愛する王をいたぶられれば、憤慨するのが臣下。だがエリアスは憤慨の感情を表には出さず、己が眼前に佇む敵を屠るためだけに表情を消す。


「前にも言ったけど、殺すのはダメだぞ。気絶させるぐらいで」

「それについては昨日言われたばかりですので、私自身理解しております。ですから、先程この光景を目にした時、真っ先にこの者たちを殺すという行為に及ばなかったのです」


 エリアスはハルトに対し、微笑を浮かべ、ハルトの方へ顔を向けたまま「それに」と後付し、


「すでに終わっております」


 微笑から頬を紅潮させるような笑みに変わり、エリアスは首を男たちの方へ動かす。エリアスの視線を追うようにハルトも男たちの方へ視線を移す。


「――…な、なにをした、女」


 そこには今にも倒れそうな一等の姿があった。一等は今にも崩れ落ちそうなひざを押さえつけ、エリアスを睨む。目の焦点はあっておらず、どっと噴き出した汗が顔から流れ落ち、地面に大きな染みを作っている。周囲には一等の他にいた男たちが白目を剥いて崩れ去っている。

 エリアスへの質問をなおも無視された一等は限界を越えた様子で、ひざから崩れ落ちた。


「お前ら、今日はもう帰りな。また追っ手の奴らが着たら面倒だしな」


 ありがとう、と声を揃えて感謝の意を言う子供たちをハルトは一人ずつ頭を撫でる。

 その後、子供たちを路地裏から脱出させ、一等たちも路地裏の済みのゴミ捨て場に放置した。


「エリアス、さっきのは?」


 路地裏の壁にもたれ掛け、首をかしげているハルトにエリアスはそっと微笑む。


「先程の使用したのは魔法の一種になります。ですが、私は攻撃に特化しているため、効果があまり大きくありません。脆弱な人間程度ならば、今のように落とすことが可能です。七つの大罪の一柱のベルフェゴール様であれば、私など比べ物にならないほどの幻術を使用することが出来るのですが」


「……魔法……ね」


 自らの願望でもあったその固有名詞を呟く。

 そして、今の話で少しひっかかったことがあるとハルトは疑問を切り出す。


「七つの大罪って? 何? マンガ?」


「マンガではありませんが、七つの大罪とは傲慢・嫉妬・怠惰・強欲・暴食・色欲・憤怒の七つの罪を神から宣告されし、絶大な力を持つ七柱の大悪魔の方々になります」


――ゲーム的には七つの大罪が敵なんだろうけど、エリアスの今の話し方からするとこの世界、いや俺が魔王でいる間は味方なのか。てかマンガって単語知ってるのな。


「なるほどな。まぁ説明させて悪いけど、とりわけ今の俺たちには関係ないってことはわかった。今は仲間を探すことが大事だしな」


「いえ、関係ないわけではないのですが……」


 小声で呟いたエリアスの声は、表通りの活気に溢れているとも騒がしいとも言える声にかき消され、ハルトの耳には届くことは無かった。



 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



「だぁぁぁぁぁぁぁっ。今日は疲れた……」


 宿のベッドにダイブし、今日起きたことへの愚痴を漏らすハルトを横目に、エリアスは机の上にじゃら付いた小さな布袋を置いた。その音にハルトの耳は反応し、かすかにベッドから顔を上げる。


「……え、エリアス。それってもしかして……」


「はい。本日私が行った金貸屋にて借りることの出来たお金――25万メルトになります」


――俺が提示された額より多い……のか。


「へ、へぇ。よくやったな、エリアス」


 ハルトは曖昧な表情で身体を起こす。


「ハルト様の近況と言いますか、金貸屋での一連の出来事について聞いてもよろしいでしょうか? 路地裏での一件の時にすでに拝見致しましたが、お金を借りることが出来なかったと存じ上げます」


 「うぐっ」とハルトは悶絶し、がっくりと肩を落とす。その後、ゆっくりと顔を上げ自嘲するような笑みを浮かべ、事の顛末を話し始める。





 数分に渡って事の顛末を話し終え、完全に生気のない顔と成り果てたハルトをなだめる様に、エリアスは微笑を浮かべる。


「本当に面目ない。まさか店主があんな性格だとは知らなかった」


 手を合掌し謝罪の言葉を言うが、エリアスは笑みを崩さず、机の上に置いた布袋を差し出し、ハルトの前で膝を折り頭を垂れる。絶対的な君主に絶大な敬意を払う姿勢を取る。


「ハルト様、こちらは私が獲得したものですが、最終的に手にするあなた様でございます。あなた様の失態は私の失態。自罰ならば、私が受けましょう」


――なんだかんだ言ってハルト呼びが定着したのな。……って、


「罰なんかしねぇよ!? 俺のミスは俺のミスだし、ていうかむず痒いから頭上げてくれ」


「かしこまりました」

「それで、返済期限は決まっているのか?」

「一応決まっておりますが、今日から一ヶ月後と店員の男は言っておりました」


 エリアスは誓約書のような物を取り出し、ハルトの眼前に置く。ハルトはそれを覗き込み、気が滅入るような表情をする。


「なんて書いてあるのか、数字以外まったく読めん」


日本語と英語しか読むことができないハルトには異世界語を解読することは不可能である。


「誓約書に書いてある内容は、大まかに言えば店名、担当者名、客名である私の名前、総金額、返済期限、誓約文ですね」

「そういや、文字は異世界文字なのに言葉は通じるんだよなぁ。根本から分けわかんないな、これ」

「どうかなされましたか?」


 顔面を枕に埋め、足をばたつかせていると、心配そうにエリアスが顔を近づけてくる。


「え、いや、なんでもない」


 日本では勉強漬けの毎日だった上、大学では日々を浪費していたハルトに女性経験があるわけでもなく、異世界転生という事自体を受け入れた途端、近くに居る美少女の存在に心臓が跳ねる。若干上ずった声で反応し、それを聞いたエリアスもまた心配し、距離を近づけてくる。


「あの、ハルト様」


 顔を極限まで近づけた後、頬を紅潮させたエリアスは少し離れ、短いプリーツスカートの裾を押さえる。


「記憶の無くしてしまったハルト様とこうして宿で生活を共にするようになり二日目の夜を迎えました」

「そ、その言い方は少し語弊があるんじゃないのか、な?」

「ベッドが一つしかないため、昨日はハルト様に押し切られる形で泣く泣く私がベッドで寝ました」


 紅潮した頬を隠すようにエリアスはうつむく。


「……私ではダメなのでしょうか? ハル……魔王様は、記憶を失う前から誰とも関係をお持ちになられなかった。ですが今は、記憶を失った今なら、私と……その……」


――いや、なんで魔王が童貞なんだよ。魔王って言ったら、『世界の半分をやろう』的なこと言うんじゃねぇの? あ、それは竜王でした。つか関係ねぇ。


「えっと、話の流れから察するに――」

「……はい。今夜、魔王様のご都合がよろしければ、その、どうでしょうか?」

「えっと、ですね。俺は、その、素人童貞にはなりたくないっつうか……」


 女性に慣れていないハルトはベッドから後ずさるように手を這わせ後退しそうになるが、ギリギリ一手踏みとどまる。彼の視線の先には濡れたエリアスの唇。考えてみれば当たり前だった。魔王の従者であり、彼女は第三位。少なくとも魔王の妃のような立ち位置でいてもおかしくない。

 だから、肉体の関係であったとしても不思議ではなかった。ハルトもまさか魔王が童貞とは思わなかったが、肉体を求めてくることに関しては失念はしていた。


「悪いな、エリアス。記憶を無くしてるからお前との思い出とかも無いんだ。だから今はお前と肉体関係を結ぶことは出来ない」


――よ、よーし。落ち着いて言った。偉い。俺、偉い。


「そう、ですか。わかりました」


 エリアスは視線を泳がせ、ハルトは再度枕に顔面を打ちつけた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る