Age95-3 訪れた友発ち

 神社の鳥居前の長い階段に腰を下ろし、月を見上げて酒を飲む。生涯で一番の不味い酒。けれども口元に運ぶ手をやめられずにいた。月光を浴びながら、妖しく風に揺らぐ満開の桜。時期にはまだ早過ぎるが、今月は例年よりも気温が高かったこともあり、勘違いしてうっかり咲いちまったみたいだ。どうせなら、昨日の内にでも咲き乱れてくれりゃ良かったのに。綺麗だが意地の悪い桜もあったもんだ。時折強く吹きつける風に木々が煽られ、花びらが舞い、杯に静かに落ちてくる。水面に浮かぶ薄桃色の舟を見つめて、今日何度目かの溜息をこぼした。

「おじさんも、そういう表情になるんだね。」

突然耳に入ってきた声に、俺は条件反射で顔を上げた。見慣れた姿、見知った表情、聞きたかった声がそこに居た。

「坊主、おま…何で…?」

「隣、座るね。」

頬は痩せこけ、全身を白い装束で包み、肌まで色が抜けた坊主は、俺の問いに答えることなく、音を立てずに隣に腰を下ろした。そのまま夜桜に目を合わせるもんだから、調子を狂わされて、俺も杯を置いて天を仰いだ。いや、「いつもの調子に戻った」が正解かも知れねえな。

「今年の桜は随分早いね。」

「暖かかったからな。狂い桜もいいところだ。」

それだけじゃないと、今ならなんとなく分かる。こうなることが分かっていて、こいつは早く咲いたのだろう。四季ごとに姿を変えながらも、俺と坊主の時間を共に過ごしたこいつだからこそ。坊主が揃い、桜は嬉しそうに体を揺すり、ゆったりと舞う桃色の雨を、しきりに降らせた。

「あはは、こんなに花びらを散らせたら、来月頭には全部落ちちゃいそうだね。」

「それでいいんだよ。今年はそれで…。」

今日この瞬間が輝いていればいい、こいつもきっとそう思っているはずだ。今後二度と訪れないこの一瞬だけで。

「…何度も病院にお見舞いに来てくれてありがとうね。最初お婆さんの姿だったから驚いたよ。」

「大男のまま行ったら目立つし、入院患者の通行の邪魔になるしな。」

最近では、坊主が入院して神社に来られなくなり、専ら俺が坊主の病院に通っていた。たまに鉢合わせる美紅には良い顔をされなかったが、昨日までずっと坊主の見舞いを続けていた。

「愛しの美紅ちゃんには不快な思いをさせちまって悪かったな。」

「あはは、ばあさ…美紅は焼もち焼きな所があるからね。可愛いでしょ?それにしても見事に老婆を演じていて、さすがはおじさん。」

「昔やんちゃだった頃に、豪傑な人間に片腕を斬り落とされて、奪われたことがあったんだが、取り返しに行く時に化けたのが、あの姿だったんだよ。中々警戒心の強い奴だったが、ものの見事に騙して、腕を取り返したもんだ。」

「へえ、それってまるで…」

「あっと、そうだ。」

坊主がここに居られるのも、限られた時間なのだろう。俺は急いで立ち上がり、神社の中へと走っていった。それから一通り物をかき集めてから、再び坊主の隣に腰を下ろし、荷物を膝の上に置く。

「坊主、忘れずに持っていけ。」

「お猪口。ふふ、相変わらず綺麗なままだね。」

「いつでも使えるように毎日洗ってたからな!それからこれ。」

元々飲もうと置いておいた酒瓶を坊主に渡す。ずっと坊主が気になっていたという俺専用の酒だ。坊主は瓶を手に取ると、ラベルに顔を近付けた。

「『酒呑童』…やっと読めた。これ、漢字の旧字体じゃないんだね。」

「そりゃそうだ。人間には手に入れられない特別品だからな。向こうで目一杯楽しめ。」

それから俺は、懐から重みを持った巾着袋を取り出し、坊主に渡す。

「これは?」

「今は河を渡るのに、船頭に金を渡すシステムは廃止されてな。浮いた分の渡し賃で、向こう岸の出店を楽しんでもらうようになっている。坊主なら十分に金を持っているだろうが、使えるものは多いに越したことない。餞別だ、持って行け。」

酒瓶を脇に置いた坊主の両手に持たせて手を握る。体温に触れるだけで、胸の奥が締め付けられるように苦しくなった。

「挨拶をしに来ただけなのに、かえって気を使わせちゃって…ありがとう、おじさん!」

「へっ、そう思うなら、200まで行けっつーの。」

俺は照れ隠しにそっぽを向くと、反対側から笑い声が漏れた。この声を忘れないように、耳の奥まで刻み込んでおかねえと、な。


 それから一時間ばかり、坊主と他愛無い話を交わしたところで坊主は立ち上がった。もうお開きか。楽しい時間ほど、あっという間に過ぎてしまうもんだ。これまで過ごしてきた無駄な時間を今この瞬間に宛がえるものなら宛がいたい。坊主は階段を一段降り、振り返って笑顔を見せた。

「美紅のやつ、すごく落ち込むと思うから、おじさんが嫌じゃなければ、気に掛けてあげて?」

「おう、任せろ。坊主が再会するまでは、行く末を見届けてやるから心配すんな。」

「うん。宜しくね。」

手を挙げて出発しようとする坊主の口に、俺は紙に包まれたままの小さな玉を突っ込んだ。包み紙越しの感触と玉の大きさで気付いたのか、坊主は懐かしそうに目を細めた。

「…約束。守ったから、飴代浮いたでしょ?」

「おう!サンキューな、坊主。」

坊主の頭に手を置いて、クシャクシャに撫で回す。一瞬だが、あの頃の坊主の面影が重なり、視界が淀んだ。坊主から手を離すと同時に、坊主はゆっくりと天に昇っていく。桜の頭を越えた辺りで霞のように消えるまで、俺は坊主の姿を瞳に焼き付けた。

「…ったく、最後まで良い顔をしやがって。」

坊主は終始、月の輝きに負けない程の眩しい笑顔を絶やさなかった。


 それからもう一度飲み直そうとしたが、最後の一本を坊主に譲ったため、酒がなくなっていたことに気付いた俺は、懐の銭を確認して、勢いよく階段を駆け降りた。

 その頃には、桜の花も落ち着きを取り戻して、静かに夜の神社を彩っていた。


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