やまなしリテイク(短編)

鹿爪 拓

あの子はかなしいコロボックル

 少年がいた。小さなアパートの暗がりで、母も父も外出している中、ひとり、家の中に取り残されて、一番奥の部屋の隅でうずくまっている、半分眠りそうな目をした、少年がいた。

 少年は辛かった。母にも、父にも虐待を受け、体のそこかしこに黒ずんだり、赤かったり黄色かったりする、いくつもの傷跡をつけていた。

 ある日の、もう町の明かりが街灯だけになった夜のことである。父と母が二人揃って帰ってきた。

「あら、○○、もうこんな時間なのに、まだ寝てなかったの?」

 母が、そう尋ねてきた。部屋に明かりはつかず、暗いままの世界で、そう少年に問うてきた。彼女の左手に小さな赤い光が見える。煙草だろう。少年は腹をすかし、水もろくに飲んでいない。口をあけたが、乾いた喉から声が出ることはなかった。

 すると、少年の父が今度は訊いてきた。

「なあ、○○、返事はどうした? ……返事はどうしたんだよ!」

 気が遠くなりそうな少年の耳に怒声が聞こえる。濃い酒の臭いがした。直感でわかる。少年は答えることもなく頭を腕で覆い、かすれた息しか出ない喉を通して、ただゴメンナサイゴメンナサイ、と言い続けるだけだった。

 とたん、腕を動かしたことで空間ができた脇腹に鈍痛が響いた。父親が持っていた酒瓶で彼を殴ったのだ。当然一度では終わらない。二度、三度と繰り返し、彼の柔らかい部分を狙って父親は酒瓶を振り下ろした。と、母がその行動に声で制止をかけた。

「ちょっと、そんなんじゃ死んじゃうわよ。もっと優しくしてあげないと」

 そして父親をどかして母が少年の前に座り、煙を吐いた。

「ね? 死んじゃうわよねぇ?」

 少年の小指でジュウ、と音がした。母は彼の小指に煙草の火を押し付けたのだった。少年は痛みを耐えるために、顎を噛みしめた。まだ家族が幸せだった頃を思い出して。

「まだ生きてるっていうのも、それはそれで辛いでしょうけどね」

 母が引き連れたような笑顔をして言った。

「体の傷は小さく、ね」

 父親は小さく噴き出し、そう言った。

 二人は立ち上がり、部屋を出て行った。それで、その日の少年と両親の会話は終了したのだった。


 明くる日。少年は右足の小指のやけどが痒み始め、それを無意識に掻いてしまった。激痛で目を覚ます。

「あら、起きたようよ」

 少年は車に乗せられていた。母の膝枕に頭を乗せられて、揺られている。

 頭を起こさずに見上げると、見たことのない服装をした(白のワンピース姿)母が優しい笑顔で少年を見下ろしていた。

「おお、○○、起きたか。最近何も食わせてなかったせいか、ちょっと反応が鈍いみたいだ。とりあえずさっきコンビニで買ったパンと水があったろ。アレ、食わせてやれ」

 しだいに意識がはっきりしていく中で、父の声が聞こえた。コンビニ、パン、水。少年は思わず飛び起きた。隣から上品な母の微笑が漏れている。

「やっぱり、こういうのが普通の私たちのあり方なのよね。はい、○○。お水とパン。メロンパンしかないけど、許してね」

 少年は母の言葉半分を聞いて、すでに彼女の手からそれらを取り上げていた。袋をあけ、そのメロンパンとやらにかぶりついた。が、唾液が出ず、口の中の水分を奪われて咳き込んでしまった。あわてて未開封のペットボトルをあけ、水を流し込んだ。

「とんでもないがっつきようね。ここまで私達って○○に食べさせてなかったのかしら」

 そう言って、母も彼のために取り出した食料と同じ袋におさまっていたペットボトルの蓋を開け、その水を口に含んだ。

「まあ、仕方ないだろう。帰るのは夜中、仕事に出るのは夜明けとほぼ同時じゃあな」

 俺にも何か飲み物。と父は言って、そのままハンドルを握っていた。

 少年はメロンパンに心を奪われていた。今まで食べ続けていたのは単なるプレーンは食パンだけだった。こんなに甘く香ばしいものが世界に存在することを初めて知った。そうやって食べ続けるうちに三つほど胃に収め、最後に二本目になったペットボトルを開けて一息ついたときに、ようやく自分に声が出せるようになったことを理解した。

 少年はおそるおそる、両親のどちらに声をかけるともなくつぶやいた。

「これからどこにいくの?」

 ちいさな声だった。『ゴメンナサイ』以外で、久々に親へ意思の疎通を願った声だった。まず間違いなく聞き落とすようなそれであったが、母がなんとか声を拾ってくれたようだった。

「覚えてる? 円川まどかがわよ」

「円川……」

 少年はすぐに思い出した。それは少年がまだ幼稚園にも行く必要のない齢でなかった頃に、よく三人で遊びに行った、少年が両親を信頼しようとする上で最後の頼みとしていた幸せの記憶だった。

 そしてその少年の声に父親が返事をした。

「そう、その円川だ。懐かしいだろ?」

「うん!」

 少年の声に期待の色が満ちみちていた。あの川に行って、遊べるんだ。また、やさしいパパとママが帰ってくるんだ、と思った。ふと、懐かしい冷たい水の香りを嗅いだ気がした。

 そして車は、舗装の無い道に入り込んだようだった。山道はところどころで窪みや形の大きい石などが転がっていて、車体は大いに揺れた。

「さあ、もうそろそろだ」

 父の言葉と、幼少の記憶にせかされた少年は、揺れる車内で目を前に向けた。コンクリートで造られた、乗用車一台がやっと通れるような幅の橋。間違いなく、自分が辛いときによく思い出していた、あの円川の橋だった。

「パパ、外に出たいよ! 止めて」

 父親が驚いて後ろを向く。なるほどそれもそうだ。飲まず食わずで放置していた息子が、ここまで元気そうに、いきなり声を張り上げたのだから。母親もそれにならうような形で、咥えかけた煙草をポロリと落としてしまった。

「ちょっとあんた、どうするのよ。こんなに元気にはしゃいじゃって」

「……。まあ、少しくらいは外に出しても大丈夫だろう。逃げるわけじゃあるまいし。

よし、○○、降りるか」

「うん!」

 そうして三人は、橋の手前で車を停めることにした。茂る森の木漏れ日が三人を包み、橋だけが明るく太陽の光を一面に受けていた。少年は走って懐かしい橋を渡り、その中間ほどで欄干に足をかけ、大きく身を乗り出した。

 幅が15mほどになる川の水は光り、泡立っていた。すぐ後ろに上流へと繋がる滝があるからだ。5mほど下にある川の中を悠々と魚が泳ぎ、その水面を滑るように、足元からカワセミの青い羽が走っていった。後ろの方で歩く足音が聞こえる。父親と母親も川を覗いているようだった。

「○○、こっちもすごいぞ」

 少年は体勢を戻し、欄干から足を外して両親の元へ駆け寄り、先ほどと同じようにして川を覗いた。こちらも懐かしい姿をしていた。ちょうど少年の膝の高さほどのところからドウドウと激しい音を立てて大量の水を落とし込んでいた。川幅の広さはそのままに、絶え間なく水が落ちているので落ちていく水だけしか見ることができない。


 そのとき、少年の視界が反転した。――そして、広い滝つぼへ、落ちた。

 少年は必死でもがいて流れに逆らい、水面へ上がって息を吸い込んだ。が、滝の裏側に出た彼は落ち続ける水が作り出す水流によってまた水中へ押し戻され、滝の裏側の、底にしたたかに打ち付けられた。それでも彼は諦めずにまた水面へ上がってきた。そのたびに聞こえる彼の「ぷはっ、かっぷはっ」という、少しずつ水を飲みながらに息継ぎをする声は橋の上には届かず、

「はぁ、やっぱり子育てって面倒なもんね。よくあの大きさになるまで耐えたもんだわ、私も」

 少年の母がそう言って、煙草に火をつけた。

「いいじゃねぇか、今度からはちゃんとコンドームに穴が開いてないか、確認するようにしときゃ。とりあえず、ちょっとしたら役場に届けなきゃいけねえなぁ。それが最後の面倒だといいが」

 少年の父親は自分の妻にそう告げ、酒瓶をあおった。

「ちょっと、ここで飲まないでよ。私、運転したくないわよ」

「わかってるさ、どうせ死んだのを見届けてから帰らなきゃいけねぇんだ。それまでは気楽にいこうぜ」

 少年にはこの会話が聞こえない。橋の上の二人は、すでに別の話題へと意識を傾けつつあった。





      パパ

                    ママ

 寒いよ                冷たいよ


















 それを見ていた小さな谷川の底で繰り広げられた、いつかどこかの記憶です。


 たくさんのサワガニの子供らが、青じろい水の底で、昔話を話していました。

『クラムボンはわらったよ』


『クラムボンはかぷかぷわらったよ』


『長老はわらったように聞こえたって言ってたよ』


『クラムボンは跳ねてわらったよ』


『クラムボンはかぷかぷわらったよ』

 上の方や横の方は、青くくらく鋼のように見えます。そのなめらかな天井を、つぶつぶ暗い泡が流れて行きます。


『クラムボンはわらっていたよ』


『わらってたのかな』


『クラムボンはかぷかぷわらったよ』


『それならなぜクラムボンはわらったの』


『知らない』

 つぶつぶ泡が流れて行きます。カニの子供らもぽっぽっぽっとつづけて五六粒泡を吐きました。それはゆれながら水銀のように光って斜めに上の方へのぼって行きました。

 つうと銀のいろの腹をひるがえして、一疋の魚が、ひそかに子供らを狙っていた魚をくわえ、頭の上を過ぎて行きました。


『クラムボンは死んだよ』


『クラムボンは殺されたよ』


『クラムボンは死んでしまったよ……』


『殺されたよ』


『それならなぜ殺された』いちばん大きなカニの兄さんが、その右側の四本の脚の中の二本を、弟の平べったい頭にのせながら言いました。


『わからない』


『クラムボンは馬鹿だったんだよ』ちいさな弟のカニが偉そうに言いました。


『馬鹿だったのか』


『馬鹿だった。クラムボンは馬鹿だった。兄さん、頭が重いよ』


『そうか、馬鹿なら仕方が無い』カニの兄さんは弟の頭から脚をおろしました。

 魚がまたツウと戻って下流のほうへ行きました。


『クラムボンはわらったよ』


『わらった』


『わらった、わらった』


『クラムボンはわらった』


『馬鹿だから、わらったよ』


『わらったよ』   『わらったよ』 『『わらった、わらった』』



『『『『『わらったわらったわらったわらったわらったわらったわらったわらった』』』』』


 空にかかった雲が動き、にわかにパッと明るくなり、揺れる日の光が夢のように水の中に降って来ました。

 波から来る光の網が、底の白い岩の上で美しくゆらゆらのびたりちぢんだりしました。泡や小さなごみからはまっすぐな影の棒が、斜めに水の中に並んで立ちました。

 さっきとはちがう魚がこんどはそこら中の日の光をまるっきりくちゃくちゃにして、おまけに自分は鉄いろに変に底びかりして、また上流の方へのぼりました。


『お魚はなぜああ行ったり来たりするの』

 弟のカニがまぶしそうに目を動かしながらたずねました。


『何か悪いことをしてるんだよ。悪い仲間と一緒にわるいものをとってるんだよ』

 弟のカニの友達が答えました。


『とってるの』


『うん』

 そのお魚がまた上流から戻って来ました。今度はゆっくり落ちついて、ひれも尾も動かさずただ水にだけ流されながらお口を環のように円くしてやって来ました。その影は黒くしずかに底の光の網の上をすべりました。


『お魚は……クラムボンの……』

 その時です。にわかに天井に白い泡がたって、青びかりのまるでぎらぎらする鉄砲玉のようなものが、いきなり飛び込んで来ました。

 兄さんの蟹ははっきりとその青いもののさきがコンパスのように黒く尖っているのも見ました。と思ううちに、魚の白い腹がぎらっと光って一ぺんひるがえり、上の方へのぼったようでしたが、それっきりもう青いものも魚のかたちも見えず、光の網はゆらゆらゆれ、泡はつぶつぶ流れました。

 みんなはまるで声も出ず居すくまってしまいました。

 誰かのお父さんの蟹が出て来ました。


『どうしたい。ぶるぶるふるえているじゃないか』


『お父さん、いまおかしなものが来たよ。』

 誰かがなく話しかけました。


『どんなもんだ』


『青くてね、光るんだよ。はじがこんなに黒く尖ってるの。それが来たらお魚が上へのぼって行ったよ』


『そいつの眼が赤かったかい』


『わからない』


『ふうん。しかし、そいつは鳥だよ。かわせみと言うんだ。大丈夫だ、安心しろ。おれたちはかまわないんだから』


『お父さん、お魚はどこへ行ったの』


『魚かい、魚はねむいところへ所へ行った』


『こわいよ、お父さん』

 どこかのカニが言いました。


『いいいい、大丈夫だ。心配するな。そら、樺の花が流れて来た。ごらん、きれいだろう。』

 泡と一緒に、白い樺の花びらが天井をたくさんすべって来ました。


『ねむいよ、お父さん。』

 あの弟の蟹も云いました。

 光の網はゆらゆら、のびたりちぢんだり、花びらの影はしずかに砂をすべりました。




         それから、約半年




 蟹の子供らはもうよほど大きくなり、底の景色も夏から秋の間にすっかり変りました。

 どこからか、白い、ふやけた柔らかな、大きな丸石もころがって来、小さな水晶の粒や、真珠のかけらもながれて来てとまりました。

 そのつめたい水の底まで、ラムネのビンの月光がいっぱいに透き通り、天井では波が青じろい火を、燃やしたり消したりしているよう、あたりはしんとして、ただいかにも遠くからというように、その波の音がひびいて来るだけです。

 蟹の子供らは、あんまり月が明るく水がきれいなので、眠らないで外に出て、しばらくだまって泡をはいて天上の方を見ていました。


『やっぱり俺の泡は大きいね』

 いつかの兄さんのカニが言いました。


『兄さん、わざと大きく吐いてるんだい。僕だってわざとならもっと大きく吐けるよ』


『吐いてごらん。おや、たったそれきりだろう。いいかい、兄さんが吐くから見ておいで。そら、ね、大きいだろう』


『大きかないや、おんなじだい』


『近くだから自分のが大きく見えるんだよ。そんなら一緒に吐いてみよう。いいかい、そら』


『やっぱり僕の方も大きいよ』


『本当かい。じゃ、も一つはくよ』


『だめだい、そんなにのびあがっては』

 またお父さんの蟹が出て来ました。


『もうねろねろ。もう遅いぞ、あしたイサドへ連れて行かんぞ』


『やだあ』

 弟のカニが言いました。


『お父さん、僕たちの泡どっち大きいの』

 兄さんのカニが父さんに訊きました。


『それは兄さんの方だろう』


『そうじゃないよ、僕の方も大きいんだよ』

 弟の蟹は泣きそうになりました。

 そのとき、トブン。

 黒い円い大きなものが、天井から落ちてずうっとしずんで又上へのぼって行きました。キラキラッと日の光が揺れています。


『かわせみだ』

 子供らの蟹は首をすくめて云いました。

 お父さんの蟹は、遠めがねのような両方の眼をあらん限り延ばして、よくよく見てから云いました。


『そうじゃない、あれはやまなしだ、流れて行くぞ、ついて行って見よう。しかし、やまなしにしては変なにおいだな』

 なるほど、そこらの月あかりの水の中は、そのやまなしのにおいでいっぱいでした。

 三疋はぼかぼか流れて行くやまなしのあとを追いました。

 その横あるきの底の三つのが、踊るようにして、流れ行くやまなしの円い影を追いました。

 間もなく水はサラサラ鳴り、天井の波はいよいよ青い炎をあげ、やまなしは横になって木の枝にひっかかってとまり、その上には月光の二次がもかもか集まりました。


『どうだ、やっぱりやまなしだよ、よく熟している、いい匂いだろう』


『おいしそうだね、お父さん』


『待て待て、もう二日ばかり待つとね、こいつは下へ沈んで来る、それからひとりでにおいしいお酒ができるから、さあ、もう帰って寝よう、おいで』

 親子の蟹は三匹とも自分らの穴に帰って行きます。

 波はいよいよ青じろい炎をゆらゆらとあげました、それは又ダイヤモンドの粉をはいているようでした。


        *


 とある谷川の記憶はここで途切れています。

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やまなしリテイク(短編) 鹿爪 拓 @cube-apple

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