第9話ガンガ

(若林のN)「父に支えられ必死に起き上がる杏子。もう視点が定まらない。

手に持とうとするが持ちきれない。父、しっかりと封筒を杏子の手に握らせ、

手紙を読み始める。杏子は無表情で耳を傾けている」


(父のN)「杏子さんお元気ですか?僕は今インドのベナレスにいます。

ヒンズーの人々は朝早くから沐浴し祈りをささげています」


(若林のN)「父が杏子に分かるかと確認している。

杏子はかすかにうなずいた」


ボートのオールと波の音が単調に続く。

遠くで烏の声。

インド人たちの祈る声が聞こえる。


(若林のN)「杏子さんお元気ですか?僕は今インドのベナレスにいます。

ヒンズーの人々は朝早くから沐浴し祈りをささげています。12月でも30度

を越える蒸し暑さです。昨日この河を上る観光ボートに乗ってみました。


濃い深緑色を帯びた流れは非常にゆったりとしていて、どこまでも神秘的で

奥深いガンジス河そのものでした。ボートから見えるガートと呼ばれる階段は

所々途切れていて白い砂地になっています。何ヶ所か木組みの上に死者を白い


布に包んで荼毘に付しています。中にはとても小さいのもあります。

淡い煙が曇天の空に昇っていきます。


死者は必ず一度聖なるガンジス河にじっくりと浸してから

火をつけられるので、白い灰になるまでに相当時間がかかります。

その間家族は荼毘の周りで祈り続けるのです。白い砂地に見えたのは


数千年に及ぶ死者の灰の集積だったのです。インドの人々は親しみを

こめてガンジス河のことをガンガと呼びます。家族は灰をこのガンガ

に流します。ボートから流れに手を入れてすくってみました。白い粉


が確かに手のひらに残ります。上流まで何箇所もこういう場所がある

のです。きっとこの深いとうとうと流れるガンガの底は、無数の骨と

白い灰とで幾層にも重なっていることでしょう。


ベナレスの町には全国から死者が担ぎこまれてきます。白い布に包ま

れて、色とりどりの花に飾られて、家族総出で担いできます。


ここには、死を待つ人々の無料の館があちこちにあります。死を覚った

老人や不治の病の人たちが家族のもの何人かと数年暮らすのです。

ある晩裏通りに迷い込んだことがありました。何かの祭りの夜でした。


京都の地蔵盆のような子どもの祭りです。じっと見とれていたら、僕の

脇にとても美しい少女が立っていました。黒髪で小麦色の肌、瞳が大き

く澄んでいてびっくりしました。杏子さんにそっくりでした。みんなと


遊ばないのと目で示したら、アチャとか言って可愛く首をかしげるのです。

向こうの家からお母さんらしき人が出てきました。インドサリーのよく

似合う若いお母さんです。中に入れと手招きしています。少女は僕の手


を掴んで引っ張りました。お母さんもにっこり笑ってアチャと首を傾げ

ています。ナマステと言って館の中に入ると、ベッドにおじいさんが横

たわっていました。枕元でおばあさんが編み物をしています。にっこり


と微笑んでくれました。閑散とした部屋にテーブルがひとつ、少女が座

れと合図をします。座ると少女はちょこんと僕の横に座って何かを待っ

ています。やはりミルクティーのチャイとお菓子が運ばれてきました。


少女はとてもうれしそうに僕を見上げます。お母さんの話では、この先

何年でもおじいさんが亡くなるまでここに居るそうです。しごく当然の

ように本人も家族もそれが一番幸せなのだと言ってました。


ガンガには不思議に人の心を癒す魅力があります。ヒマラヤからの

大自然懐に抱かれて、母なるガンガでは安らかに死を迎えることができる、

ベナレスはそんな不思議な聖地でした・・・・・・」


(杏子のN)「死んでしまうと私の体も灰になってガンジス河の底

深く沈んでいくようです。白い衣に包まれた私のなきがらは少し

重たそうです。綺麗な花一杯に飾られて前を父が後ろを若林さんが


担いでいます。太くて重い私のなきがらにはなかなか火がつかずに

父は困っています。やっと火がつき母と三人で私が真っ白な灰に

なるまで祈り続けていてくれました。・・ありがとう、若林さん。


告白します。私の人生で心の底から好きだったのは、若林治さん、

あなたひとりでした・・・・・・」


荼毘の燃える音。

遠くに烏の声。

しばらくの静寂。


間近に小鳥のさえずり。

(若林のN)「すまなかった杏子。ほんとに鈍感ですまなかった。

・・・・・・・・最後の封筒には柴山清三郎と書いてあった」


封筒を開ける音。

(父のN)「若林治さん、杏子はもう字が書けなくなりました。

血液のガンと骨のガンとが体全体に転移して医師は一ヶ月と

宣告しましたが、若林さんの手紙を信じて三ヶ月生き通して


くれました。手紙を受け取った後、幸い脳と神経が先に侵されて

痛みはずいぶん和らいだようです。時々意識が戻るとまた手紙を


読んであげました。一週間後、最後に若林さんの名をかすかに叫

んで、娘は微笑みながら眠るように亡くなりました」


カモメの群れる声。

遠くでポンポン船の音。

(駅のアナウンス)「一番線から広島駅行きが発車します」


扉のしまる音。

電車の動き出す音。

(車掌)「次の停車駅は地御前、地御前」


電車の走る音。

走る音遠ざかっていく。

電車の止まる音。雑踏。


(車掌)「白島線は向こうです。乗り換えてくださいや」

車の音。雑踏。横断歩道の音。

音、遠ざかり消える。


砂利道を歩く足音。

足音とまる。

水道の音。手桶の音。


砂利道を歩く音。

歩く音止まり、墓石に水をかける音。

小鳥のさえずり。


(若林)「杏子。今なら言える。心の底から言える。

お前が好きだ。・・・・・・・・・ごめん」



                       −完ー

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ベナレスからの手紙(ラジオドラマ) きりもんじ @kirimonji

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