第7話杏子先生
(若林のN)「その晩のことである」
スキヤキの煮える音。
(杏子)「もうお肉大丈夫よ、おかさん」
(母)「あーいいにおい。はようこんなんが食べたかったんよ」
(父)「はよう食べんさい、食べんさい。美味しいものをうんと食べて
きちんと薬を飲み続けときゃあ、もう発作は起きんと先生が言うとったろう」
(母)「ほうよね。あの発作の時には背骨にズキンときて立っとかれんのよ」
(父)「体力と精神力でお母さんは乗り越えられる!」
みんなの笑い声。
(母)「杏子、はよ京都に戻らにゃいけんのじゃろう?」
(杏子)「そう。期末もあるし、いよいよ四回生。卒論と教育実習で大忙し」
(父)「もう4年生か」
(母)「来年卒業、はやいもんよね」
(父と母)「小学校の先生、はははは」
声、遠のいていく。
(杏子)「うまくいけば登町小学校」
(母)「あほうね、ははは」
(父)「頑張りや杏子。後は大丈夫やけえ」
(杏子)「うん。もう疲れたから寝るわ。おやすみ」
階段を上る音。声近づく。
(杏子)「ふう、疲れた。ぐっすり眠ろう」
布団を敷く音。
(杏子)「よいしょっと。わー、かわいいパジャマ!
父が買ってくれたんだ」
時計の秒を刻む音。
寝息がかすかに聞こえる。
(杏子)「むむん」
寝返りをうつ音。
小さく心臓の鼓動が聞こえる。
小さな衝撃音が走る。
(杏子)「ううん(うなされる)」
心臓の鼓動が高まる。
衝撃音が走る。
(杏子)「キャッ!」
布団をめくる音。
鼓動さらに高まる。
大きな衝撃音が走る。
(杏子)「キャッ!助けて!背骨が・・・」
布団から這い出す音。
柱にすがりながら立ち上がろうとする音。
二階からの杏子の声。
(杏子)「キャー!助けて!おとーさん!・・・背骨が」
大きく倒れる音。
(父)「うん?なんだ?杏子!きょうこ!」
飛び起きて二階へ駆け上がる音。
(母)「(不安げに) きょうこ・・・・」
救急車のサイレンの音。
走る救急車内の音。
(隊員の声)「背骨が痛いといって倒れたそうです。どうぞ」
(無線の声)「意識はありますか?どうぞ」
(杏子)「(苦しそうに)はあ、はあ、」
(父と母)「・・・・きょうこ」
サイレンの音遠ざかり消えていく。
診察室の音。
(医師)「ふむ」
椅子の回転音。
(医師)「急性貧血ですぐ退院できますよ。看病疲れかな?」
(母)「ごめんね杏子。私のために」
(杏子)「いいのよお母さん。すぐ良くなるから。
私のほうこそ、ごめんなさい」
椅子の回転音。
(医師)「あ、念のため検査で3日間入院していただきます。
そのあとすぐ退院、間違いありません。じゃ、お大事に」
(若林のN)「杏子は予定どうり3日で退院した。
この間杏子は次のような夢を見ている。
”白衣を着た若林医師が駆け込んでくる。杏子のベッドで
ひざまずき目をつむって眠っている杏子の手をとり必死で、
『悲観的になってはいけない!君は必ず助かる。すぐ元気に
なって退院できるから頑張るんだ杏子!』
そこで杏子は目を開けて笑いながら思い切り抱きつく。
唖然としている若林医師。"
という夢だ。楽しそうな字で日記に書かれていた。この頃か?
杏子が、自分が抱えるとげの正体を本能的に自覚し始めたのは。
その後二人とも多忙になった。12月に入って出発日が確定し
手紙を出したが、その返事もきちんと書かれていた。教育実習
も卒論も終了し、後は登町小学校の採用通知を待つだけだと書
いてあった。・・・・・・・何故出さなかったんだろう?
日記を見てみた」
(杏子のN)「12月になるとひょっとしたらと思っていた
ところへ、若林さんからの手紙が届いていました。私には
直感で分かるのです。えいって指を鳴らすとポストに手紙が
入ってて輝いていたんですよ」
(若林のN)「その1週間後」
(杏子のN)「もう手紙は出さないことに決めました。
若林さんは返事を期待していない。住所も不安定。3年間も
旅に出るなんてもってのほかだわ。さっさと忘れて私も頑張ろう」
(若林のN)「その後の日記は最後の真新しいノートになっていた。
杏子は心機一転、新生活の戦いを開始したのだ」
小鳥のさえずり。
授業開始の鐘の音。
(杏子)「みなさん、おはようございます!」
(子ども達)「おはようございます!」
(杏子)「先生の名前は」
黒板にチョークで書く音。
(杏子)「しばやまきょうこ。きょうこ先生です!」
(子ども達)「わー、きょうこ先生!」
拍手の音、遠ざかり消える。
(若林のN)「その年の夏は以上に暑かった」
カモメの群れる声。ドラの音。霧笛。歓声。
船出の音遠ざかる。
(若林のN)「横浜からナホトカまで船。シベリア鉄道で
ハバロフスクへ出てイリュージンのジェット機でモスクワまで
36時間。秋口、凍えながらストックホルムに着いた。
ヒッチハイクでデンマーク、ドイツと南下してミュンヘン
からイスタンブール行きの国際列車に乗った。バスを乗り継いで
やっとの思いでインドにたどり着き、ベナレスで1ヶ月、
いろいろとものを考えさせられた。よし、ヨーロッパへ戻って
働こうと意を決した時、ふと柴山杏子のことを思い出し、
手紙を出して12月、インドを後にした」
セミのなく声。
(杏子のN)「その年の夏は異常に暑かった。2学期が
始まっても30度以上の猛暑が続いていた」
(杏子)「あいうえお、はい!」
(子ども達)「あいうえお!」
(杏子)「かきくけこ、はい!」
(子ども達)「かきくけこ!」
心臓の鼓動が急速に高ぶる音。
激しい衝撃音。
(杏子)「ああっ」
倒れる音。
(子ども達)「きょうこせんせーい!」
一斉に立ち上がる椅子の音。
救急車のサイレンの音。
隊員の声。ストレッチャーの音。
あわただしい数人の駆ける音。
(杏子)「(あえぎながら)若林さん助けて。若林さん助けて」
ストレッチャーと足音遠のく。
遠くでサイレンの音。
(杏子のN)「三日前に私はまた倒れた。この1年発作は全く
起きなかったのに。体の中で毒のとげと生きる命とが戦っている」
点滴の音が単調に響き続けている。
(杏子のN)「救急車の中で若林さん助けてと叫び続けていたそうだ、
恥ずかしいったらありゃしない・・・・・・・(寝息)」
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