第6話とげ

(杏子の父)「これでひと安心だ。杏子は、小学校の5年生

の頃から日記をつけ始めました。ちょうど息子が亡くなって

からの事だと思います。それからほぼ毎日、死の1週間前まで


書かれています。私も何回となく読み返しました。特にあなた

に関する記述の所は赤い糸ヒモを目印にしておきました。後半

あなたのことが増えてきています。特に急性骨髄性白血病が


発症してからの3ヶ月間は、狂おしいまでにあなたのことが

つづられています。私も後わずかの命ですから、この日記と

手紙を持っていても仕方がありません。どうか必ず一読なさ


って、用が無くなれば焼却してください。

よろしくお願いします」


(若林)「はい、かしこまりました。必ず最後まで

じっくりと読ませていただきます」


(若林のN)「この時初めて杏子の父はかすかに笑みを浮かべた」


カモメの群れる声。

遠くでポンポン船の音。

(駅のアナウンス)「広電宮島。広電宮島。松大船乗換え」


砂利をゆっくり歩む音。

(若林のN)「実家の自室で包みを広げた」


包みを広げる音。

(若林のN)「20冊の大学ノート。一番下は古めかしく

一番上は真新しい。赤い糸紐が上のほうに集中している。


若林治様と書かれた封筒3通と柴山杏子様と書かれた封筒2通。

海外からの航空便が1通。なつかしいなあ。あのあと大変だった。

あれっ、あの時のだ。出発前のもちゃんと届いていたんだ。なに


も知らずに俺は。返事もきちんと書いてあるじゃあないか?何故

出さなかったのだろう?切手も貼ってあるのに」


手紙を開ける音。

(若林のN)「若林さん遅くなりましたが」

杏子のナレーションが重なってくる。


(杏子のN)「念願の合格おめでとうございます。去年の暮れ、

桃山御陵の坂道を歩きながら、若林さんは一生懸命話してました。

今の僕には君に合う資格がないんだとか、世界に必ず飛び出すんだ


とか、自分の使命は何なのかとか、とても難しいお話を何度も繰り

返しておられました。下宿に上がってもらってから、卒業したら

どうするの?と聞かれて、登町小学校の先生になろうと思うのと


答えた時、若林君はとても喜んでくださいました。その後が変で

したよ。君のテニスは天使のようだ、涙が出るほど美しい、て

言われたのを憶えてますか?思わず私が吹き出したので気分を


害されたのでしょうか?すぐ帰られましたね。ごめんなさい」


(若林のN)「何故出さなかったのだろう?そうだ、

その頃の日記を見てみれば分かるはずだ」


ノートをめくる音。

(杏子)「切手を貼ってこれでよし、と」


階下で電話の音。音止む。

(下宿のおばさん)「杏子ちゃん!電話!」


テレビの音が聞こえている。

(杏子)「(階上から)はーい」


階段を下りる音。足音奥へ。

(杏子)「(奥で)もしもし・・えっ、分かりました」


足早に足音近づく。

(杏子)「(不安げに)おばさん」

(おばさん)「どないしたん?」

(杏子)「母が倒れたので今すぐ広島へ帰ります」

(おばさん)「そりゃたいへんや。はよかえり」


発車のベルの音。

(駅のアナウンス)「三番線より広島行き夜間特急宮島が発車いたします」


夜行列車の単調な音が続く。

(杏子のN)「資格てなんでしょう。人と人とのふれあいの中で、

資格って何なのですか?人を好きになったり愛したり、あるいは

愛されたりするのに資格がいるのでしょうか?私に会う資格がない


とおしゃるのは、きっと若林さん自身のプライドとの戦いなので

しょうね?よく考えてみればあまり大した事のない些細なことでも、

その人にしてみれば大きな大きなとげなのでしょうね。時が来れば


とげは跡形もなく嘘のように消滅してしまうかもしれません。最近、

私の心と体の中の小さなとげに気付かされました。小さなとげなら

そのうち自然に消えていく。悪いとげなら、もしかして毒を持った


とげなら、必ず私を食いつぶしてしまう。このとげを持った人間には

人を愛する資格も人に愛される資格もないのでしょうか?いつか

若林さんに確認してみよう」


踏み切りの音。列車の音がずっと続いている。

(車内アナウンス)「まもなく終点広島です。山陽本線くだりは

1番ホームから岩国行き・・・・・」


アナウンスの声遠ざかり消える。

(若林のN)「杏子は母親が退院するまでの1ヶ月間広島にいた。

父の食事の世話をしながら毎日看病に通った。結局その年の暮れも

正月も杏子は広島にいたのだ。だから、手紙はそのままになったのか」


近づく足音。ノックの音。

(杏子)「はい」

(婦長)「柴山さん、ご機嫌いかがですか?今日退院ですよ」

(杏子と母)「ありがとうございます」


(婦長)「もりもり食べてもっと元気になってください」

(母)「はい、もりもり食べます」

みんなの笑い声。

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