第4話旅立ち

テニスの音が続く。

(若林のN)「一度だけ秋の夕暮れ時にテニスコートで柴山を見かけ

たことがあった。それはことのほか美しかったが、タブーな物を

そっと眺めるようにコートの陰に隠れて見つめていた」


テニスの音遠のき消える。

(若林のN)「12月にはいって追い込みに没頭していたある日、

図書館で背後に人の気配を感じた」


(杏子)「ひょっとして、あ、やっぱり若林君?」

(若林)「あ、柴山さん。ひ、久しぶり」


(若林のN)「あのときの慌てようったらなかった。平静を装いつつ

心臓は高鳴り心は動揺していた」


(若林)「あ、とにかく外へ出よう」

本をたたむ音。立ち上がる音。


サッカー部の練習の声が近づく。

(若林)「きょうは?図書館?」

(杏子)「ううん、もういいの。ちょっと調べ物。もう帰るとこ」

(若林)「下宿は?」

(杏子)「桃山南口」

(若林)「桃山南口か。桃山御陵を越えてか。ちょっと歩こうか」

(杏子)「ええ、いいわよ」

サッカー部の声遠のく。


遠くで踏み切りの音。

(若林)「残念ながらまた不合格だった。今の僕には君と話せる資格がないよ」

(杏子)「また来年も受けるのね」

(若林)「ああ、親との約束なんだ。最後のチャンス、もうほんとに疲れきったよ」


(杏子)「どうしても、そこじゃなきゃだめなのね?」

(若林)「男の意地って奴。一度決めたことだから。

男のプライドって厄介なものだ」

(杏子)「ほんとね」


時々車の通る音。

(若林のN)「あの日は心の動揺を隠すべく一方的に一人でしゃべり

続けていた。杏子にはさぞかし迷惑だっただろう」


近くで踏み切りの音。

(若林のN)「とうとう日が暮れて、下宿の前まで来てしまった。

それでもしゃべり続けていた。突然玄関の戸が開いて」


玄関の戸が開く音。

(下宿のおばさん)「中に入って二階のお部屋でお話なさい。

お茶もって行ってあげるから」

(杏子)「ありがとう、おばさん」


階段を上がる音。

(若林のN)「清潔で簡素な部屋だった。小さなテーブルを挟んで

さしむかい、正座して足がしびれてきた。来年、受かっても落ちても

日本を飛び出して海外放浪の旅へ出る決意を述べて、あとは何を話たか


さっぱり憶えていない。足が限界に達し、意を決して部屋を出た。

なんとも気恥ずかしい思いしか残っていない。それから3ヶ月が過ぎて」


合格発表風景。遠くで万歳の声。

おめでとうの声。胴上げの歓声。

電話のダイヤル音。着信音。


(父)「ようがんばったのー。合格おめでとう。

ほいじゃ二十歳になったことじゃし、約束どおり

大変じゃろうけど自活してみいや」

(若林)「ああ、がんばる」


電話を切る音。

再びダイヤル音。コールが続く。

(若林)「・・・ま、いいか」

電話を切る音。


(若林のN)[その日の夜」

電話のダイヤル音。着信音。

(下宿のおばさんの声)「杏子ちゃん今、教育実習やら

バイトやらで忙しそうやで。手紙書かはったら」


(若林)「そうですね。どうもありがとうございました」

(若林のN)「あのあとすぐには手紙をかけなかった。それからは

入学手続き、寮の面接、アルバイト探しと猛烈に忙しくなり、

学園紛争が始まって年の暮れにやっと手紙を出した」


デモの騒乱の音。

(デモの声)「安保粉砕!闘争勝利!(繰り返し)」

(機動隊マイクの声)「ジグザグを止めなさい!直ちに止めなさい!」


(アジテーションの声)「われわれはー、大学当局ノー、今回の決定をー

断固実力でー、粉砕しー・・・・・」

デモの騒乱が遠のいていく。


(若林のN)「デモを横目に見ながら、朝昼晩とアルバイトにあけくれた。

幸いこの1年、学園はバリケード封鎖され、試験はすべてレポートになっ

ていた。杏子からの返事もなく、連絡もつかず、多忙の中、いまさら幼馴染

でもあるまい、と忘れかけていた。何よりも海外出発準備が最優先だった。

・・・・・・・・・・・・・そして」


ドラの音。霧笛の音。

カモメの声。蛍の光。

人々の別れの声。霧笛。

音が遠のいていく。


(若林のN)「出発前の年の暮れにもう一度杏子に手紙を出した。

旅先から必ずたよりを出すと書いて。しかし、この出発の3ヵ月後に

杏子は急逝するのだ」


カモメの群れる声。

遠くでポンポン船の音。

(駅員)「広電宮島。広電宮島。松大船乗換え。

一番線から広島駅行きがまもなく発車します。

ご乗車の方はお急ぎください」


(車掌の声)「広島駅行き発車します」

扉の閉まる音。

(若林)「ふう、まにあった」

電車の動き出す音。

(車掌)「次の停車駅は地御前、地御前」


走る電車の音。

(若林のN)「この電車で6年間、毎日瀬戸の海を

ながめながら広島まで通学した。ほぼ1時間で町の中心に着く」


電車の止まる音。

(車掌)「ええ、天満屋前です。白島線は向こう側。

ほらあそこ。乗り換えてくださいや」

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