さよならシュレーディンガーの猫

夕方 楽

OPENING

 人は死んだら二度と生き返ることはない。 生から死へは厳格な一方通行であり、逆は不可。私は小さい時からそのように教えられ、しかもそれが間違いのない事実であることを学びながら成長してきた。

 生と死とは、コンピュータのビットの1と0のように明確に区別される状態であり、その中間というものはない。たとえば大けがや大病で死にかけている人がいたとして、それでもその人は生きているのであって、真ん中より死の方に近いからといって死んでいるとはならない。

 ところが物理学の量子論という学問によれば、あながちそうとばかりも言えない、ということになる。

 光の粒子や電子、原子核といったミクロの世界では、例えばひとつの電子が同時に複数の場所に存在できる。あるいはウランやラドンなど、ひとつの放射性原子核が、崩壊した状態と崩壊していない状態で同時に共存している。そのように、ひとつの物体イコールひとつの状態でないことが数々の実験によって証明されている。そして、観測によって発見されたとき、まさにその行為によって初めて物体がひとつの状態に定まる。

 その考えをマクロな世界まで延長した「シュレーディンガーの猫」という有名な思考実験では、中の見えない箱に入れられた一匹の猫が、生きている状態と死んでいる状態で同時に存在できるかどうか、科学者たちが真剣に議論したりするのである。

 猫と同じ箱に入れられたひとつの放射性原子核が、崩壊した状態と崩壊していない状態で同時に存在できるなら、崩壊した場合に青酸ガスが出て猫を殺す仕組みにしておけば、その結果に連動する猫の状態も、生きている猫と死んでいる猫の両方が共存しているはずだ、という仮説が導かれる。実際の思考実験における装置や過程は複雑になるので省略するが、結果についてはそれが真実かどうかは別として、次のように解釈することが可能となる。

 観測者が箱を開けて中を見る瞬間まで、猫が生きているか死んでいるかは。観測者が観測するという行為自体が、猫の生死を決定する。

 まるでオカルトのようだが、もともと科学の新しい発見というのは、天動説や万有引力の例を持ち出すまでもなく、大抵はじめはオカルトのレッテルを貼られるものだ。

 考えるにこの世界は、量子論を紐解くまでもなく、あらゆる可能性が重なり合いながら、今という時間を形成している。生きている自分も死んでいる自分も、起こりうる可能性の確率に従って同時に存在している。

 観測者の鋭い視線にその挙動を捉えられ、肌に突き刺さる痛みとして認識する瞬間までは。

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