熱意
本田蓬
第1話 黒
ローラーのついたイスの転がる音、シャープペンシルの芯を繰り出す音、紙をめくる高めの音。混ざって聞こえる塾の講師と生徒の声。それらを私は遠くに聞いていた。しかしこの暗い部屋にも授業で使われる部屋の蛍光灯の灯りがドアのしたの隙間から漏れてくる。そんなに離れてはいないのだ。部屋の灯りをつけていないのは気休め程度、気を付けなければ会話の内容もばれてしまう。実際、ロッカーを開け閉めする音は漏れているだろう。
「今日こそよこしな。」
何度も持っていないと説明したのにも関わらず、女は証拠だからと今日も要求してくる。その言い分は教務らしくスーツを着ている人とは思えない物言い。
「何が欲しいんだよ、金?」
女の言うことにはかまわず私は次の授業に出るための支度を進める。ここがどこかは忘れてはいけない。私も教務なのだ。左手にくくりつけていたゴムで黒く長い髪の毛をひとつに束ねる。
「十万でどう?」
胸ポケットに三色ボールペン、ホワイトボードマーカー。大丈夫、しっかりある。いつもどおりだ。
「分かった、二十万だすから。」
ロッカーから教材をだす。国語だけで5冊もあるのか、今日の授業は大変そうだな。
「もっと?」
大変なのは授業だけではなさそうだ。
頭が悪いのかとつくづく思う。持ってないものはお金をいくら積まれたって出せない。よく校舎長もこんな人を雇ったと呆れる。
「もうないって言ったじゃない。だから渡せないのよ、しつこいわ。」
通してくれないか、と右の女の方を向き、その奥の扉に目をやる。
「嘘だろ。」
自信ありげに女がいった。またいつものこの女の弟の話か、裕太は持ってるって言ってたんだ、だからと、私が持っていると頑なに信じて聞かない。さすがに毎度こうだと相手するのが疲れる。
「気づいてないだろうけど、持っていないって言うだけで捨てたって言わない。無意識のうちに捨てたって言葉を使わない。」
塾構内だと言うのに女はタバコに火をつけながらそう言ってきた。
「だからこの場にはないから渡せないけど、まだきっとどこかに置いてある、持ってこられる。そうだろ?」
これは確かにそうかもしれない。私はこれまでとは違う理由でしばらく閉口してしまった。ただまだ私の動揺には相手には気づかれないだろう。
「知らないわ、気のせいでしょう。もう、捨てたのよ、だから、持って、こられない。」
いつの間にか支度をする手が止まっていたことに気づき、私はロッカーを閉めようと意識的に動かした。私にはこれからまだ授業があるのだから暇ではないのだ、だからもう帰ってほしいと。女はお水臭さの残る染めて巻いた髪の毛を耳にかけながら残る右手でタバコの箱を向けてきた。
「あ、やめてんだっけ。」
懐かしくも思うセブンスターの箱から目をそむける。しゃあしゃあとそんなことをいう女にまた苛立ちを感じた。
「私はまだ未成年よ。」
もう行かしてくれないかと視線を女に向け直すと、女の赤い口元から笑いがうかがえた。
「何いい子ぶってんだよ、前科者が。」
その言葉を言い切ってから私の表情の変化に気づいたのだろう。きっと目付きに出ていたのかもしれない。
「ああ、ごめん。言い過ぎた。」
女は少し慌てたように、こちらに向けていたタバコを自分のロッカーの中に閉まった。
「でもこっちだって出してもらわなきゃ困んだよ、裕太にはまだ将来があるんだから。」
まるで私の将来は無いような言い草だな。もちろん、無いし期待も出来ないが。
「裕太は今大事な時期なわけ。あんたの持ってんのが世間にばれたらおしまいなんだよ。」
そうですか、とも言わずにさらに無視を決め込んだ。支度はもう終わっている。もう行かしてもらおう。
「じゃあもう、次会うときまでに三十万用意するから、それまでに渡せよ。」
そもそもこんなところでお金の話をするな。
私はチャイムが聞こえると同時にドアをあけ、明るい部屋へと出た。まだ目がなれていなくて眩しい。背中でまだ女の声が「絶対だからな!」と聞こえるがタバコの匂いが漏れると困るので早めに扉を閉めた。お前の性格が悪いのがここでばれてもお前も困るだろう。
「莉子せんせーー!」
「莉子せんせーごめんね宿題やってこなかったのー。」
「ねー、莉子せんせー?朱里せんせーと何話してたのー?」
ここでの私は前科者ではない。そうであったとしても隠しておかなければならない。私は努めて明るく振る舞い、生徒達にそれなりに反応しながら授業へと向かった。
私は岡本莉子。過去に人を殺したのだ。
熱意 本田蓬 @Machikophone
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