おいしく食べたい。

@oisiku_tabetai

第1話 明太子スパゲッティ

 子供の頃、たらこが食べられなかった人ってどのくらいいるんだろう。

 幼稚園から高校まで、およそ弁当と名の付くものはほぼすべてハムサンドでやり過ごしてきた私にとって、たらこというのは己の人生に1ミリもかすらない未知の食べ物だった。

 なんでピンクなの。

 なんであんなぶよっとしたカタマリなの。

 なんであんな磯臭いの。

 なんで―――みんなあんなにおいしそうに食べているの!?


 偏食児童にとって、周囲が美味しそうに食べているものが食べられないというのは劣等感とのせめぎあいである。

(わたしはあれがおいしいと思えないのだからしょうがない!)

(いや、おいしくないというのは思い込みでは?)

(我慢して口に含んだらちょっとウェッてなったでしょ!)

(みんな嬉しそうにたらこがタップリかかったとこ食べてるじゃん!)

(いや喜んで食べてるやつの何人かは絶対やせ我慢してる!)

 嗚呼、あれがもうちょっと風味おさえてあればなぁ。

 生臭いモノ全般NGなのに、たらこってやつは磯臭いカプセルが無数に合体したような食べ物なんだもの。それでいて触感がプチプチっていうかグニッていうかなんだもの。イクラ一粒だって食べられない私にはハードル高すぎ、ラスボス級だ。

 でもでも、でもね。

 私は「たらこスパゲッティ」という魅惑の響きに並々ならぬ憧れを持っていた。

『お子様が狂喜乱舞して食す鱈子なるものを我も食はむとて食ふなり』ではないけれど、きっとそこにはまだ見ぬユートピアが広がっているんじゃなかろうか。


 食べられるようになったきっかけは、特に劇的な何かがあったわけでもない。

 社会人ともなれば集団行動で外食する機会も多く、もんじゃ焼きの店などに入れば自然と2~3種類をシェアする流れになる。

「どれにするー?」

「あ、明太チーズだって、おいしそう!」

「さんせー」

「さんせー」

 粉モノの華といえば明太チーズ…かどうかは定かではないが、女性チームはこういう場合、高確率で明太チーズを選択する。

(隣の男性チームねぎみそもんじゃか、なりふりかまわずあっちに合流したい…)

「じゃあこっちのテーブルは明太チーズもんじゃでいいかな?」

「………………………………………いいんじゃないですかね!」

 偏食の子供たちよ、これだけは覚えておいてほしい。

 社会人は、なりふりかまう。


 そんなこんなで少量を口にする機会が増えた結果、前ほど苦手ではなくなった。

 要は慣れたのだ。

 そこからは実に早かった。

 何せ元々「たらこが食べられる」という状況に憧れていたのだから、食べた時のカタルシスが違う。

(見て!わたし今たらこを食べている…!)

 って毎回思うのだ。冗談抜きでマジで。

 オシャレに、繊細に、時に大胆に。

 塩気と海の香りにつつまれたたらこを白米でくるんで、海苔で包んでぱくりと食べるたらこおにぎりだってもうお手の物。

 なんかもう自分が全知全能の神になったぐらいの優越感である。

 こうなってくると挑戦したいメニュー。そう、幼少のみぎり憧れてやまなかったあのメニュー。あれが食べたい。食べてみたい。

 天下御免のたらこスパである。


 コショウもからしもワサビもカレーも、子供時代辛味の強いものは総じて食べられなかった私であるが、今となっては刺激も料理を彩る欠かせないスパイス。

 特に以前苦手だったものを食べる時は、ひょんなきっかけでまた食べられなくなることもある。

 だから臭みやクセなどを誤魔化すのにも一役かってくれる大事な相棒なのである。

 そういうわけで「明太子スパゲッティ」だ。

 要は辛子で漬けたたらこ。でも「たらこ」と「明太子」では字の響きが違う。

 なんか「明太子」ってカッコよくない?

 すごい難易度高い食べ物食べてる感じしない?

 大人の食べ物の代表格って感じで、憧れによりいっそう拍車をかけてくれるのがこの明太子様なのです。


 スパゲッティを茹でている間に、ちょっと溶かしたバターと明太子様を用意して小躍りする。

(私はこれから明太子を食べるんだ!スパゲッティで食べるんだ!)

 ひょいとスパゲッティをつまみ食い、まだ固い。

 はやる気持ちをおさえながら明太子とバターをまぜまぜする。いい匂い。

 大き目のボウルをスタンバイさせて、まぁちょっと固めなくらいが美味しいよねとスパゲッティをザルにあける。ざばー。

 お湯を切って、ボウルにイン!すかさずさっきの明太子バターを投下!からめる!からめる!からめる!おいしそー!からめる!からめる!


 お皿に盛りつけて、細く刻んだ大葉を飾ればそこには―――嗚呼、憧れの君。

「よし、明太子スパゲッティを食べるぞー!」

 はくっ。

 つるっ。

 もぐっ、プチッ。

 むぐむぐ。

「バター偉大」

 いやそうじゃない。でもバター偉大。口に入れた瞬間おいしいもんなぁ。

 肝心の明太子は自然なピンク色でスパゲッティを優しく包んでくれている。

 ほのかなたらこの風味と塩味がさわやかに漂い、それをバターが濃厚にからめとって主食の味たらしめている。

 スパゲッティの小麦ひとつひとつにしみていくかのような味わい。

 汁とソースの間くらいの絶妙なうま味の素が、私をずぶずぶと明太子沼に沈めていく。

「火が通ってないピンクの明太子が好きだな。自然のままの食感って感じで」

 私が食事中に発したのはこの一言が最後だった。

 あとはもう無心に、ひたすらに、スパゲッティを口へ運ぶだけ人形と化す。

 鼻にぬける大葉の香りも、熱々のスパゲティで少し白くそまりはじめた明太子も。

 一気に食べきってしまわないと、このおいしい瞬間は逃げてしまう。

 それくらい儚げな食べ物に感じるのだ。

「ごちそーさまでした」

 食べ終わったらちょっぴり切ない。

 でも全身を満たすこの達成感。爽快感。

 自分の人生と交わることはないと思っていたあのたらこスパを、食べた。

 それだけでなんとも誇らしい。

 だって、子供のころの夢を叶えたんだもの。


「へへ、また食べよう」

 あの頃の皆の笑顔に、やっと追いついたような気がした。

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