告白
空代
A子の告白 1
A子の告白
私はきっと、恋を知らずに終わるでしょう。
別に性欲が無いというわけではありません。ただ、未だに恋をしたことが無いのです。恋をしたことが無いことについて、私は気にしたことなどありませんでした。いつかするだろう、と楽観視していたのです。
……ええ、まだ高校生ですし、これからかもしれません。でも、きっとしませんよ。
何故言い切れるか? 何故でしょうね。ただ、そう聞かれるとある先生がおっしゃった言葉を思い出します。
「この歳になって初恋もまだなんてありえない」。
……授業中の何気ない一言でした。授業にまったく関係しない、雑談の中の一言。私は、それを事実と受け止めました。そんなものか、というのが私の印象でした。
……はい。もっと遅くに恋を知る方もいらっしゃると思います。
でも、私の中に先生の言葉が、ストンと落ちてきたのです。ありえないのだからこれからするわけが無い、と妙に確信したのです。
……『運命の人』に巡りあえていないと言われてしまうと、私は少々困ることになります。
私は恋を知らないので、それがただ『出来るけど機会が無い』のか『機会があっても出来ない』のか判断できません。
……好きな人は、いますよ。ただ、同性の方で、――彼女が否定しないで下されば、友人と呼びたい人です。友人として、好きなのです。
同性愛の趣向はありません。一時、悩んだこともありますが。
……ええ、あまりに自分が男性に興味を抱けないので考えたのですよ。これでも。けれど結局友人への好意は恋愛ではありませんでした。
え? カミングアウト、ですか? そんな事、しませんよ。わざわざ言う必要がありますか? 自分が人に恋することが出来ないことを。しなくたってかまわないでしょう。恋なんて出来ないのですし、私を好きになって下さるようなモノ好きな方がそういるとは思えません。
性欲についてだって、問題にはなりませんしね。恋人のいない女性にそんなことを聞く野暮な方、いらっしゃいませんでしょう?
――ああ、すみません。彼の話でしたよね。
……彼と私は、ご存知の通り同じ学校の生徒です。そして、同じクラスでした。私は興味の無いモノは覚えられない性質をしていまして、彼の顔も名前も覚えていませんでした。
けれど彼は興味の無いモノでも覚えているようで、私の顔も名前も覚えていました。
私が彼を彼としてきちんと見たのは、多分あの本屋でしょう。学校からも駅からも離れた本屋。――本屋、というよりは古本屋。古本屋、というよりも資料置き場のような場所ですね。木の色が綺麗で、私には難しすぎる本もたくさん置いてありました。
申し訳程度に入り口から左側に置かれた漫画や雑誌のコーナーが、やけに浮いて見える、そんなお店です。
私がその店に入ったのと、彼が俗に言う『エロ雑誌』を手にとったのは、多分ほぼ同時でした。彼はそれ以外に数冊、当り障りの無い本を持っていました。きっとその本だけを買うのは気恥ずかしかったのでしょう。しかし、結局その本を買うのは一つの事実であります。そしてその事実は、変わることなどありません。なのにそういった行為になんの意味があるのでしょうか? 私には不思議です。
……ああ、すみません。話がずれてしまいました。
まぁとにかく私は彼が本を買う様子を見ました。特になんの印象も持たず、一つの風景として。唯一あげられる印象とすれば、この本屋で見かける珍しい来訪者としての印象でしかありませんでした。だって、そうでしょう? この歳の青年なら珍しくもなんともない行為ですし、私はその時彼を彼と認識していなかったのですから。まあ、未成年なので法律に違反はしていますが――そこで声をあげるほどの正義感は、あいにく私には存在しませんでした。
だから私は時に気にもせず、本を見ようとしました。ですが、彼は気にしたようでして。私を確認しますと、大きく目を見開き、顔を赤くしたり蒼くしたりしていました。
それからこう、きゅっと顔をしかめまして。……とても真剣な表情でしたが、私は笑いそうになるのを必死に堪えていました。だって、あまりにせわしなく表情が変わるのですから。
――まぁ、とにもかくにも彼は真剣な顔のまま、私の腕を強く掴んでその本屋から出ました。流石にそれには一瞬驚きましたよ。でも、多分同じ学校か何かで知り合いなんだろう、と思いました。
――ああ、でも彼が私を知っていて私は彼を思い出せないでいたので、知り合いというのもおかしいですね――あ、すみません。また話がずれて……。
とにかく、彼と私は本屋から出ました。そしてすぐ、彼は尋ねました。
「見たのか?」
彼の言葉に、私は黙っていました。あの状況で見ていないというのはおかしいですし、だからといって、見たと言う事によって彼に恥をかかせる訳にもいきません。
彼は真っ直ぐ私を見ていました。私は下を向いてしまいました。
――私はいけないことをして、責められている気分になったのです。
奇妙なことですよね。そう感じるのは、少なくとも私ではないはずなのに。けれども私は顔を上げられませんでした。そんな私を見て、彼はため息をつきました。同時に強く掴まれた腕の痛みは消えました。
私が顔を上げると、彼は困ったように笑っていて、私もなぜか笑いました。
それから少しして、彼は突然笑顔を引っ込めると――もったいない、と思いました。彼は笑顔がよく似合っていましたから――話をしないか、と言ってきました。断るわけにもいかないだろうと思い、私は素直に頷きました。
……人の顔は覚えませんが、一応そういった礼儀は心得てますし、断ったらきっと彼は悲しそうな顔をするだろうと思いましたから。だから、私は頷いたのです。
彼はあたりを見回していました。それはそうでしょうね。エロ雑誌を買った、と言う事についてこんなところで話をするわけにもいきませんし。
――その時は彼の話す内容が口止めなのか弁明なのか、と考えたものです。実際どちらでもなくて、どちらでもあるのですけれど。
「公園に」
彼はただ一言、そう呟きました。公園に行くと、昨日の雨で遊具が濡れているせいで、誰もいませんでした。もしかすると普段からその公園は沈黙していたのかもしれませんけれど。
それにしても、その時私は、雨の後の公園ほど好まれないものはないんだなと真剣に思いました。座る場所も無く、どことなく暗さを感じさせるその場所は、明るい空からも切り取られた場所のように感じさせてくるからです。
……ああ、すみません、さっきから。話がずれすぎていますよね。えぇっと、私と彼は公園に入りました。しばらく、私も彼も無言でした。彼は言葉を捜し、選び、噛み砕こうとでもするがごとく、おし黙っていました。私自身は何かを言う必要を感じなかったので、ただ何も考えず黙って待っていました。
――面倒は、好きではないのです。何かを言うと、きっと面倒になると、そう思ったのです。
「誰にも言うなよ」
しばらくしてからの彼の言葉に、私はただ頷きました。彼は、それからまた黙り込みました。
私はなんだか面倒に感じて、いっそのこと帰ってしまおうか、と思いもしました。けれども、帰ってしまうのも後が面倒に思えました。だから私は、続く言葉を待ちました。
下を向いていると、蟻が一生懸命餌を運んでいました。蟻が頑張って餌を運び、私の目の前を通過しきったころ、やっと「俺は……」という声が響きました。
その声はどこか深刻そうな、懺悔でもするような声で――といっても懺悔する人の声など聞いたことありませんが。とにかく懺悔でもするような声で、彼は言葉を続けました。
「俺は……同性愛者なんだ」
コクリ、と彼の喉が鳴る音が聞こえました。私は遠ざかる蟻を見送っている最中でした。蟻を見送りながら、私は一言、「へぇ」と頷きました。
「え」
かすかな声とともに、ヒュッという音が聞こえました。彼はきっと、息を飲む瞬間声を出したのだと思います。
「驚かないのか?」
そういった彼の声はあまりに間抜けで、私は笑いそうになるのを堪えました。
「驚かないよ」
私はそういいました。別に興味なんか無いことに、何故驚く必要があるのでしょうか? 私は不思議でした。だって、彼の買った本は……女性を扱ったものではなかったのですから。その時点で彼の性癖は予測できていたのに、驚く必要は見つかりません。
「気持ち悪くないのか?」
「何故?」
私は問い返しました。年頃の男の子がそういったエロ雑誌などに興味を持つことくらい、先ほども言いましたが私は知っています。だから私はそう問い返したのです。
彼は少し、言葉に詰まったようでした。
「……だって、男だぞ」
「見てわかるけど」
「気持ち悪くないのか?」
「なんで?」
そんな問答の後、彼はまじまじと私を見ました。
見られる、と言う事を私は好いていません。なので私にとって彼のその行為が少しくすぐったく、気恥ずかしく感じられました。だから私は下を向いてしまいました。けれど、意見を変える気はありませんでした。だって、男性が男性を愛してはいけないという法律なんて無いでしょう? 少々私は意地っ張りでもありましたから、自分の言葉を訂正する気はありませんでした。
「ありがとな」
彼はまだ強張りの溶けない、それでもほっとしたような声でそういいました。
私は顔を上げました。彼は、微笑んでいました。少し困ったように眉を顰めながら。
「なあ……黙っててくれないか?」
皆に。そういった彼は少し照れたような悪戯っぽい笑みを浮かべていました。私はただ頷きました。そして私はその笑顔を見て、唐突に思い出しました。
その唐突さといったら、彼の名前が降ってきたのか、と錯覚しそうなほどでした。
「佐藤君」
「ん?」
私の呼びかけに、彼は首を傾げて見せました。ああ、合っていた。そう思うと、私は少し暖かい気持ちになりました。
「秘密は、守るから」
自然と私は笑っていました。彼もやはり、笑っていました。
「あ」
ふと彼は声をあげました。その表情は、悪戯が見つかった子供のような決まりの悪いものでした。
「お前、本選んでたんじゃねぇの? ……無理やりつれてくることになったけど」
キョロキョロと彼は目を動かして言いました。その姿を見て、私は笑みが零れるのを抑えきれませんでした。
「なんだよ?」
むっとしたような声。ごめん、と私は素直に謝りました。
「そんなに気にしなくても、平気だから。ただ見てただけで、買うつもりは無かったし。私、基本的にあそこの本は見てるだけだから」
笑って言う私に、彼は少し不服そうでした。
「ならいいけど」
そういった彼の表情は、ふてくされた子供を少し思い出させました。
「それじゃあ」
潮時だと思って、私は軽く会釈しました。彼も慌てて会釈を返してくれました。
「じゃ、学校でな!」
明るい声でした。彼はきっと、少しばかり単純なのでしょう。秘密を知る相手――しかも、今までそれほど交友の無かった相手に、そんなことを気楽にいえるのですから。
じめじめとした公園を出ると、空は青かったのを覚えています。
公園を振り返ると、そこは確かにあって、切り取られてなんかいませんでした。当たり前ですけれどね。
切り取られていなくて、その事実に気分がよくなったのを覚えています。
――ああ、また話がずれてきましたね。すみません。けれど、順を追って話すほうが、自分でも整理できて楽なのです。……それでいい、とおっしゃって下さるのはとても嬉しいです。有難うございます。
――とにかく、それが彼との出会いでした。そして彼との再会は、次の日の学校でした。
「よう」
彼は片手を上げて、声をかけてきました。キョロリ、とあたりを見回して、やっと私は自分が呼ばれた事実に気づいたものです。そんな私を彼は馬鹿にしませんでした。
「おはよう」
私の挨拶を聞くと、彼は満足そうに笑い、友人との話を再開させました。彼はサッカー部で、いつも明るく、周りにたくさんの人がいるのです。
そんな彼をちらりと見ると、私の肩に手が置かれました。私はビックリして一瞬身構えましたが、すぐその手は下ろされました。振り向くと、友人のミナがいました。
ミナは、私と彼の突然の変化――といってもただ挨拶を交わしただけですが。とにかくその変化を不思議に思っている様子でした。そしてミナが少しばかり口元で笑みを作っているのが見て取れました。邪推しているのは明らかでした。私は思わず、苦笑したものです。
「あんたどうしたの?」
「なにが?」
「とぼけないでよ。佐藤のこと。今、挨拶してたじゃん」
「挨拶されたから」
事実をそのまま返すと、ミナは苦笑しました。
「そうじゃなくて……」
ミナの呟きに、私は笑っていました。
「今まで挨拶してなかったじゃん」
「そーだねぇ」
ミナと話しているとき、私は大抵機嫌が良いです。そしてその日もご多分に漏れず、私は機嫌がよかったのです。
「まー、別にいいけどさ。好きとか付き合ってるとかじゃないんでしょう?」
「うん」
「私はあいつ、いい奴だと思うんだけどねぇ……」
ミナは苦笑して、私を見ました。私は微笑みました。ミナは結構私のことをわかってくれています。そしてミナはさばさばしているいい子なので、その話題はそれで終わりました。
それからしばらくの間、私と彼の間に変化はありませんでした。
ただ「おはよう」と「じゃあ」という言葉が飛び交っているだけでした。
変化は――そうですね。彼と私の変化が彼によってもたらされたように、その変化も彼によってもたらされました。
その日、私は一人で帰宅していました。
いつもはミナと帰宅しているのですが、その日だけは、私は一人でした。強くも弱くも無い雨が、サーッと降っていました。いつも二人で歩く道を一人出歩くのは、とても奇妙な感覚を伴いました。その感覚は、同じ方向を歩く人が誰もいないという事実に気づいた時、余計大きくなりました。
委員会で遅れたため、歩いているのは私一人でした。雨の中薄暗い世界は、私に違和感を与えます。体育館から漏れる明かりと、部活を楽しむ人の声は遠くに聞こえ、世界が違う錯覚を私にもたらしました。
私は、そんな感覚を以前にも感じたことがありました。――その時は気づきませんでしたが。
「おい」
雨の中その声は響きました。しかし私はその時、その声を音としか認知しませんでした。
「おい」
もう一度、その音が聞こえ、私はキョロリとあたりを見ました。姿は見えませんでした。
私は、こっそりと後ろを見ました。すると、彼がいたのです。少しばかり私は驚いてしまいました。
「ひとりか?」
見てすぐわかる事実を、彼はわざわざ口にしました。私はただ、頷きました。
「じゃ、一緒に帰ろうぜ」
もう一度、私は頷きました。彼の家を私は知らず、彼も私の家は知らないはずでした。けれども私はそのことを気にしませんでした。
彼は無言で私の隣を歩きました。私も無言でした。
周りの雨の音とは違う傘にあたる雨音に、私は耳を済ませていました。申し訳程度に響く音は、あるリズムを伴っているのです。そしてリズムは、あまりにも空気が静かな為一人で帰っているという錯覚を起こしそうな私に、二人で帰ってるのだと言い聞かせてくれていました。
「……ここ」
無言の中、声を出すのは苦手です。だからその時も、私の声は少し小さくなってしまっていました。
「家、ここだから」
私の言葉に、彼は何かいいたげに口を開きました。あ、という形になった唇は、音を紡ぐことなく閉じられました。彼は眉を八の字の形にすると、ん、じゃあ……と口の中でモゴモゴ言いながら、手を軽く上げました。
それはあまりに未練がましく、私は口元に微笑が浮かぶのを感じたものです。
「ねぇ」
自然と、あまりに自然と声が出て、私はその時驚きました。その時の気持ちは、ミナと話しているときと酷似しているとても気分のいいものでした。
「用があるなら、上がってく?」
彼は私の言葉に大きく目を見開き、頷きました。
傘をたたみ、玄関から外を見て、私は以前感じた感覚を思い出しました。それは彼と初めて話した日と同じ感覚でした。
世界は相変わらず、ソコにありました。当たり前に。
私は奇妙な安堵感を覚え、後ろ手でドアを閉めました。彼を部屋に招きいれ、私は床に座りました。彼も床に座りました。
それからどれくらいかの沈黙が流れて、彼はその間ずっと、手で何か掴もうとするように拳を作ったり作らなかったりしていました。
「あのさっ」
彼の手が強く彼自身の拳を握り締めたのとやけに高くなった声が響いたのは、同時でした。
「俺、好きな奴が出来たんだ」
「は?」
彼の言葉に私は間抜けな声を出しました。でも、仕方ないですよね? あまりに唐突なのですから。彼の顔は、真っ赤でした。
「突然、しかもこんな相談、迷惑な事ぐらいわかる。わかるけど、誰にも相談できないし、黙ったまま溜め込むのも俺、耐えられなくて。本当、悪いとは思うけど――……」
あーもう、と彼はぐしゃぐしゃと頭を掻きました。あまりにも子供っぽい仕種に、私は心が軽やかになるのを感じました。
「話聞くぐらいなら、別に迷惑でもなんでもないけど」
「マジ!?」
嬉しそうに彼は笑いました。その顔に馴染んだ表情に、私もつられて笑いました。それからいろいろなことを聞きました。彼の好きな人、好きになった理由など。
大方話が終わった後、彼は、「でも」といいました。でも、告白は絶対にしないのだ、と。すればいいのに、と私は思わないわけではありませんでした。そんな考えが顔に出たのでしょうか? 彼はその時、困ったように笑いました。
「気味悪いだろ?」
……ああ、あれは笑っていなかったのかもしれません。あれは――ただ、顔を辛そうに歪めただけなのかもしれません。いえ、きっとそうです。
……とにかく彼はそんな表情をしていました。私は、彼の言葉がとても不思議でしょうがありませんでした。だって、そうでしょう? 恋することの何が悪いんですか?
そりゃあ、少しばかり珍しい性癖かもしれませんが、そこまで気味悪いとは思えません。ただ対象が異性から同性に移っただけなのですから。
黙り込んだ私を、彼がどう受け取ったかは知りません。けれど、彼はとにかくそれを悪くとったようでした。
彼はあぐらを組んだ膝の上に肘を乗せて、頭をその手に押しつけました。その様子があまりに深刻そうで、私にはますます不思議で訳がわからなくなってしまいました。
あの時の私の困惑といったら――今思うと、とても間抜けでしたよ、ええ。
とにかく何か言わなければ、という強迫観念が私を押さえつけてきていました。圧迫感は重く私の肺を苦しめました。彼は、それでもそんな私に気づくことなく、辛そうに顔を伏せていました。
「あのさ」
やっと出すことができた私の声はあまりに小さく、その小ささに私は驚きました。
小さすぎる声が彼に届くことなど、ありませんでした。
「あのさ」
もう一度試みると、今度は予想よりも大分大きな声になり、彼は顔を上げました。それを私は妙に気恥ずかしく感じました。
何故かはわかりません。私はその気恥ずかしさから逃げるように、慌てて言葉を続けました。だから、続けられた言葉には、まったくもって考えや下地が無く、まっさらな状態からの言葉になりました。
「好きな人がいるのって、いいことだと思う」
その時、私は自分の顔が熱いのを感じていました。それは可愛らしい照れや気恥ずかしさから来るというよりも、考え無しに言葉を口にする自分への羞恥心から来るものでした。
私は何かに急かされるように、早口で言葉を続けました。
「実は、私『ハツコイ』もまだでね。だから、恋愛とかのアドバイス、出来ないんだ。だから、だから恋愛って憧れる。凄いと思うんだ。人を愛せるって。すごい、と思う。そう、すごい。私も恋したいって思う。だから、相手が男だろうが女だろうが恋自体が綺麗で透明で、ガラス細工のように感じるから、気持ち悪いなんて思えないんだ」
私の言葉に、彼は目じりを下げて、クシャリと笑いました。
それを見て私は、やっと落ち着けました。いつのまにか力のこもっていた拳をだらりと横に降ろして、私は息をはきました。
その時、そのまま自分の中の空気がすべて抜けてしまうのではないか、なんてありえない心配をしたくらいです。
「サンキュ」
彼はそういうと、んー、と一つ伸びをしました。私はきっと、気の抜けた笑みを浮かべていたと思います。
「でもさ」
ふと、彼はやわらかい表情で私を見ました。
「それも、いいと思うけどな」
「それって」
「恋をしないってのも」
「え」
彼の言葉に、私は自然と眉を顰めました。だって、私はどれだけ恋を渇望したといえるのでしょうか? そして何度、恋が出来ない自分に絶望したといえるのでしょうか? それを彼は知りません。
――ええ。過去のあの時も、今現在も。そしてきっと、これからも。
彼は笑っていました。不快感と不安感に、私は目を伏せました。
そう、その時私は不安だったのです。私が恋もできない人間だという事が、恋が出来ない欠陥品だという事が、彼にばれるかもしれない、という事が。
「恋ってのはさぁ」
やけに彼の声が、甘ったるく感じました。
それはドロドロとした緩やかな時間と酷似しているようで――いいえ、きっとそれそのものだったと思います。
「その人だけに全てを注ぐものだと思うんだよな」
……今思うと、彼の言葉はあまりに理想めいて、偽善めいていたかもしれません。
けれどそれは私にとって、あまりに綺麗であまりに眩しい、透き通ったガラス細工そのものでした。
「だから、さ」
彼の声はわたしに顔を上げさせました。彼は優しく笑っていました。
「きっと恋を知らない奴は、とてつもなく綺麗にとてつもなく純粋に全ての人を愛せると思うんだ」
根拠の無い言葉です。でも彼は微笑んでいました。
「まーだからって恋が悪いわけじゃないし、お前だっていつか恋すると思うけどな」
やわらかい声の後慌てて付け加えられた言葉は、照れ隠しのようでした。
私は彼の言葉に、心の臓がジーンと痺れるような、頭から足まで電気信号が急速におちるような感覚を持ちました。
彼の言葉は、まるで井戸水のようでした。こんこんと沸くガラス細工が、冷たい井戸水に変わっていったのです。私はその井戸水を飲み干してしまいたい衝動に駆られました。
キラキラとしたガラス細工が喉を潤す水になり、それを飲み込むことによって私もそのキラキラに近づける気がしたからです。
彼は私の性癖――恋ができない性癖を、知りません。知ることもありません。
それでも私はその言葉に飲まれました。いや、知らないからこそその水は冷たくて綺麗だったのでしょう。
その時の私の心持は、まるで釈迦の説法を尊ぶ僧のようだったと思います。けれど彼は釈迦ではありません。それに私の神は既に一人いるのですから、彼は釈迦にはなりえません。私の神は釈迦ではありませんし、私の中の神は友人である彼女一人きりなのですから。
でも彼は彼の言葉によって、天使に近しい存在になりました。私は彼をとても愛しいと思いました。
けれども、それは悲しいことに恋ではありません。それでも私は確かにその一瞬、彼を愛しいと思えたのです。まるでマリアを想う信徒のように。
だからといって急速に何かが変わることはありませんでした。カミサマを想うように、ひっそりと天使を思うだけです。
相変わらず私たちは「おはよう」と「じゃあ」の言葉だけを交わしていました。時々彼の恋の話を聞いたりもしましたけれど、それは時々で、変化というものではありませんでした。
そう、私も彼も変化を起こす力を持たなかったのです。
変化は――カミサマが風とともに起こしました。
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