第26話 ご挨拶

 信号の無い新御堂筋は混んでさえいなければ、箕面から梅田まで20分ほどで到着できますので、実家から西区の自宅までは朝夕のラッシュを避ければ、車で1時間も掛からないほどの道程です。

 夜の10時過ぎに箕面を出ましたので、新御堂筋は全く混んでおらず、梅田へは10時半に到着しました。

 この間、助手席の千里は私の左手を握り締めたまま、車窓を流れる景色を無言で眺めておりました。

 おそらく、胸に去来する様々な思いが、千里を無口にさせてしまったのでしょう。

 実家を出て私と暮らし始めるということは、千里が言っていた、『何かあったらすぐに帰ってこられる距離やねんから』という、車でほんの一時間弱という実際の距離以上に、千里にとってはまるで別世界へ行くかのような、遠い道程に感じているのかもしれません。

 私は沈黙に耐えかねて、北新地から御堂筋を南下して、淀屋橋を通過するときに、

「千里、大丈夫?」と声を掛けました。

 ぼんやりと外の景色を眺めていた千里は、急に声を掛けられて、

「えっ、何が?・・・」

 と、少し驚いた表情をしておりました。

「やっぱり、実家を離れるのは寂しい?」

「・・・・・・」 

 千里は少し間を置いたあと、

「うん・・・ やっぱり、ちょっとだけ寂しいかな・・・ でも、これからは圭介とずっと一緒やから大丈夫やで」と言って、繋いだ手を強く握ってきましたので、

「うん。俺も、これからは千里と一緒やから、凄く心強いし幸せやで」と言って、ほんの少しだけ強く握り返しました。

 御堂筋の新橋の交差点を右折して、途中でコンビニに寄りまして、ミネラルウォーターやジュース、お菓子などを買い込んで再び出発し、蟹座橋の交差点を左折して少し行ったところに、これから千里と一緒に暮らし始める、自宅のマンションに到着しました。

「着いたよ」

「ここが圭介のお家なん?」

「もう、千里のお家でもあるねんで」と言って、マンションの敷地内の駐車場に車を停めて、二人で降りました。

 千里は12階建てのマンションを見上げながら、

「なんか、思ってたよりも小ぢんまりしてるねぇ」と言いました。

 確かに、マンションの建物自体の敷地面積は400㎡弱と、縦に細長いタイプなので、外から見る限りはワンルーム専用のマンションのように見えます。

「お家って、何階なん?」と、千里が訊ねてきましたが、

「それは、あとのお楽しみやから内緒」と答えながら、車のトランクルームから千里の荷物を2回に分けて運ぶことにして、まずは旅行用のキャリーバッグと紙袋を3つ取り出し、千里に紙袋を1つ渡して残りを手に持ち、マンションに入っていきました。

 オートロックにキーを直接差し込んで解除したあと、エントランスを抜けてエレベーターに乗り込み、12階のボタンを押しました。

「えっ? すごい! 最上階やの?」

「そうやで。でも、タワーマンションじゃないから、景色なんかなんにも見えへんよ」と言ってる間に到着しまして、エレベーターを降りて目の前のドアの鍵を開けて二人で中に入りました。

 玄関に入ってすぐにいったん荷物を置いたあと、

「残りの荷物を取ってくるから、千里は家の中を見といてな」と言いました。

 すると千里は、目の前に広がる空間を見つめながら、

「えっ!・・・ これって、広くない?」と訊ねてきました。

「そうやなぁ、最上階はうちだけやからな」

「えっ! じゃあ、この階はうちしかないってことなん?」

「そうやで。ここと11階と10階がフロアー丸ごと1世帯で、9階から下はフロアー毎に2世帯が入ってるファミリータイプやねん。とりあえず残りの荷物を取ってくるから、千里は中を見ときな」と言って、千里を残して荷物を取りにエレベーターに乗り込みました。

(多分、広いから驚くやろうなぁ)と思いながら残りの荷物のダンボールと旅行用のバッグを重ねて抱えたあと、再びエレベーターに乗って自宅のドアを開けました。

 千里は40畳のリビングに立ち尽くしておりまして、

「ここが、私のお家なん?」と、少し困ったような表情で訊ねてきました。

「そうやで。ここが今から千里のお家やねんで」

「だって・・・ こんなに広いと思ってなかったもん」

「5LDKやから、一部屋は千里のお父さんとお母さんの専用の部屋にしようか?」と提案したのですが、

「・・・・・・」

 千里は私の提案には答えず、困惑したままの表情で、

「いま、キッチン周りとリビングしか見てないけど、なんでこんなに全部揃ってるの?・・・・ もしかして、圭介はここで、誰かと一緒に住んでたの?」と訊ねてきました。

「いや、誰とも一緒になんか住んでないよ」

「じゃあ、なんで食器とかコップとか、こんなにいっぱい種類が揃ってるの?」

(女の人って、そんな細かいところから確認するんかぁ)と、半ば感心しながら、

「実はな、このマンションはもともと、親父の会社が建てて売りに出したんやけど、ここは5人家族用のモデルルームとして中身を全部揃えて、買いに来た人たちに公開してたんよ。でも、親父が自分で見に来て、それで気に入ってしまって売りに出すのを止めて、俺が結婚したらここに住みなさいって、親父が遺してくれた家やねん」と説明しました。

「そうやったん・・・」

「うん、だから、俺は親父の言いつけを守って、ここには誰も入れたことが無かったし、ここに連れてくるのは自分の嫁さんだけやって決めてたから、千里が初めてやねんで」と言って千里に近づき、強く抱きしめたあとにキスをしました。

 唇を離した後、千里は真剣な表情で、

「私、圭介のお父さんに、感謝しないといけないね」と言いました。

「この奥の和室に、親父と母さんの写真があるから、挨拶しとく?」

「うん、ちゃんとご挨拶したいから連れて行って」

「じゃあ、行こうか」と言って、千里の手を引いてリビングの右奥にある和室に向かおうとすると、なぜか千里は足を止めて、

「圭介、ちょっと待って。お父さんとお母さんの写真って、お仏壇に飾ってあるの?」と訊ねてきました。

「いや、仏壇じゃないねんけど、和室は普段から使ってなくて、大きなローテーブルがあるねんけど、その上に二人の写真を置いてるだけやで」

「そうなん、わかった」と言って、千里は私の手を離し、キッチンに行って食器棚からガラス製の透明のコップを二つ取り出し、先ほど買ってきたミネラルウォーターをコップに注いだあと、

「圭介、ひとつ持って」と言いました。

「お水をお供えするの?」

「うん、ごめんね・・・ 事前に分かってたら、ちゃんとしたお供え物とお花を用意してたのに・・・ 気が付かなかったね」

 私はコップをひとつ手に持ち、

「そんなん、千里が謝ることじゃないよ。普通はそこまで気なんかつけへんやろうし、俺が写真を飾ってるとか言ってないねんから」と言いましたが、千里は神妙な面持ちで、

「うぅん、違うねん・・・ やっぱり私、気が抜けてたわ・・・さっそく明日、ちゃんとしたものを用意するから、本当にごめんね」と言いました。

「・・・・・」

 これ以上、私が何か言っても、おそらく千里は自分を責め続けるだろうと思いましたので、

「じゃあ、行こうか」と言って、二人で和室に向かい、襖を開いて中に入り、照明のスイッチを押して明かりを点けたあと、私は父と母の写真に向かって、

「親父、母さん、嫁さんを連れてきたで」と言いました。

 千里は無言まま、ローテーブルの上の二人の写真の前に正座して、手に持ったコップを父の写真の前に置き、次いで私からコップを受け取って母の写真の前に置きました。

「初めまして、千里です。お父さん、お母さん、これからよろしくお願いいたします」

 と言って頭を下げて一礼したあと、目を瞑り、両手を合わせました。

 おそらく、心の中で挨拶をしているのでしょう。

 私も千里の隣に正座して、同じように目を瞑り、両手を合わせて、

(親父、母さん、千里です。いきなり連れてきたからびっくりしてるやろうけど、いい娘を連れてきたやろう? 俺はもう、千里の両親にちゃんと挨拶を済ませて、許しをもらったから安心して。これから千里と結婚して、幸せな家庭を作るから見守っといてな!)

 と、両親に報告し終わり、目を開けて千里を見ますと、

「・・・・・」

 千里は同じ姿勢で両手を合わせておりましたが、その瞑ったままの両目から涙が溢れて、頬を伝っておりましたので、私は正座したまま体の向きを千里のほうに向けて、両手で千里の頬の涙を拭ったあと、

「もう、挨拶は済んだ?」と訊ねました。

 千里は目を開き、合わせていた両手を広げましたので、私も両手を広げて千里を強く抱きしめながら、

「千里、愛してるよ」

 と、両親の前で初めて千里に愛を誓いました。

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