第4章 異変

第25話 巣立ち

 全ての片づけを終えて、千里が私の隣のソファーに座ったのは、午後の2時前でした。

「は~、疲れた」

「お疲れさま、大丈夫?」

「うん、大丈夫」

 私は千里の体調を考慮して、今すぐ眠りに就けば6時間は眠れるだろうと、千里に話しかけようとした時、

「千里、あんた早く上がって寝なさいよ。圭介君も仮眠しか取ってないから、千里と一緒に上がって、ちょっと眠りなさいよ」

 と、お母さんが言ってくれましたので、

「はい、ありがとうございます。千里、行こうか」と言いました。

「うん」

「じゃあ、お父さん、お母さん、ちょっと眠ってきますね」

「うん、ゆっくり休みや」とお父さんが言ってくれて、

「夜の8時くらいに起こしに行くからね。おやすみなさい」と、お母さんが言ってくれました。

「はい、おやすみなさい」と言って、二人で2階の千里の部屋に行きました。

 部屋に入ってすぐに千里は、トレーナーとジーンズを脱いでパジャマに着替えたあと、

「圭介、もう疲れてクタクタやから、またお姫様抱っこして布団に連れて行って♡」と、甘えた声で言いました。

「うん、いいよ」と言って、千里を抱きあげて、ゆっくりと布団の上に寝かせ、掛け布団を千里から引き抜いて被せたあと、ついでに私も布団の中に潜り込みました。

「私って、重くない?」

「重くないよ。50キロくらいやろう?」

 千里は一瞬にして怒った顔になり、

「しつれいな! 私、46キロしかないわ!」と言いました。

(たった4キロの違いで、そんなに怒るんか)と思いながら、体重の話題から離れようと、

「そうなん、ごめん・・・ それで身長は?」と訊ねました。

「162センチやから、46キロやったら、痩せすぎなくらいやねんから!」

「えっ! 162センチって、そんなに高かったん?」

「そんな、高いっていうほどじゃないけど、圭介はマリと見比べて、私が低く見えたんじゃないん? マリはローヒールを履いてても、175センチ以上もあるんやもん」

 確かに千里の言う通り、マリと比べて低く見えていたのかもしれません。

 実際、千里の裸を見た時、スタイルは抜群に良かったのですが、想像していたよりも痩せていたので、ほんの少しだけ残念に思いました。ちなみに私の理想は、身長165センチ、体重55キロから60キロの間の、ほんのちょっぴりのポッチャリさんが好みです。

 といったようなことを説明している場合ではなく、早く千里を寝かしつけなければ、本当に体調を崩してしまいます。

 今はお互いに、何をやっても初めてづくしなので気が張っていて疲れを感じないかもしれませんが、『好事魔多し』という言葉があるように、順調に行っている時ほど体調を崩しやすいものなので、

「千里、もう寝ようか」と言いました。

「うん。さすがに、本当に疲れた・・・ もう寝るから、おやすみのキスして♡」

「うん。おやすみ」と言って、私が軽くキスをすると、

「おやすみ」と言って、千里が私の胸に顔を埋めてきましたので、イチャつきたい気持ちをグッと抑えて、千里の頭を優しく撫で撫でして寝かしつけることにしました。


 千里が眠りに就く間、私は元支配人のことを考えていました。

 竹然上人は確か、獅子身中の虫が体内を食い散らかした後、外に出て今は飼い犬となって、大きな家で飼われていると言っていましたので、それを当て嵌めていくと・・・

 元支配人はどういう経緯かはお父さんに訊ねなければ分かりませんが、お父さんを保証人にして、どこかから借金をし、何らかの理由で返済ができなくなってしまい、ホテルを退社した、ということは間違いないでしょう。

 ホテルを辞めた後、今現在は飼い犬となって、どこかの大きな家に飼われているということなのですが、いったいどこに飼われているというのでしょうか・・・

 大きな家というのが、もしも『みらい観光開発』であったと仮定した場合、元支配人とみらい観光開発がグルになって、大阪インペリアルホテルの乗っ取りを計画し、支配人は退社して業務に支障を生じさせ、お父さんの経営意欲を萎えさせて買収をしやすくした上で、借金を踏み倒した、ということになると思います。

 もしかすると、漏水の事故も元支配人が意図的に作為した、事故に見せかけた事件であったのかもしれません。

 その場合、器物損壊や営業妨害などの立派な犯罪となりますので、いくら借金を踏み倒し、尚且つ乗っ取りの成功時に報酬が出るからといっても、捕まることを覚悟で、20年も勤め上げた職場を破綻に追い込んだとは、常識的に考えにくいのですが・・・

 そして、何よりも大阪インペリアルホテルは犯罪に手を染めてまで、乗っ取らなければならいほどの価値があるとは到底思えず、ましてみらい観光開発が提示した条件は、通常の売買価格よりも相当な高値を提示していますので、やはり考え過ぎということになるでしょう。

 だとすると、漏水はただの偶然で、支配人はこのままだと大阪インペリアルホテルの経営が行き詰まり、共倒れになることを避けて辞めただけなのか・・・ 

 しかし、だとすると裏に隠れている本当の敵というのは、いったい誰のことなのでしょう。

 このまま大阪インペリアルホテルを売却すれば、敵も味方も関係なく丸く収まると思うのですが・・・

 とにかく、お父さんに詳しい事情を聞かなければ何も始まりませんので、今日の夜にホテルでお父さんから詳しい事情を聞くことにしました。

 そんなことを考えているうちに、いつのまにか千里はぐっすりと眠ったようです。

 幼い子供のように、安心しきった千里の安らかな寝顔をしばらく眺めながら、どうやら私も眠りに就いてしまったようです。



「zzzz・・・・」


 目が覚めたとき、辺りはすっかり暗闇に包まれていて、

「!」

 私は咄嗟に千里の存在を確かめようとして、すぐに柔らかい髪の感触と、リンスの匂いを確認して、不安や悲しみを感じる前に安心しました。

 どうやら私は、千里の隣で目覚めなければ、幼い頃の悲しい記憶が甦り、あの頃と同じような精神状態になってしまうようです。

 まるで軽いトラウマのような一種の精神的な病というべきか、私が千里を強く求め、依存しようとしていることが原因であると思われますが、このまま千里と生活を共にして、同じ布団で一緒に眠り、千里の隣で目覚め続けることによって、悲しみや不安は徐々に緩和され、いつかは解消されていくのでしょうか・・・

 その答えは、おそらく私一人では見つけることはできなくて、千里と二人で捜し求めて行かなければ、決して見つけることはできないような気がしました。

 千里の髪に優しく触れながら、今はいったい何時なのだろうと、壁に掛けられた時計を見ましたが、暗すぎて時計の針が見えず、何時なのかさっぱり分かりませんでした。

 今の時期ですと、夕方の5時過ぎには暗くなってしまいますので、おそらく6時以降だろうと思いながら、千里を起こさないようにゆっくりと布団から抜け出て、掛け時計に近づいて目を凝らすと、

「!」

 午後の8時半でありました。

(お母さん、8時に起こしに来るって言ってたのに・・・)と思いながら、千里のところへ行き、

「千里、もう時間やから起きよう」と、優しく頬を撫でながら言いました。すると千里はすぐに反応して、横に向いていた体を体を仰向けにして、

「圭介、起きてたん?」と言いました。

「うん、いま起きたとこやねんけど、もう8時半やから、あんまり時間が無いよ」

「えっ! 8時半?」と言って、千里はすばやく起き上がり、ドアの横にあった部屋の照明のスイッチを入れました。

 部屋の中が一瞬で明るくなり、私はもう一度掛け時計に目を向けると、やはり間違いなく午後の8時半でありました。

「もうっ! ママが起こしてくれるって言ってたのに! 圭介、下に降りよう」と言って、千里がドアを開けて一階へ向かいましたので、私も続いて一階に下りました。

 千里と一緒にリビングのドアを開けて中に入りますと、お母さんはキッチンの中でなにやら作業をしておりまして、

「二人とも起きたん?」と言って、作業の手を止めて私たちのほうへ歩いてきました。

「ママ、8時に起こしてくれるって言ってなかった?」と千里が言った後、続いて私が、夜なので適切ではないと思いましたが、

「おはようございます」と、挨拶しました。

「おはよう、圭介君。よく眠れた?」

「はい、よく眠りました」

「もう、ママ! なんで起こしてくれへんかったのよ!」

「ごめん、ごめん、一回起こそうかなって思って、8時に見に行ってんけど、二人ともぐっすり眠ってたから、そのまま寝かしてあげようと思って、わざと起こさなかったんよ。

 実は、お父さんがね、千里は今日、仕事に来なくていいって言うたから、自然に目が覚めるまで寝かせておこうと思ったんよ」

「えっ? パパが仕事に来なくていいって言ったん?」

「そう、千里は今日から圭介君の家に住むことになるから、いろいろと用意せなあかんやろうし、仕事はどうせ暇やろうから、お父さんが一人で朝まで勤務するから、千里は引越しを優先して、明日の朝にホテルにおいでって言ったんよ」

「そうやったん・・・」

 私は(お父さんに悪いことしたなぁ・・・)と思いながら、

「じゃあ、お父さんはもうホテルに行きはったんですか?」と訊ねました。

「うん、20分くらい前に出かけたよ」

「そうやったんですか・・・ なんかお父さんに申し訳ないことをしてしまいましたねぇ」

「そんな、圭介君が気にすること無いわよ。どうせほとんど何もすること無いから、ずっと本ばっかり読んでるって言ってたし。それより二人とも、お腹が空いたでしょう? せっかく圭介君がお漬物の盛り合わせを持ってきてくれたから、さっきの鍋の残り汁で、おじやして食べようか」と、お母さんが提案すると、

「うん、おじやして食べよう! 圭介もおじやでいい?」と、千里に訊ねられましたので、

「うん、おじや大好きやから、それでいいよ」と答えました。

 ということで、千里とお母さんが夕食の用意を始めましたので、私はテーブルの椅子に腰掛けながら、家事に勤しむ母と娘の姿を眺めて、(ほんまに千里を選んで良かった。お母さんもこれから大切にしていきますからね)と、家族と過ごす何気ない日常が、これほど幸せな気持ちにさせてくれるということを、あらためて認識しました。

 私は幼い頃、母に引き取られている間は、祖母が私を同じ食卓につく事を許さなかったので、祖母と母が食事を終えてから、母に付き添ってもらい一人で食事をしておりまして、幼心にも祖母から除け者、邪魔者扱いされているということが分かっておりましたので、楽しいはずの食事時が、とても辛い思いをしたという記憶しかなく、父に引き取られているときは、家庭で食卓を囲むということがほとんどなく、いつも外食ばかりであったので、今こうして千里とお母さんと食事をするということが、私にとっては何気ない食事時ではなく、特別な意味を持つ大切な時間なのです。

 やがて、私がお土産に持ってきた漬物の小鉢がテーブルに並び、雑炊の準備が整い、それぞれの茶碗によそいだあと、

「いただきます」

 と言って、夕食が始まりました。

 千里は雑炊を二口食べたあと、なぜか急に立ち上がって私の隣から正面の椅子に座りなおし、テーブルの上にあった箸立てからスプーンを取り出し、

「はいっ、圭介」

 と言って、なぜか私にスプーンを手渡してきました。

「?・・・」

(俺、箸で食べる方がいいのに、なんで?)と思いながらも、一応受け取ると、

「圭介、熱いからふぅふぅして食べさせて」と、千里が言いました。

(マジかぁ・・・ お母さんの前やぞ?)

 と思いながら、リアクションに困っていると、

「あんた、よう27歳にもなって、ママの前でそんなことができるなぁ・・・ 恥ずかしくないの?」

 と、お母さんが千里を窘たしなめてくれました。

「別に、ぜんぜん恥ずかしくないよ。圭介、早く! お腹が空いてるねん!」

「・・・・・・」

 私は仕方なく千里の茶碗を手に持ち、スプーンで雑炊をよそい、千里の口に持っていくと、

「ふぅふぅは? 私が火傷したらどうすんのよ!」と、まるで女王様と下僕のような振る舞いを見せました。

 私は言われたとおりに、「ふぅ~、ふぅ~」として、再び千里の口に持っていきますと、千里はぱくりと口に含んで食べ終わり、

「うん、おいしい♡ はい、次、あ~ん」

 と、まるで托卵たくらんで成長する郭公かっこうの雛のようなずうずうしさで、おかわりを要求してきました。

(俺、いつ食べれんねやろう?)と思いながら、千里の言いなりになっていると、そんな姿を見るに見かねたのか、

「あんた・・・ 見てるこっちが恥ずかしくなってきたわ。それにしても、圭介君はほんまに優しいねぇ」と、お母さんが言ったあと、

「ママ、なに泣いてんのよ!」

 と、なぜかお母さんは目に涙をいっぱい溜めて、小さなミニタオルで涙を拭き始めてしまいました。

(お母さん、俺のことが可愛そうやと思ってしまったんかな?)と思っていると、

「ママ・・・ やっぱり、私がいなくなったら寂しい?」と、千里が言いましたので、

(あっ、そっちか・・・)と思いました。

「ママ、ごめんね・・・ でも、何かあったらすぐに帰ってこられる距離やねんから・・・」

 と言って、涙腺の弱い千里も一緒に泣き始めてしまいました。

 私は(どうしよう・・・)と思い、二人に掛ける慰めの言葉を探し始めたとき、

「ううん、違うねん・・・ あんたが幸せになると思ったら、なんか段々腹が立ってきてん」と、お母さんが言いました。

「・・・・」

 私はお母さんに対して、初めて(そっちか~い!)と思ったあと、『急に』と『段々』という違いはあれ、『腹が立ってきた』という聞き覚えのある言葉で、やはり血は争えない母娘だなと思いました。

「なによ、それ! も~う、泣いて損したやんか!」と、千里が怒りを露にして、お母さんからミニタオルをひったくって涙を拭くと、

「冗談に決まってるやろう! 千里、これからいろんなことがあるやろうけど、圭介君と一緒に二人でがんばって、ちゃんとやっていきなさいよ。それと圭介君、あんまり千里の我が侭ばかっり聞いてたら、後からしんどくなるからほどほどにね」と、私にアドバイスをしてくれました。

「はい、お母さん、ありがとうございます」

「それと最後に、二人でがんばって、早く私に孫を抱かせてね」

「うん、分かった。ママ、ありがとう」


 以上のような楽しい夕食を終えて、千里と私はお母さんにしばしの別れの挨拶をして、一緒に実家を後にしました。

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