第24話 約束
目が覚めた時、隣で眠っていたはずの千里が居なくなっていて、
「!・・・・」
なんとも言えない寂しさと不安を覚え、なぜかふと、子供の時に暗闇で目が覚めて、母を必死に捜しまわった時の記憶が甦りました。
幼い頃に何度も母から引き離され、その度に何度も味わってきた、物哀しく救いようのない辛い記憶でした。
私は今まで、4人の女性と同棲してきて、数え切れないほどこういった場面を経験してきましたが、目覚めて隣に彼女がいないからといって、何らかの特別な感情を覚えたという記憶はなく、これほどの寂しさと不安を覚えたのは、母以外では千里が初めてでした。
一度こういった形で記憶と経験が結びついてしまうと、おそらくもう二度と忘れることはできなくなり、癒されることもなく、決して慣れることもない悲しみとして、私の心の中に深く根差してしまい、私はこれから千里の隣で目覚めない限り、この悲しみから逃れることはできないでしょう。
まるで母の記憶と千里の存在が、オーバーラップしているかのような・・・
いや、そうではなく、幼い子供が母を必要とするように、私にとって千里は、なくてはならない特別な存在なのだと、母が亡くなる直前まで私に謝り続けた、幼い頃の私と過ごせなかったという、自らの悲しい記憶を使者として遣わし、母が私にそう知らせてくれたのでしょう。
千里は本当に、特別な存在であるということを・・・
私は千里の姿を求めて布団から起き上がり、一階へ向かいました。
リビングのドアを開けると、うっすらと化粧をして、白いトレーナーにジーンズを穿き、腰にブルーと白のチェック柄のエプロンをした千里を発見して、心から安堵し、胸を撫で下ろしました。
「起きたん?」
と、母のように優しく微笑む千里を抱きしめたあと、何度もキスをして千里が実在していることを確かめました。
「はい、もうおしまい! パパとママは一回帰ってきて、今はすぐそこのイオンに野菜とかを買いに行ってるから、もうすぐ帰ってくるよ」
「そうなん」と言って、リビングに掛けられていた時計を見ますと、午前の11時過ぎでした。
(ということは、2時間も寝てないんや)と、千里の体調を不安に思いました。
「圭介、これ見て!」と言って、千里が冷蔵庫を開けますと、
「うわっ!・・・ すごいな、これ」
と、私の目に飛び込んできたのは、冷蔵室のスペースをわざわざ空けて、そのスペースを占拠している刺身の巨大な舟盛りでした。
「なんか、淡路島のほうから今朝獲れた魚を、わざわざ持って来てもらったらしいで」
「そうなんや・・・」
私は釣りが趣味で、淡路島にもよく行っていたので魚は詳しいのですが、舟盛りには淡路特産の鯛や蛸、アワビやサザエのほかに、この時期に旬を迎え、超新鮮でなければ刺身にできない
「なんか・・・ 俺のために申し訳ないなぁ」と言いました。
「いいやん! その分、私を幸せにしてくれたら」
「うん、千里は絶対に幸せにするけど、お父さんとお母さんも幸せにしたいから、今度は俺が、京都に良いお店があるから、そこでみんなにおいしいものを御馳走するからな」
「うん。ありがとう」
と言ったあと、千里はテーブルの上から何かを手にして戻ってきて、
「圭介、はいっ、これ」と言って、新品の青い歯ブラシを手渡してきました。
受け取った歯ブラシをよく見ますと、柄の部分にカタカナで、
『ケイスケ アホ』とマジックで書かれておりました。
「・・・・・」
「その歯ブラシ、脱衣場の洗面台のところに歯ブラシ入れがあるから、歯を磨き終わったらそこに入れといてね」と言われましたので、『アホ』と書かれていることには触れずに黙認して、
「うん」と返事をしました。
「じゃあ、私は食器を出したり、いろいろと準備をするから、圭介は歯を磨いてきて」
「うん、わかった」と言って、脱衣場へ向かいました。
洗面台の前に立ち、あらためて自分の名前が書かれた歯ブラシを見ていると、本当に千里と家族になるんだという実感が湧いてきて、
(アホは余分やけど、歯ブラシに名前を書いてもらうだけで、こんなに幸せな気持ちになるんや)と思いながら歯を磨き始めた時に、
「ただいま~」と、お母さんの声がして、両親が戻ってきました。
私は慌てて歯を磨いたあと、円柱形の歯ブラシ入れの『チサト』と書かれたピンクの歯ブラシの隣にmy歯ブラシを差し込み、リビングに向かいました。
お父さんとお母さんは、買ってきた品物をテーブルの上に並べておりまして、
「お父さん、お母さん、お帰りなさい」と声を掛けました。
「ただいま。圭介君、ゆっくりできた?」
と、お母さんから訊ねられましたので、
「はい、ゆっくりできました」と答えながら、私はお母さんの顔をまともに見ることができないことに気づいてしまいました。
「そう、良かった。もうちょっとしたら準備できるから、ゆっくりご飯を食べて、それからまた夜まで時間があるから、千里と一緒にちょっと眠りなさいね」と、お母さんの言葉に、どこか意味深な言い回しをされているような気がしましたので、
(もしかしたら、エッチしたことバレてるんかな?)と思いながら、
「はい、ありがとうございます。お母さん、何か手伝うことはありますか?」と言いました。
すると、お父さんが私の方へ歩いてきて、
「いいよ、圭介君は疲れてるやろうから、私と一緒にソファーに座って待っとこう」と、今度はお父さんにも、意味ありげな言い回しともとれる言い方をされましたので、
(絶対にエッチしたって思われてる・・・ しかも2回もしてしまったし・・・)と思ってしまい、お父さんの顔も見ることができないことにも気づいてしまいました。
お父さんと一緒にソファーに座り、針の
すると千里は、お母さんと雑談をしながら、楽しそうに白菜を切り始めており、まるで何事も無かったかのように、顔色一つ変えずに普段通りに振る舞う姿を頼もしいと思い、これは夫として妻に
(圭介、ガンバ! やるっきゃない!)と、なぜか死語で自分を応援して、気を取り直しました。
別に悪いことをしてしまったという、罪悪感を覚えているわけではなかったのですが、幾ら婚約したからといっても、やはり初めてエッチをした相手の両親と、エッチをした直後に一緒に食事をするということが今までなかったので、これまで生きてきた中で、全く経験したことのない、妙な恥ずかしさを覚えているのです。
ということで、ここはひとつ、
(お父さん、お母さん、すみません・・・初めて来た実家で、千里と2回もエッチをしてしまいました。ごめんなさい)と、心の中で反省して謝りました。
こうしたアホ丸出しのことを考えている間も、昼食の準備は着々と進んでおり、ダイニングの4人がけのテーブルの上には陶製の鍋が用意されていて、千里が切りそろえた野菜なども並び、どうやら魚の鍋と刺身という、豪華な昼食となりそうだと思った時、
「圭介君は、お酒は大丈夫やの?」と、お父さんに訊ねられましたので、
「はい、大丈夫です」と答えました。
「じゃあ、おかずが刺身やし、私も千里も仕事は夜からやから、軽くビールを一緒に飲もうか」
私は時刻を掛け時計で確認して、8時間以上空けることができるということで、
「はい、いただきます」と言いました。
「刺身でビール無しやったら、初めから食べん方がましやからなぁ」と言ってお父さんが立ち上がり、
「圭介君、もう準備が出来上がるから、先に一緒に飲もう」と言って、テーブルに向かいましたので、私も立ち上がって続きました。
確かに、お父さんの言う通り、酒飲みが刺身をお茶やジュースで食べるくらいなら、初めから手を出さない方がマシですし、ある意味では拷問のようなものです。
お父さんとテーブルに就いて間もなく、
「おまちどうさま!」と、お母さんが冷蔵庫から舟盛りを取り出してテーブルの真ん中に置きまして、続いて千里が麒麟の一番搾りの瓶ビールを2本テーブルに置いて、昼食会が始まりました。
私はビールをお父さんに注いだあと、お母さんに注ぎまして、今度はお父さんが私にビールを注いだあと、
「千里も、ちょっと飲むか?」と訊ねると、
「うん、ちょっともらう。それで、乾杯する前にパパとママに大事なお話があるねん」と言いました。
私は両親に、千里が結婚を承諾してくれて、今日から私の家で生活することになったということを、報告する心の準備を始めた時、
「パパ、ママ、私は圭介と結婚する!」
と、いきなり千里が話し始めてしまいました。
「おぉ、そうか! 結婚するんか!」とお父さんが言って、
「あぁ、そう! 千里、決心したんや! 良かったねぇ!」とお母さんが言って、両親ともに満面に笑みを浮かべて喜んでくれました。
「だからもう、今日から圭介のお家に住むことにしたから、ここには遊びにしか帰ってこないよ」
と、私が言うべき台詞を、千里が全て話してしまいました。
「えっ! そう・・・ もう今日から一緒に住むの?」とお母さんが訊ねると、
「うん。いいやろう?」と千里が言いました。
「良いも悪いも、是非そうしなさいよ! でも、圭介君はそれでいいの?」
「はい、大丈夫です。一緒に住もうって言うたのは僕の方なんで」
「あぁ、そう。じゃあ、よろしくお願いしますね。それで、千里はこう見えても料理は得意やから、圭介君はいろいろ作ってもらいよ」
「はい、ありがとうございます」
「もう、ビールが温くなるから、先に乾杯しよう」とお父さんが言ったあと、私たちはグラスを手に持ちまして、
「じゃあ、圭介君、千里をよろしくお願いします」と、お父さん。
「千里、幸せにしてもらいね!」と、お母さん。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」と私。
「かんぱ~い!」と、全員でグラスを合わせて、婚約記念昼食会が始まりました。
「圭介君、この鰆を食べてみ。今がちょうど旬やから美味しいよ」
「はい、いただきます」
「圭介君、この蛸も美味しいから、食べてみて」
「はい、お母さん、いただきます」
といった感じで、和気あいあいとした雰囲気で食事が進み、淡路の魚介の刺身はどれも絶品で、これだけ新鮮なものを揃えていただいた同級生の魚屋さんに、感謝をしながら美味しく頂きました。
刺身のあとは鯛チリと続き、私たちは一つの鍋を囲みながら、他愛のない雑談を交え、私はビールの酔いも手伝って、もう何年も前から千里の家族と一つの屋根の下で生活を共にしてきたような錯覚を覚えるほど、みんなが私を家族として暖かく迎え入れてくれたことに感謝し、とても幸せな気持ちになりました。
そうして宴も
「ほんまにうちのお父さんは、人の保証人になって借金を抱えてしまったから、私が千里の結婚資金を貯金しといて良かったわ」
と、私にとって2重で気になることを話しました。
「お母さん、今、そんな話はせんでええやろう」
と言って、お父さんは少し不機嫌な表情をしました。
「ごめんなさいね。飲んだらつい、愚痴が出てしまって・・・
それで千里、これから必要なものがいろいろあるやろうから、今度ママと一緒に買い物に行こうね」
「うん、ありがとう」
私は千里とお母さんとのやり取りを聞きながら、私が嫁を貰う時に、親父と交わした約束を思い出し、
「あのぅ、お母さん、千里が必要なものは、僕が全部揃えますから、千里のために貯めてくれてたそのお金は、お母さんがそのまま持っておいてくれないでしょうか」と言いました。
「圭介君、ありがとう。でも、これは千里の親としてする分やから、圭介君はそこまで気を使うことないよ」
「すみません。差しでがましいことは分かっているんですけど、うちの家訓というか、父の遺言として、僕の嫁が必要なものは、全て僕が用意しなさいって、ずっと言われてきましたから、結婚式の費用とか、家具とか家電とかの費用も全部ひっくるめて、父が結婚資金として別に遺してくれてますから、僕に父との約束を守らせて下さい」
「でも、何から何までっていう訳にはいかないし・・・」
私は少し考えたあと、
「じゃあ、お母さんは千里に、結婚に必要なものとは別に、何かを千里に贈ってもらえませんか」と言いました。
すると、今まで黙って話を聞いていた千里が、
「パパもママも、圭介の言う通りにしてあげて。たぶん圭介はこういうことではすごく頑固やと思うし、自分が決めたことは私が言っても絶対曲げないと思うよ。
それに、何よりも圭介のお父さんが決めたことやったら、私はその通りに従いたいし、圭介にお父さんとの約束を破らせたくないねん。
だから、お願いやから圭介の言うことを聞いてあげて。
それで、パパとママにお願いしたいことがあるねんけど、私のために貯めてくれてたお金から、圭介と私にペアで腕時計を買ってよ。それやったら、圭介もいいやろう?」と言いました。
私は我が妻ながら、何と機転の利く娘だろうと感心し、
「うん、そうやな・・・ お父さん、お母さん、千里と僕に、結婚祝いとして腕時計を贈っていただけますか」と言いました。
「うん、わかった。圭介君、そうさせてもらうわ」と、お父さんが了承してくれたことで、話が上手くまとまりました。
その後、鍋の締めとしてうどんをみんなで食べて、昼食会はお開きとなり、お母さんと千里が後片付けを始めましたので、私はお父さんと一緒にリビングのソファーに移動して、千里が入れてくれた食後のコーヒーを飲みながら、私はお父さんに、気になっていたことを訊ねてみました。
「お父さん、さっきお母さんが言ってたことなんですけど、お父さんは誰の借金の保証人になったんですか?」
お父さんは少し寂しそうな表情で、
「前に辞めた支配人の関係で保証になって、それでまぁ、だいぶ苦しくなってしまってんけど・・・
それでもまぁ、ホテルが無事に売れて、この家が残ったら、もうそれでいいかって、借金のことは諦めてるんよ」と言いました。
「・・・・」
おそらく、竹然上人が言っていた獅子身中の虫で、今は飼い犬となっているというのは、元の支配人のことで間違いはないだろうと思いました。
もっと詳しく訊ねてみたかったのですが、千里と私の婚約を祝ってくれたおめでたい席なので、これ以上元の支配人の話は訊ねないことにしました。
私はこれから獅子身中の虫を追い、飼い犬を捕え、後ろに隠れた敵をあぶり出し、これから始まる勝負に必ず勝って見せると、心の中で私の家族に約束しました。
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