第7話 良書

 翌朝、久しぶりに二日酔いの気分の悪さで、吐きそうになって目が覚めました。

 昨晩は千里効果で調子に乗ってしまい、生ビール5杯に鰭酒ひれざけを5杯飲み、そのまま流れでマリの地元の友達が勤めている、北巽のスナックビルのラウンジに行きまして、焼酎をガバ飲みしてしまったのです。

 昨夜の歓迎会で私が驚いたのは、控えめで奥ゆかしい感じの千里が、見かけによらずとてもお酒が強かったということです。

 私とマリは酔いかたがよく似ていて、酔うと多弁になり、笑いに対するハードルが下がって、ゲラになってしまうという、笑いに対して厳しい関西人として、あるまじき失態を晒してしまうのですが、千里はいくら飲んでも顔がほんのり赤くなる程度で、酔いつぶれるどころかほろ酔いの気配さえ感じさせないほど、まったく変化がありませんでした。

 ということはつまり、お酒を飲ませて開放的になったところを口説き落とすという、古典的な作戦が通用しないということではございませんでしょうか?

「それは、困ったなぁ・・・」とひとり言をつぶやいたあと、よろよろと布団から起き上がって、会社へ向かう準備を済ませて自宅を出ました。

 車を運転しながら、女性を口説き落とすのに、お酒以外の方法をあれこれと考えましたが、結局何も思い浮かばないままビルの裏手の駐車場に到着しました。

 私の自宅は大阪市西区の北堀江なので、距離が短すぎたのです。

 事務所に到着後、一連の『メェ~』からはじまり、『マリ~!』と続く日課が終了し、いつものように雑談が始まりました。

「千里、めちゃくちゃお酒が強いな」

「そうでしょう。私は昔から、あの娘が酔っ払ったとこ一回も見たことないんですよ」

 ということはつまり、誠実さで勝負をかけるしかないと思いますが、昨日の私のどこに誠実さが感じられたであろうと、自らの言動を振り返ると、

(誠実さ?・・・ そんなもん、どこにもない・・・・・)

 ということで急に不安になってしまい、

「マリ、千里は昨日の夜の寝る前とか、朝起きた時とか、俺のこと何か言ってなかった?」と、訊ねてしまいました。

「いろいろ言ってましたよ」

「千里、俺のことホンマの変態やとか、悪く思ってないかなぁ?」

「う~ん、変態かどうかってことは微妙やけど、悪くは思ってないと思いますよ。

 だって、千里は感心してましたもん。圭介さんは、その場しのぎの口から出まかせばっかりやけど、そうとう頭の回転が速いから、出たとこ勝負には強いはずやって」

「・・・・・」

 私はマリが言った言葉を、もういちど頭の中で繰り返したあと、

「それって、褒められてんのか、けなされてんのか、どっちかようわからんなぁ」と言いました。


 その後、私たちは無言でしばらく時は流れ、時刻が午前10時となりましたので、

「マリ~!」

 と叫んだあと、今回は『ガクッ』とはせずに、

「今からちょっと用事があるから出かけてくるわ」と言いました。

「分かりました。帰りは何時になります?」

「たぶん、そのまま夕方に人と会うから、マリは野獣死すべしを読んで、5時になったらハウスでいいよ」と言うと、マリは少し神妙な面持ちで、

「あのね、もうあの本、読むの止めにしたんですよ」と言いました。

「なんで? 面白くなかったか?」

「面白いとか面白くないとかじゃなくて、主人公の伊達邦彦は人を殺しまくるじゃないですか。私、ドラマとかでも人を殺すのんとか見ないほうなんで、どうせ読むんやったら、違う本を貸してくださいよ」

(ということは、野獣死すべしでは野生は目覚めんっていうことか・・・)と、自らの実験の失敗を反省しつつ、デスクの一番下の引き出しを空けて、きれいに並べている書籍の背表紙を眺め、次に何を読ませようかと考えました。

 大藪春彦の『汚れた英雄』

 阿佐田哲也の『麻雀放浪記』

 色川武大の『狂人日記』

 村上春樹の『羊をめぐる冒険』

 司馬遼太郎の『梟の城』

 ・・・・etc 

 どれもすばらしい本ばかりですが、並み居る名作を押しのけて、私はある一冊の本を手に取り、

「この本は、俺の人生に多大な影響を与えてくれた、言わば俺にとって人生の教科書みたいな大切な本やから、心して読むように」と言って、マリに手渡し、

「じゃあ、行ってくるわ」と言って、事務所を後にしました。

 ちなみに、私がマリに貸し与えたすばらしい本とは、中川いさみの『クマのプー太郎』という4コマ漫画です。

(*注意⑤ 漫画を馬鹿にしてはいけません)

 中川いさみ先生の『クマのプー太郎』との出会いは、本当に衝撃でした。

 関西人の私にとって、笑いの中心はあくまで上方であり、笑・を中心とした関東の笑いなど、『腹の底から笑ったことがない』と、はなから小馬鹿にしておりましたので、中川先生も当然、関西人だと決め付けておりましたが、氏が横浜の出身であると知ったとき、 

(これが、関東の底力かぁ・・・)

 と、笑いに対する考え方を根底から覆され、関西人にはほとんど縁のなかった、『さりげなくシュールな笑い』の大切さを学びました。

 悪貨は良貨を駆逐しますが、悪書は良書を駆逐しません。というよりできません、永遠に。

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