第7話 酒は自重しているのだ
周りが大急ぎで設営を進めている間、嬰は暗闇の中手探りで衣服を着替えていた。
簡広と同じ帽子と革靴、白化粧に、桃色よりも色が濃く赤黒い着物に身を包み、首には様々な動物の骨片を紐づけた首飾りを提げる。
骨片は雑に四角く成形されていて、危なっかしさに身に着けることを躊躇してしまう代物ではあるが、それが厄除けには効果的だと信じられているらしい。
嬰が着替え終わった頃、松明が灯されてその姿が明らかになると、簡広は思わず吹き出し、腹を抱えたまま言った。
「嬰殿。貴方は私の姿を面白がっておられましたが、貴方の姿も相当なものですよ」
「……まあ、仕方ないでしょう。あまり揶揄わないでくださいよ」
「幅が足りていない物を帯で縛り付けて、悪戯心で商人の真似をする子供みたいだ」
簡広の言葉にぽかんとした表情を浮かべた嬰は、数秒ほど動きを止めた後、まんざらでもなさそうににやける。
そのような気分を味わうのは、いつ以来だろうか。
簡広は小馬鹿にしているつもりなのだろうが、不思議と彼には不快感はなかった。
「悪戯する子供ですか。……悪くはないかもしれません」
「おや、予想外の反応です」
「え、あ、いえ秀弓殿。そんなことよりも、王女に次の指示を仰ぎに参りましょう」
「ふふ、単氏が現れれば嫌でも騒がしくなりましょう。急がなくても構いませんよ」
「そういうわけにはいきません。さあ行きましょう」
「嬰殿はせっかちですなあ。ははは」
二人のいる野営地の南側には、街道からはっきりと視認できるように、翠の旗と松明が近づけて設置されている。
わざとらしいにも程があるとはいえ、通過されるよりましということだろうか。
街道側から見て一番奥の、森に近い所に設けられている天幕まで歩いて行くと、入り口の前で黄婁と郭謀がなにやら話し込んでいる様子だった。
二人は嬰と簡広の存在に気付いて振り向くと、彼らのおかしな姿に呆然としたが、やがて互いに顔を見合わせてくすくすと笑い出す。
「おいおい、二人してよく似合っておるではないか。伯瑞の人選は間違っていなかったらしいな」
郭謀がそう言って二人を指差せば、黄婁もこれに賛同して手を叩く。
「なるほど傑作だ。こんな青臭いにわか商人なら単氏も油断すること請け合いだな」
「いやはやお二方とも手厳しい」
簡広が頭に手を当て笑い、黄婁が恐ろしい形相で睨み付けているように見える。
嬰は恐怖で顔を歪めたが、簡広や郭謀にはさして珍しい事ではないらしく、彼らは顔色一つ変えずに黄婁に視線を移した。
「何を言うか秀弓、褒めてやってるんだぞ。なあ、伯権?」
「仲明様の仰る通りだ。秀弓も嬰殿も我らよりよっぽど上手に変装できている」
腕組した郭謀は黄婁の声を聴いて頷くと、嬰と顔を見合わせ微笑む。
彼に続いて簡広が嬰に顔を向け言った。
「ははあ、まあ、褒め言葉として受け取っておきましょうか。ね、嬰殿?」
「え、ええ。ありがたきお言葉にございます」
空笑いした嬰が無意識に頭を下げると、偶然天幕の中から皎祥が現れ、これを目撃して失笑した。
直ぐに彼に身体を向けて直立する他の三人に、彼は悪戯っぽく尋ねる。
「また嬰殿を虐めていたのか? 全くどうしようもない輩ばかりだな」
郭謀は笑顔を崩さず、皎祥が喋り終えると間もなく反論した。
「王女とて、嬰殿を侮り失礼なことを仰っていたではありませんか。仲明様や子欣様、秀弓は聞き流しても、臣は確りと憶えておりますぞ」
「ん、いやあ、あれはつい言い過ぎた。反省しているから、赦してはくれぬか」
痛い所を突かれたと困惑した表情の皎祥は、嬰の顔を覗き込む。
「私は全く気にしていませんので、王女もお気になさらず」
「そうか。よし、これで私に負い目はなくなったぞ伯権よ!」
「どうやらそのようで」
両手を腰に当てて仁王立ちする皎祥に、郭謀は恭しく腰をかがめて拱手する。
すると周囲で笑いが起こり、釣られた嬰もにやけ顔になって鼻から笑いが漏れ出した。
一同は一通り笑った後、最奥の天幕ではなく隣の天幕へと移動する。
中へ入ってみれば、草っぱらが剥き出しの地面に少し大きめの酒甕が置かれており、傍には崔賀と三人の恒人がいた。
彼らは皎祥の姿に気づくと、すぐに身体を向けて拱手する。
彼らを代表して崔賀が皎祥の元へと近寄ると、皎祥は彼に向かって尋ねた。
「どうだ、良い酒はできそうか?」
「それはもう。王女も味見為されてはいかがでしょうか」
「遠慮しておこう。私は下戸なのでな」
「これは異なことを。我らは皆同じ酒杯を仰いだではございませんか。王女が酒を飲めぬとは、聞いたことがありません」
「たった今から下戸となったのだ。ははは」
「では仕方ありません。まあとにかく、ご覧くださいな」
「ああ」
皎祥が崔賀に連れられて酒甕を覗き込もうとした時、にわかに外が騒がしくなり、一同は天幕の外へ飛び出した。
一同が何事かと外へ飛び出すと、無精髭の恒人が一人足音を立てず近づいてくる。
彼は嬰が此処に来て初めて出会った恒人、警戒心を剥き出しに名を尋ねてきた男であり、姓を
恒人らは皆あだ名を持っていて、身元を隠すため他人のいるところでは本名として使っているようだ。
邱理は仏頂面をぴくりともさせず、軽く拱手した後淡々と喋り始めた。
「単氏の使いの物が現れ、部隊の長に会いたいと申しておりますが、如何致しましょうか?」
「さて、まあ危険はないと思いたいが、万が一という事もありえるからな。どうしたものだろうか」
「やはり誰かに代わりをさせましょうか」
「そうだな、黄婁に代わりをしてもらって私も側に立ち会おう。もし不審な動きをしていたらその時は捕えてしまって、あちらには酒宴に付き合わされているとでも連絡しておけばよい。どうせ夜を明かすまでの付き合いだ」
夜を明かすまで……。
嬰には恐ろし気な言葉に思えて仕方がなく、つい口を挟んで皎祥に問いかけた。
「……あの、よろしいでしょうか?」
「ん、なんだ嬰殿?」
「狙うのは単氏一人、それで間違ありませんよね?」
「……ああ、余計な心配は無用だ」
「左様でございますか」
嬰がそれ以上の詮索を止めて引き下がる。
「よし、翠兵の鎧がいくつかあったな。私と仲明、子欣の三人分持ってきてくれ。似石、使いの者には暫く待ってもらえるよう伝えてくれるか」
「承知致しました」
「それから、急がせてすまないが商人組は支度を頼んだぞ」
皎祥は最奥の天幕へと向かい、黄婁と崔賀がこれに従った。
嬰に簡広、それに三人の恒人と一人残されて暇そうに伸びをしていた郭謀は、何故か郭謀が先頭になって、再び酒甕の置かれた天幕の中へと入っていく。
酒甕を目にした郭謀は真っ先に近づき、木蓋を軽々と放り投げて中を覗き込む。
簡広とはその様子を後ろから眺めてにやけている。
振り返った郭謀の口からは涎が垂れていた。
「秀弓、これはまだ飲んでも大丈夫なのか?」
「宰相殿、涎を拭いてください。折角の酒が不味くなります。ははは」
簡広が郭謀を揶揄うと、三人の恒人の内で右側に立つ男が続いた。
しわの目立つ白髪の彼は、もじゃもじゃの髭で隠れて見えない口からかすれた声で話しかける。
「宰相殿、少しくらいなら構いませんが、あまり酒らしい酒ではありませんぞ」
「そうは言ってもな、ここしばらく一滴も口にしていない。
「俺だってそれはもう苦しくて毛が真っ白になっちまいました。けれど仕損じれば命に関わるのですから、嫌でも我慢せざるを得ませんわな」
「全くだ。酒で失敗して命を落とすのは御免被る。はっはっは」
身体を仰け反らせて大笑いする二人に呆れたように、酒沼の隣の優男は溜め息をつき、口をとがらせて呟いた。
「全くだは私の台詞ですよ。酒のなにがよいのやら、酔っ払いの世話をさせられるこちらの身にもなって頂きたい」
すると左端の恒人は耳聡くこれを拾って、男の細い背中を平手で軽く叩き小声で慰める。
「まあそう不貞腐れるな
「
「はは、まあとりあえず今は支度があるからな。このままでは王子に叱られる」
寛海はそう言うと、そろそろ本題に入りましょう、とにこやかに言った。
彼の一言で天幕の中から笑いは消え、ようやく皆が真面目な顔をして酒甕を囲む。
稀安はそれを確認して咳払いすると、甕の縁に手を置いて話し始めた。
稀安は外に漏れることを警戒しているのかしきりに話を止め耳をそばだてて、断続的にこの後の段取りを説明する。
彼は酒甕の縁を人差し指で連打しながら、落ち着きない様子で喋り続けていたが、大仕事を終えたかの如く息を吐くとぱったりと口を閉ざした。
嬰は自らの事を棚に上げその頼りなさにおかしくなったが、生温く重い空気が頭を抑え込み笑うことを許さず、行き場を失った声は喉の奥へ引っ込んで足を震わせる。
しかし彼を苦しめる静寂は、余人にとってもそうであるわけではないらしい。
天幕の中の大勢は程よい緊張感に快感さえ覚え、懐かしむように噛み締めていた。
「さあ待たせたな。お前たちの出番だ」
沈黙を破ったのは六人の誰でもなく、彼らを誘う人陰である。
地響きのような声で蝋燭の灯は掻き消され、振り返った嬰の眼前には真黒な大熊が二本足でどっしりと立ち上がっていた。
人語を解する彼は天幕の外へ出ろと皆を急かし、一人で運んできたらしい荷車に大きな手の平を叩きつける。
「あれを担いで運ぶのは大変だろうからな。荷車をもってきてやったぞ」
「ありがとうございます。黄将軍」
「そう思うなら今から確りと仕事をしてくれよ、秀弓」
「もちろんですよ。ねえ皆さん?」
酒沼と稀安、そして寛海が相槌を打つと遅れて嬰も頷く。
黄婁と郭謀が手伝って荷車に酒甕を載せた後、縄で申し訳程度に固定し、五人は中の酒を溢さないよう慎重に動き始める。
主人役の嬰が先頭を歩き、簡広、酒沼、稀安、寛海の四人が動かす荷車は嬰を追い立て退路を塞ぐように後ろについて回りながら、単氏の居るであろう彼方の明るみへと向かった。
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