第5話 穏やかな朝

 気が付けば、蝉のじりじりじりと鳴く声が体中に響き渡っていた。

 全身に纏わりついた汗が震えてこそばゆく、鬱陶しさのあまり思わず飛び起きると、寝ぼけ眼を手でこすり、びっしょりと濡れた布きれの袖で額の汗を拭きとる。

 寝違えたらしく、頭を上げると首筋に痛みを感じて眠気が吹き飛んだ。


 荷物の入った大きな袋に囲まれ藁の敷き詰められた寝床は、お世辞にも快適とは言えないが、野盗や獣に襲われる心配が要らないだけでも十分である。

 そうは思いながらも起きていると窮屈なので、嬰は小さな木桶を一つ拝借し、さっさと天幕の外へ脱出した。

 荷物置き場として使われていた所を借りたため、野営地の端っこで人影はない。


 心地よい風がすっと吹き抜けて嬰の熱を奪っていく。

 なんとなく髪を触ってみると、寝癖と汗で幾つかの山が出来ていた。

 身体の関節がどこもかしこも痛むのを堪えて、水浴びのために河へ向かって歩き出したところ、背後から足音と共に誰かが近づいてくる。


「嬰殿! お待ちください」


 振り返れば、簡広が衣服を片手にぶら下げて走っている。

 嬰は迫りくる彼に一礼して答えた。


「秀弓さん、おはようございます。おかげさまで、久しぶりに安眠できました」

「どうもそのようで。言葉にせずとも、この変てこな頭が教えてくれますよ」

 

 簡広に指差されて漸く恥ずかしくなった嬰は、耳を真っ赤に染めてわしゃわしゃと髪を掻きまわしたが、山を崩すことはできなかった。

 嬰は複雑に絡んだ髪の前に両手をもってきて覆うと、照れ隠しに笑う。

 簡広は大げさに視線を落として、手に抱えた平服を差し出した。


「生憎新品はありませんが、これでよければ使ってください。流石にぼろぼろのそれよりはましでしょう」

「お気遣い痛み入ります。ちょうど水浴びに行こうと思っていたところですので、着用させていただきます」

「それから、あっちで粥が食べられるので嬰殿もぜひ。では」


 簡広はにこりと笑うと来た道を引き返し、嬰は受け取った服を手に彼の後ろ姿に会釈した後、正反対の方向へと歩き始める。

 我が物顔で大騒ぎする声など気にも留めず、木と木の間を一つ二つと通り抜けて進んで行くと、微かに雑音が混じって聞こえ、それは徐々に大きくなってくる。


 昨日ぶりの河は豊河を見た後は小さく思えたが、一晩経ってみると思っていたよりも大きく、深く、流れも速そうだ。

 ぴちぴちと跳ねる魚の群れを、野鳥が捕食しようとしていた。

 魚に同情することでもないのだが、嬰は妙な衝動に駆られて拾った小石を鳥に向かって投げる。 


 まさか当てられるわけもなく、幾つか投げた石は全て河底へと沈む。

 それでも時間稼ぎにはなったようで、いつの間にか魚群は姿を消し、鳥は嬰を睨んで蝉よりも甲高い声を上げると、太陽めがけて飛び去って行った。


 嬰はもらった衣服と脱いだぼろきれを近くの木の下に置くと、桶に水を汲んで頭からかぶり、頭皮についた髪を手で丁寧にほぐす。

 更に二度ほど桶に水を汲んでかぶった後、ぼろきれで軽く体を拭き、陽の光を浴びながらふらふらと日向を行ったり来たりした。


 嬰は身体を乾かし終えると服を着て、ぼろきれを放ったまま帰路につく。 

 脱ぎ忘れて水を吸った草履は履き心地が悪く、歩く度に溢れる水が不快だったが、彼の食欲は留まることを許さず道を急がせる。

 汗を水で流してさっぱりした途端に、腹の減り具合を気にするなんて、と自分の調子のよさに呆れた一方で、生きることへの執着心の強さに安心した。

 

 嬰が帰ると、郭謀が天幕の前で逆さの甕に腰を下ろし、暇そうに欠伸をしていた。

 いくら腹が空いているとはいえ無視するわけにもいかず、近寄って挨拶する。


「おはようございます。お待たせしてしまったようですが、何かご用ですか?」

「特に用はないのだが、昨晩の伯瑞の無礼を詫びにな」


 嬰は神妙な顔で頭を下げる郭謀に慌てつつも、腕を組みとぼけて問いかける。

 郭謀は頭を上げ、嬰と目を合せてそれに答えた。


「……。感謝する恩こそあれど、王女が私に無礼などございましたか」

「しばしば貴殿を侮る発言をしたことよ。あれは何も貴殿を忌み嫌っているわけではない、ということだけ伝えたくてね」

「お気遣いは有り難く存じますが、どうかお気になさらず。私もあれが本心とは考えておりません」


 郭謀は返答に満足したように相好を崩し、勢いよく立ち上がると嬰の手を取る。


「それならよいのだが。立場上素直になれず鬱積するものがあるのだろう、と見逃してやってくれると嬉しく思う。彼の臣下として……友として」


 郭謀が去った後、残された甕を抱き上げて寝床の中へと移動させると、嬰は小走りで天幕の群れの中へと入っていった。


 食物を求めてきょろきょろしていると、時折視線を感じる。

 挙動不審だからなのか、見慣れない顔の人物が闊歩しているからなのか。

 勝手がわからずふらついていた嬰は、十人ほどが大鍋を囲んでいるのを発見する。

 鉄鍋は木の机の中央で下敷きの上に鎮座して、重々しく黒く輝いていた。

 絶えず立ち上る湯気が熱々の粥を想像させて、思わず嬰の頬が緩む。


 嬰は走り寄ろうと地面を蹴ったが、何を思ったかそのまま立ち止まる。

 粥をついでもらう容器や、掬って食べるための匙を持ってきていない。

 所持品を雑多にまとめてある巾着袋を、天幕に忘れてきてしまったのだ。

 戻るのもおっくうではあるが、まさか鍋に顔を突っ込むわけにもいかないので、踵を返して一旦戻ろうとした。


「待たれよ青年、いや、嬰殿。ここで帰って行かれては格好がつかんではないか」


 嬰が振り返ると、風になびく髭が声の主らしい。

 顔を見上げずとも、髭を撫でる姿とその細い柱のような体型で一目瞭然である。


「これは御髭様、おはようございます」


 冷静に深々とお辞儀する嬰に、おかしくなった崔賀は吹き出した。


「ははは、なんだ御髭様とは。そう呼ばれたのは初めてだが、気に入った」

「では、その、なんとお呼びすれば」


 いきなり馴れ馴れしく接するのも憚られて、なんとか思いついた呼び方だったのだが、崔賀の受けは良かったらしく、真っ黒な髭の中に浮かぶ白い歯がきらりと光る。

 

「ううむ、御髭様で良いし、子欣と呼んでくれても構わんよ。何故食事もとらずに戻ろうとした? 格好良く姿を現そうとしたのに台無しじゃないか」

「食器を忘れてきたのでとりに戻ろうと」

「そんなことか。よし、私が持ってるやつを一つかしてやろう」

「よろしいのですか」

「使ってない物だから気にするな。少し待っていてくれるか」

「はい」


 足早に消えて行った崔賀は、二分程すると戻ってきた。

 受け取った椀と匙はごく普通の物で嬰は少し残念に思ったが、埃を被っていたような跡が全くないところから察するに、丁寧に保存されていたのだろう。


 嬰は有り難く頂戴した食器を手に鍋の元へ寄ると、お玉杓子を拝借して粥を椀いっぱいに注ぎ、側の長椅子に腰かけた。

 椀を口元に持ってきて傾け殺風景な白粥を匙でかきこむ。

 仄かに感じる塩気が食欲を増進させ、猫舌がひりつくのを我慢しながら、あっという間に完食してしまった。


 人から借りた物をこのまま返すわけにはいかないので、一息ついた彼は食器を洗いに行こうと立ち上がる。

 

「なんだ、もういいのかね? 遠慮はいらないよ」

「ひっ!」

 

 嬰は不意に声をかけられて食器を落とす。

 汚れた食器を拾い上げて土を払いながら背後を振り返ると、困惑した表情を浮かべる崔賀の姿があった。

 どうやら後ろにつきっきりだったらしい。

 素っ頓狂な声を耳にして、周りにいる恒人達の視線が嬰一人に向けられる。


「申し訳ありません。後ろにいると気が付きませんでした」

「人を無視して食事とは、存外に肝が据わっているじゃないか。そう思わないか?」


 崔賀が周囲の男達に尋ねると、まったくだ、と彼らは腹を抱えて笑う。


「あの、汚れた器は必ず洗ってお返し致しますのでご容赦を」

「気にするな。それより私に少し付き合ってもらえるかな?」

「も、もちろんです」


 嬰の返答を聞かずして崔賀は歩き始め、嬰は慌ててそれを追いかける。

 恒人達は彼の間抜けな後ろ姿を笑いながら見送った。


 嬰は崔賀に従って野営地を出ると、河の方へ向かって歩いていた。

 崔賀は前進する足を止めることなく、木の蔓を手で押しのけながら、後方の嬰に声をかける。


「嬰殿、しっかりとついてこられているかな」

「なんとか」

「それにしても、先程の貴方は人気者であったな。ははは」

「恥ずかしい限りです」

「はて、その割には堂々と粥を注いで食らっておられたが」

「……」

「責めているわけじゃないから無言はやめてくれるかな。貴方も彼らが笑っているのを見ただろう。嬰殿のことは把握している」

「安心しました」

「素性もわからん男がほっつき歩いていたら、今頃首と胴が離れておるわ。ましてのうのうと粥を啜れると思うかね?」

「全くおっしゃる通りです」


 河までやってくると、崔賀は目で嬰に合図する。

 嬰は彼が何を促しているのかわからなかったが、少し考えると食器を洗えということだと理解し、しっかり手で掴んだ椀と匙を水に浸して洗い始める。

 椀の内側を匙で擦ると乾いて固くなった米粒が剥がれ、水中を漂い流れていった。


 嬰は汚れのとれた食器を河から引き上げ、付着した水滴を振り落とす。

 まだ乾燥するまでは時間がかかりそうだが、長々と崔賀を待たせるのは申し訳ないので、もうだいじょうぶです、と河に背を向け木の上を眺めている崔賀に伝えた。

 すると崔賀は河沿いを上流に向かって歩き出し、少し行った所で足を止め、嬰の方を向いてにこやかに問いかける。

 

「嬰殿はこの河を遡るとどこへ行くと思われるか?」


 確信はないが、旺都の西側に豊河と繋がると言われる河があったのを思い出した。

 それだけを根拠に、嬰は半ばあてずっぽうで答えた。


「旧旺都……ですか?」


 崔賀は髭弄りを続けたまま、上流に向かって視線を滑らせる。

 遡る河はわずかに左曲がりで、視界の奥の大岩にぶつかると、左折して消えてしまった。


「そうだ。しかし旧旺都へと至る前に、東西の街道が合流する場所があるのを知っておるか?」

翠泊すいはくの町ですね」

「ああ、その通りだ」


 翠泊の町は翠が豊陽を攻略する際に本陣を置いた場所で、ここから伸びる大街道を北進していくと、最後には翠が旗揚げした半明はんめいの南城門に到達する。

 商人が大陸各地へ行くときは、大街道から枝分かれする街道を通ることが多く、

 南方から渡ってきた商人はまず初めに翠泊へと向かう。


「まさか、翠泊を襲撃すると仰るのですか?」

「馬鹿を言っちゃあいけない。翠泊へ押しかけても市街へ入ることすらできまいよ」

「では、どうやってその商人を倒すのですか」

「まず、その商人を単氏たんしと言うから覚えておいてくれ。豊港ほうこうから翠泊を目指す時に、商人の通る主な街道は二つある」


 豊港とは旧中立地域の中心で、豊河南北両岸に渡し場のある町の呼称。

 危険を冒しても利用を避けたい事情があるとか、自前で渡河する手段を持つ商人でなければ、南北の往来は基本的にここを経由する。

 

「一方は豊陽を通る道ですよね」

「ああ、一つは翠の都豊陽へと寄ってから、翠泊へ向かう西側の街道だ」

「もう一つは東側ですか」

「そういうことになる。東の街道はこの森のせいで回り道することになるから、翠泊までの距離は増えるがね」


 翠の技術と兵士を動員すれば、森を切り開くこともそう難しくないはずだが、何故森を迂回して遠回りになるような街道を整備したのだろうか。

 嬰は疑問に思い、崔賀に尋ねた。

 

「しかし、何故森を開拓しなかったのでしょうか。その方が便利でしょう」

「翠としては豊陽を経由する西側を通行させたいのだろうね。だから東側は街道があるにはあるが、泊まれる所も整備されていない」

「単氏はどちらを通るのでしょうか。西街道へ行かれると厄介ではないですか?」

「商人という奴らは、翠の意向を理解でないほど馬鹿ではないからね。大多数は大人しく西側を行く。しかし単氏というのはけちな男で、絶対に東を迂回する」

「けち、ですか?」

「西側は豊陽の近くだけあって、関所もあるし翠兵が多い。彼らに賄賂をくれてやるのが、暗黙の了解となっておるのだよ」


 兵士が治安を守るのは当然のことで、賂を要求するなんて卑怯ではないか。

 嬰はなんとも理不尽な気がして呟く。


「ううん、けちというには商人も不憫ではありますね」


 崔賀は深くため息をつくと、揶揄うように嬰の同情を一笑し、笑いを収め風にそよぐ対岸の木々を見つめながら答えた。


「そんな優しい考えでは二の足を踏んでしまうぞ。それに認めたくはないが、天下は水禽氏すいきんしを神と仰ぎ、戦乱の世は終わったのだ。戦場で活躍して立身出世を望める時代ではなくなり、僅かな役得でもなければ兵士なんぞやってられようか。ただでさえ、翠は不要な兵員を削減し始めている。へそくりを貯めておかないと、彼らも将来が不安なのだろうよ」

「そのようなものですか」


 水禽氏は翠の信仰する神のこと。


 善政が聞いて呆れると言いたいが、名も残らない下っ端の兵士からすれば、清廉潔白で称えられるわけでもなく、美味い汁を吸わない手はないということだろうか。

 それでも安全はある程度保障されるのだから、商人も必要経費として妥協できるものなのかもしれない。

 けちったばかりに命を狙われるかもしれない単氏のことを思うと、ある程度は仕方のないことなのだろう。


 嬰は都合良く考えを巡らせ自らに渋々納得させると、崔賀に微笑みかける。

 そして、引き攣った笑顔を奇妙がる彼に向かって言った。


「単氏が安全代を渋るけちであることを、私も祈っています」

「私も願っているよ。翠泊で返り討ちにされ、単氏に嘲笑されるのはごめんだ」

「もっともなことです」

 

 妙な会話で力の抜けた二人は、互いに見合ってからからと笑った。


 それから三日、特になにか起こるでもなく、嬰は恒人の集団の中で過ごした。

 気風の良い男達は嬰を笑顔で迎え、互いの見聞きしたことを語り合ったり、武術の心得を教わったりと、束の間の平穏を楽しんだ。

 その様子は敗者と言うにはあまりにも溌剌で、やはり彼らは翠の兵士なのではないかという疑念さえ抱かせた。

 しかし、和気あいあいとした時間はあっという間に過ぎる。

 

 四日目の朝、森の外で諜報をしていた恒人が帰還して、皎祥らに告げる。


「遂に単氏が街道に現れました!」




 

 


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