第4話 恒人がここにいる訳
「さて、まあそれはそれとして。嬰殿はここがどのような場所かご存じか?」
「……森の中でしょうか」
「まあ、我々が泊まっているのは森の中だが。この辺り一帯は翠の統一以前、どの国にも属していない中立地帯であった」
「奇公が話しているのを耳にしたことがあります」
豊河中流域は一年を通して流れが比較的穏やかで、北側と南側による交易の中心地となっている。
統一前には利権の独占を防ぐため、大陸中の殆どの国が不可侵かつ中立地域と認める協定を結んで、国毎に
一国が域内に滞在させられる兵数は三千までとして、治安維持等の業務に用いられることとなり、運営費は基本的に関税で賄われていた。
翠が力をつけて領土を拡大するにつれて、付権商人が減少し一部の商人による支配が進んだが、豊河以北を併呑した翠によって北側が占領されると、豊河以南の国々は翠の南下を阻むために南側を防衛拠点として要塞化し、中立地域は消滅する。
「その頃、旺国の付権商人であった
「あの、よろしいですか?」
照にいた嬰が旺の大商家であった馬氏を知らないはずが無く、皎祥の馬氏という単語に反応して直ぐに頷いたのだが、彼はよくよく咀嚼すると首をかしげて彼女の言葉を遮った。
馬氏が話題に出てくる理由を理解しかねたためだろう。
彼女は直ぐに話すのをやめて、彼の質問に傾聴する。
「存じてはおりますが、馬氏は旺公が翠に降った後勢いを失い、当主は翠国に恨み言を呟いたために二心有りとして処刑されたとか。家も潰えたと聞きましたが、何か王女と関わりがあるのでしょうか」
嬰の発言を待っていたかのように、皎祥は食い気味に言う。
「実際には翠の商人共が共謀して酷武帝を唆したとかいうが、とにかく貴殿の言う通り馬氏の当主は処刑された。旺公の必死の助命嘆願によって親族の命は守られたが、長子は旺公の元を訪ねた帰りに事故で命を落としたらしい」
「事故……ですか」
「そうだ。翠が天下を統一すると馬氏は再び商いを許された。今はその次子が当主をしている」
「初耳です」
照や旺の地を離れて東に移住したとはいえ、馬氏ほどの大家が再建されたとなれば、一度や二度噂くらい聞こえてきても良さそうではあるが、それほどに小さくなってしまったのだろうか。
嬰が嘆息すると察した皎祥が答える。
「昔の規模の十分の一にも満たず、お世辞にも大きいとは言えない。細々と商いを続ける今の馬氏には、かつてのそれほど話題性がないのであろう」
「そのようなものでしょうか」
「馬氏が表に出るのを控えているから。これも一つの理由かもしれぬ」
皎祥はそう言うと人差し指を立て、にやりと笑った。
要領を得ない嬰は彼女の様子を訝しみ、頭を掻くと彼女の背後に立つ四人に視線を移す。
概ね手持無沙汰で暇そうにしている所を見ると、既に彼らの知っている話ということなのだろうが、簡広だけは皎祥を凝視して瞬き一つ見せない。
これでは忠臣というより忠犬だ、とおかしくなった嬰が失笑すると、笑い声を聞いた簡広は彼の方を向き、笑いが自分に向けられたものと悟ってむっとした。
嬰はすぐに口を閉じて目を逸らすと皎祥に目配せする。
彼女は苦笑しながら話を再開した。
「というのも、今の馬氏は翠に対して良い感情を持っていない。そして、我々のような者と密かに通じているのだ。商いはその隠れ蓑のようなものだな」
嬰は驚きのあまり言葉を失う。
もし事実が露見すれば、今度こそ家が潰れるどころか、親類縁者全てが連座させられて処刑間違い無しだ。
それだけの危険を冒してまで、ただの商人に過ぎない馬氏が協力しているというのだから、嬰の驚きは尋常ではなかった。
「……なるほど。しかし、そのような経緯があった馬氏が何故、簡単に赦されて家を再興できたのでしょうか」
「旺公の口添えもあっただろうし、酷武帝もやり過ぎたと反省していたのかもな。要らぬ情をかけたものよ。はっはっは」
冗談めかして言った皎祥が大笑いすると、背後の四人も同調して笑った。
嬰は顔を引き攣ったまま、乾いた笑いで場の雰囲気に合わせる。
馬氏の事を考えていた嬰はふと思う。
……ただの商人がなどと考えたが、ただの商人ですらない自分はどうして悪事に加担しようとしているのだろうか、と。
馬氏に比べれば、今更失うものなど皆無の身軽さはある。
翠を、皇帝を何故憎むのか。
実際のところ、嬰の嫌悪感は翠という国よりも皇帝一人に対するものだ。
その恨みは直接彼によって植え付けられたものではなかった。
一度目は、彼の出世によって恩恵を得られる程度には、彼の近くにいたと思われる人間達によって。
二度目は、人伝に耳にした奇公が彼によって惨殺されたという話によって。
いずれも皇帝に遺恨を抱く正当な理由であるのかどうか確信はない。
もしかすると全くの逆恨みなのかもしれない。
それでも怒りのやり場がない嬰には彼を憎悪するよりなかった。
日々の負の感情がそれを益々増幅させる。
翠という国は嬰の思い描いていた悪の帝国像とはかけ離れていた。
生きている内にいやという程痛感させられたこの事実は、彼の中に少なからず翠という国家への好意的な感情を生じさせる。
同時に皇帝の為人を知り、何故この人物が自分を不幸に陥れて助けてくれなかったのか、と思うと余計に彼個人への不満を募らせた。
「……嬰殿、どうなさった?」
ぼんやりしていた嬰は、屈んで自分の顔を覗き込む皎祥に気付き赤面する。
彼の様子を見た簡広は、先ほどの仕返しと言わんばかりにくすくすと笑い、隣の崔賀に肘で小突かれると漸く静まった。
「いえ、なんでもありません。続けてください」
「では続けるが、少し前にその馬氏から連絡があったのだ。近いうちに旺公の元へと向かう商人の一団が、この辺りを通るかもしれない、と」
それがどうしたのかとは尋ねずとも次に告げられるのだろう。
嬰は唾を飲み込み、皎祥の言葉を聞き逃すまいと耳を澄ます。
「私達はこれを襲撃するために、ここへやって来たのだ」
少々の盗み程度なら経験のある嬰だったが、流石に人に危害を加えたことはないので、二つ返事で受け入れることを躊躇した。
皇帝を討とうという男があまりにも情けないとは思うが、経験のないことに対して臆病なのは仕方がないと自らに言い聞かせる。
「……商人を襲うのですか」
「怖気づいたか? 商人さえ襲えないで皇帝の命を奪えるとでも」
相変わらず嬰の怯懦を侮蔑し、煽りたてるような口調で皎祥は返した。
彼女の意図はわからないでもないが、煽られて腹が立つのは人の常である。
嬰は吐き出しそうな怒りを歯軋りしてすり潰し、笑顔の化粧で誤魔化した。
「いえ、しかし……人を傷つけたことはありませんので」
「その腰の刀は飾りか」
「護身用です。精々畜生を捌いたことくらいしか」
「ならば躊躇する必要はあるまいて。人も畜生もただの肉塊よ。それに、その畜生は盗んだものではないか?」
「……はい。飢えのあまり、民家で飼われていたものを」
「ならば割り切ればよいではないか。大も小も罪は罪、ここにいる者は罪人ばかりだ。人っ子一人殺したことのない者がここにいるか?」
両腕を広げた皎祥が四人を見回すと、彼らは間髪入れずに首を横に振った。
その迷い一つ感じられない爽やかな笑顔に、嬰は肝を冷やす。
彼らは狂人かと恐れたが、元々命のやり取りを日課としていた彼らからすれば、嬰こそが異常だと思われているのかもしれない。
絶句する嬰を前にして、笑顔のまま溜め息を吐く皎祥の心中は如何なるものだったのか。
それを推察する間もなく彼女は口を開く。
「心配せずともよい。変に抵抗しなければ、我らとて無暗に相手を傷つけるつもりはないさ。それに、君にはまだ戦うことは求めぬ」
「では私は何をすればよろしいのでしょうか?」
「そうだな、商人にでもなりきってもらおうか。そのいかにも腰抜けそうな雰囲気であれば、彼らも油断するはずだ」
皎祥の言葉は逐一癇に障るものではあるが、一先ず血生臭い役割からは外されたらしく、ほっとした嬰は飾りでない天然の微笑みを浮かべた。
しかし、翠に隠れて動いている彼らが、危険を承知の上で態々商人を襲うとはどういうことなのだろうか。
不審に思った嬰は皎祥に説明を求める。
「もし商人を襲えば、王子の存在が翠の知るところとなるかもしれません。それでも事を起こさねばならない理由があるのでしょうか?」
「単純に金目の物が欲しいというのもあるが、これは馬氏の依頼でもあるのだ。彼の願いとあれば、我らも無下にはできん」
馬氏の機嫌を損ねるわけにはいかないということか。
「馬氏の商売敵ですか」
「前の馬氏の商売敵……というよりも、文字通り仇と言って差し支えあるまい」
「ああ、先ほどの話に出てきた商人の一人ですか」
「謀を巡らした張本人ではあるが、帝室に近い大商人に媚び諂っていた小物よ。酔ってつい約束してしまったのだ、極上の塩漬けを届けてやると」
きまりが悪い皎祥は頬を掻いて小さく笑う。
嬰はよくもまあ物騒な言葉ばかりが出てくるものだと呆れたが、曰く付きの相手だと知って幾分か気分が和らいだ。
気が緩んだ嬰は強烈な眠気に襲われつい欠伸をする。
早朝に歩き始めてから、一日中動かし続けた身体はくたくただった上、次々と入ってくる情報を頭の中で整理するだけでも一苦労で、ふらついた足を正すこともままならなくなってしまった。
「あの、どこかで睡眠をとらせて頂いてもよろしいですか」
「ん、ああ、場所は確保してあるから、秀弓に案内してもらってくれ。急なことだったので少々狭いかもしれんが、暫くは我慢してくれるか」
「寝床があるだけでも有り難い事です」
「では嬰殿、私についてきてください」
「お願いします」
嬰は軽く頭を下げるとよろけた足を前に進め、簡広を追って天幕を後にした。
前を歩く簡広は確かに足が速く、少し行くとすぐ間が空いてしまうので、彼は足を止めて振り返り嬰を待つ、ということを繰り返す。
本心では面倒臭がっているのかもしれないが、顔色には出さず穏やかな表情を一切崩さない。
嬰はぼやけた視界の中で、彼の隣に誰かが立っているように錯覚した。
実際には天幕に映る影であったが、嬰には何か別のものに思われて、振り向いた簡広に尋ねる。
「えーと……」
「あ、秀弓と呼んでください。気に入ってるんです」
「秀弓、さん? ……殿、あなたには妻子がおられるのですか?」
「恒の地に年老いた母と、妻に子供が二人。もうずっと会っていないので、いるというよりはいたと言った方が正しいのかもしれませんが」
簡広の照れ笑いが嬰には眩しく、遠くに想う故郷も人も既にいなくなった身には羨ましくて仕方がない。
しかし、彼自身はいないからこそ割り切れたものを、この人は寂しさにどう耐えているのだろうか、と疑問に思ったりもした。
耐えられるだけの芯の強さを持った人だからこそ、皎祥に付き従って今に至っているのかもしれない。
恒人といっても貴族の出では無く、翠に降っても何ら問題などない立場の彼がどうしてこんな生き方を選んだのだろうか。
素直に翠人となっていれば、今頃母や妻子と幸せに暮らしていただろうに。
「秀弓殿は帰りたいとは思いませんか」
「思わないわけではないが、父は恒王の恩に報いるために戦って死にました。私も同じように生を全うしたいと思うのです」
「登用された恩義ですか」
「それもありますが、恒王は父が幼少の折、道端で飢えていたのを助けてくださいました。王女は母の病を治すために、薬も医者も手配してくださいました。恒の民は多くの情けをかけていただいたのです」
「なるほど。ですが……」
「実際のところ、王女に付き従うことは母には反対されたのですが……はは」
「そう、ですか……」
追いついてきた嬰が口をつぐむと再び簡広は歩き始め、嬰はその後に従った。
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