第3話 恒人は嬰を迎える
恒……嬰はその国の名を知っている。
照が滅び照王と奇公が処刑された後、嬰は旺国内の地方都市へと移り住んでいた。
翠に対して挙兵してもらえるよう何度も役人達を訪ねたが、翠の威に怖気づいた彼らが重い腰を上げることはなかった。
後に旺が一戦も交えずあっさりと翠に降伏したことを考えれば、旺人が彼の要求を口外せず、何の危害も加えられなかっただけでも幸いである。
そこには彼らの照に対する同情があったのだろう。
旺と照は元々一つの国であり、過去に事情があって別れたといっても決して険悪な関係では無く、照国内へ翠が侵入した時には真っ先に翠を非難していた。
照を助けるために出兵する準備も行っていたというが、翠の進攻は予想以上に迅速でなす術無く照は滅亡してしまう。
すっかり戦意を失った旺王は翠に謝罪の意を示す使者を送り、一年後には翠の要求に屈して白旗を上げた。
武帝は旺王の帰順を喜び旧旺国領をそのまま彼の封土として与え、照国と対比して諸国へと触れ回った。
抗う者は一分の慈悲もなく徹底的に叩き潰すが、首を垂れ軍門に下る者は決して粗末に扱わない。旺公がその例である、と。
翠が服従を迫って周辺の小国群へと侵攻すると、国境を接する国の内いくつかは恭順の意を示したが、多くの国は反発して抵抗する。
すると翠は宣言通りこれを蹂躙し、君主や官職に就く者を尽く殺戮した。
翠軍の行く先は常に血の海となり、それらは真っ赤な足跡の川で繋がったという。
武帝の目に余る横暴に耐えかねて、照都陥落の際には無言を貫いた国々も遂に翠を非難する声をあげ始める。
この時諸国に結集を呼びかけ、盟主として翠に真っ向から挑んだのが西方の恒国であった。
諸国連合と翠は恒を中心とした戦線と、東方の
大国翠といえども二つの戦線を維持することは難しく、当初戦況は諸国連合が優勢であった。
日々激戦の天下を驚かせたのは、旺公が翠のために奮戦したことである。
彼は翠の圧力の前にやむなく降ったものであるから、すぐに反旗を翻すと諸王は考えていたのだが、寧ろよく前線を支えて戦場に姿を見せない日はなかったという。
ただ、戦況の急変はそれとは無関係に礫国内の政変が発端だった。
礫国内の派閥争いによって戦線を押し上げていた礫王が後退すると、待っていましたとばかりに翠は東側の戦線に戦力を集中させ、一気呵成に攻め寄せる。
西戦線が微かな翠国領を勝ち取り喜んでいる間に、東戦線は崩壊して参戦していた国は皆撤退を余儀無くされた。
東戦線敗北の知らせを受けた連合は意気消沈し、早々に豊河以南の国々が離脱を表明すると、西戦線の中にも兵を引き揚げたり、翠に対して帰服する国まで現れた。
攻勢から一転して瓦解した連合の中にあって、恒は諦めず奮闘し続ける。
殆ど恒と翠の一対一の戦争と化した西戦線は両軍一歩も譲らなかったが、糧秣を他国の提供に頼っていた恒は戦線を維持できずやがて敗走した。
翠は追撃の姿勢を見せたが、旺公の執り成しによって翠と恒は休戦協定を結び、参戦国に甚大な被害をもたらした戦役は幕を閉じる。
勝ち戦の翠が休戦に応じたのも、勝利の代償に払った犠牲の大きさにこれ以上の損失を被る継戦を渋ったためだろう。
態勢を立て直した両国は度々小競り合い繰り返したが、雌雄を決するのは翠国が恒を除く豊河以北の地を平らげた後のことであった。
嬰は目の前の人物が恒の王女であったと告げられて絶句していたが、これに構わず皎祥は話を継続する。
「知っての通り、恒は最期まで翠に立ち向かったが忠勇の士は殆ど力尽き、翠の前に膝を屈することとなった」
嬰は慰める言葉も思い浮かばず、ただ風の便りに聞いた噂の真相を尋ねる。
「……存じております。恒都陥落後、恒の王女は一部の臣下と共に行方をくらましたとも。武帝が血眼になって捜索しても捕えられなかったとか」
「ああ、翠軍の前に敗色濃厚となった私は先んじて仲明らと豊河を渡り、西南の
「陰姜氏……翠兵も恐れるというあの!?」
嬰は予期せぬ回答に驚き、机を叩いて立ち上がった。
陰姜氏は独自の言葉を持ち異邦人を拒むと有名で、翠が攻め込んだ際にもこれを撃退し怖れさせた精強な民族のことである。
「他国には隠したが、我が国と彼らとは友好関係にあった。宰相が私達を密かに逃がし、表向きには恒都に在るものとして振舞ってくれたのだ」
「それで探し出せなかったというわけですか。幾月かして死んでいるのが発見されたというのは、翠の流布した偽りの情報であったのでしょうか」
「そのような噂が流されたらしいな。私もこちらに戻ってきて初めて耳にした」
この噂によって、王子生存を信じて旧恒領の各地に散らばっていた将兵達は次々翠へと投降した。
皎祥は目を閉じて何かを思い浮かべるように腕組みする。
「私もすっかりそう考えており、皎という姓であっても王女であられたとは全く」
「構わぬ、既に過去のことだ。恒の地は翠の地となり、恒の民は翠の民となった」
「それが何故、今再び豊河を渡ってこられたのでしょうか?」
「……私は既に王ではないが、多くの者達が私の為に命をかけて戦ったのだ。どの面を提げて翠の皇帝に跪くことが出来ようか。恒は滅んだといえども、私の魂は恒と共にある。翠にせめて一矢報いてやりたいのだ」
皎祥の意志は固く、唇を噛み締め必死に涙を堪えながらその思いを吐露した。
まさしく、皇帝を討ち果たしたいという嬰の思惑と合致するのだが敢えてそれを言わず、彼は気持ちが高ぶって震える皎祥の目を覗き込み、冷静なふうを装って尋ねる。
「それは天下を再び騒がし、民を混乱に陥れるかもしれない我儘です。貴方には、天下の大悪と罵られ歴史に悪名を残すお覚悟がありますか」
嬰は皎祥に質問するつもりでそう言ったが、同時に自らにも問い直す。
自分にその覚悟があるのか、と。
立場も背負うものも異なる皎祥が、このことを理解しているのは当たり前のはずであるにも関わらず敢えて彼が口にしたのは、彼女の言葉に自らの覚悟を後押ししてもらいたい、と考えたためだったのかもしれない。
皎祥は真丸にひん剥いた目で嬰を睨み、迷うことなくこれに答える。
「その覚悟すらなくて、どうして今此処にいられようか」
我儘と言われて良い気持ちはしなかったらしく、皎祥は質問に答えると立ち上がり、嬰を見下ろし半笑いで問いかける。
「君には覚悟があるか? 出自はともかく奇公の元で学んだせいか、どうにも行儀が良いお坊ちゃんのような言動が目立つ。悪事を共に為すには頼りない」
祖国の名も知らぬ下賤の出である嬰が、かつての王女にお坊ちゃんなどと揶揄われて面白いはずがなかったが、意地悪はお互い様と不快感を腹の中に留め、皎祥を見上げて自虐交じりに返答する。
「この身が清廉潔白であれば、今頃私は父母や奇公と再会していたことでしょう」
「そうか。黄婁に泣かされかけた軟弱者にしてはやるではないか」
嬰は覚悟があると明言できず、はぐらかして逃げた自分を情けなく思ったが、皎祥は彼の回答に満足したように高笑いすると、二度軽く手を叩いて天幕の外へ合図した。
合図を受けて天幕の周囲から足音がすると、ぎょっとした嬰は冷や汗をかく。
やがて天幕の入り口、つまり嬰の背後に足音が集まったので振り返ると、黄婁を含めて三人の男と一人の女がぞろぞろと中へ入ってきた。
うち一人は昼間黄婁と共に行動していた髭の男だが、残りの二人とは一度も面識が無く、彼らは腕組みして不思議そうに嬰を見つめている。
黄婁の手に鈍く輝く匕首が嫌にでも目に付き、嬰は身震いする。
最悪の場合に備え腰の短刀を抜けるように柄を汗ばんだ右手で握り、徐に両足を開き腰を据えて身構えた。
恐らく害意を抱いているわけではないのだろうが、他の三人のように隠す努力くらいはしてもらいたいと思いつつ、不用心にも背を晒したまま皎祥に問う。
「ええと、王女よ。この布衣の四人を何故外に伏せておられたのでしょうか?」
皎祥は赤らめた頬を掻き慌てて釈明する。
もちろんその姿は嬰の視界には入らない。
「すまない。私は必要ないと言ったのだが、彼らが聞き入れてくれなかったのだ」
「先王の命を受け、王女が幼少の頃よりお仕えしてきたのだ。俺の命に代えても、御身をお守りするのは当然であろうが」
「黄婁の言う通りだ。悪く思わないでくれよ、頭巾を拾ってくれた青年よ」
「と、言うことだ。非礼は私が代わって詫びる故、許してやってくれ」
皎祥が頭を下げると、四人はばつが悪そうに視線を下ろす。
嬰は彼らの言い分が理解できないわけではなく、事を荒立てるつもりもない。
とりあえず緊張から解放された彼は、気が抜けたような溜め息を吐くと、手を短刀の柄から離して腰を上げた。
「私こそ試すような質問をして申し訳ありませんでした。お互い水に流しましょう」
そう言って嬰が頭を下げると、漸く場の雰囲気が和らいだ。
皎祥は素早く嬰の横を通り過ぎると、嬰から見て左端に立ち、隣の男を左手で指し示す。
「この男の名は貴殿も既に知っているだろうが、私が小さい頃から側に仕え、この身に武芸を仕込んでくれた黄仲明だ」
禿頭の黄婁は最も背が高く、横幅もある毛のない大熊のような巨漢だ。
髪同様に眉も髭も毛一本見当たらず、真丸の眼は常に正面を睨み付けていて迫力満点で、鼻息荒く、薄い唇は茶色い肌と殆ど同化しており、大口から歯を剥き出しにしている。
そして、唯一小ぶりな耳がかわいらしい。
続けて、皎祥はその右隣の男を指し示す。
「この男も貴殿と面識があるようだな。彼も仲明と共にいつも私の側にいてくれた者で、槍捌きに長けて頭も回る
男の姓は崔、名は
灰色の混じった黒髪は肩まで伸びるそうだが、邪魔になるためか普段は束ねられ、垂れ目と緩やかな弧を描く眉に、高い鼻と髭に隠れた小ぶりな口をしている。
黄婁曰く彼も度々婦女子に怖がられたというが、面立ちのせいというよりは黄婁の次くらいに高い身長のためだろう。
体が細いので実際以上に長身に感じるのも一因かもしれない。
さらに右側の男を指し示して、皎祥は紹介を続ける。
「彼は元々恒の兵士であったのだが、恒王が弓の腕を競う大会を開催した際に自ら参加を希望し、好成績を残したのを私が登用した。健脚の持ち主でもあり、陰姜氏の元へ向かう際に露払いを務めてくれた
男の姓は簡、名は
四人の中で一番背が低く小柄で嬰の方が拳一つ分大きく、皎祥と同じくらいだ。
ほどほどに焼けた健康的な肌の色に、黒々とした短髪は雑草のように力強く逆立ち、ぴんと伸びた眉と鋭い目つきは精確に的を射抜く力を象徴するようだ。
肌に薄っすら浮かぶ紅い唇は両端が上に引っ張られて三日月の形をしていた。
年は恐らく一番若く、もしかすると嬰より下かもしれない。
皎祥は最後に右端の女について言及した。
「彼は私を城から逃がしてくれた郭宰相の娘の
女の姓は郭、名は
曲がり癖のある赤茶色の髪は短すぎない程度の長さで、優し気に目を細めて笑っている様子からは武芸を好むじゃじゃ馬であるとは思いもよらない。
しかし、話してみれば男勝りな堂々とした口調と豪快な笑い声に驚かされる。
「この四人と他に野営している四十人の合計四十四人が、今現在行動を共にする全ての者だ。数は少なくとも皆忠義に厚く、陰姜氏の元で鍛えられた猛者ばかりであるぞ」
皎祥はそう言って腰に両手をあてると、自慢げに胸を張った。
恒都を出てからずっと付き従ってきたのだろうから、誇張なしに選りすぐりの烈士共に違いあるまい。
「そして、たった今から貴殿と共に戦う仲間達だ。よろしく頼むぞ、嬰殿」
嬰の元へと近づいてきた皎祥が手を差し出すと、少し間をおいて嬰はにっこりと笑い、二人は固く握手を交わした。
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