第2話 嬰が驚き、恒の王女も驚く


 嬰は翠という文字を目にして身震いする。

 乗り出した身体を慌てて引っ込めると、高鳴る心臓の音に合わせるように段々と息が荒くなっていった。

 木にもたれかかり、乱れる呼吸を悟られまいと鼻と口を両手で覆う。


 翠の軍旗は統一後に一新される前の古い物で綻びも目立っていたが、何度も補修して使い古している様子であった。

 何故このような所に翠の兵士達がいるのだろうか。

 嬰は突然のことで過剰に反応したが、わりかしと早く冷静さを取り戻し深く息を吐く。

 

 嬰自身過去の因縁があるとはいえ、生きていく中で全く翠と関わりを持っていないかといえば、そのようなことはなかった。

 彼如きがくだらない意地を張って楽に生きていけるような世の中ではない。

 事あるごとに自らのちっぽけさを自覚させられた彼にとって、まず大切なのは生きることで、そのために恨みを押し殺し翠人として生きる屈辱にも耐え続けた。


 それを今更になって翠の文字に逆上し我を失ったりはしない。

 ただ幼心に刷り込まれた恐怖が、無意識に呼び起こされただけのことである。


 さて、昼間出会った男達を追って歩いてきてみれば、行きついた先は翠の野営地だったのだからつくづく翠とは縁があるらしい。

 頭を掻きながら次の行動を思案する嬰に腹の虫が指図する。

 背に腹は代えられない。

 まさか彼の事情を知っている者がいるはずもないだろうから、出て行っていきなり斬りつけられる、などということはあるまい。

 

 嬰は隠れるのをやめ、馬の世話をしてる男の元へと歩き始めた。

 しかし、男の元へたどり着くよりも前に物音を聞きつけた別の男が現れ、彼の姿を発見して不審がる。


「誰だ?」


 男の目は警戒感を剥き出しにして、嬰をじろりと睨み付けていた。

 わざわざ森の中で野営していることといい、この様子といい、天下の翠国の兵士達にしてはどこかおかしい。

 嬰はそんなことを考えながら媚びた笑顔で恭しく会釈すると、はっきりした声でゆっくりと答える。


「私は旅をしている者なのですが、食べる物がなく困っていたところです。大翠の御慈悲を以て、どうか、一食のお恵みを頂けませんか」

「ううん……名は何という?」


 男は疑り深い性格らしく、まだ納得していないようだ。

 あるいは、嬰の薄汚れた身形を奇妙に感じているのかもしれない。

 下手に隠して面倒を起こしても困るので、嬰は大人しく名を告げる。


「嬰と申します」

「姓は」

「親から与えられたのは、これだけです」

「……少し待っておれ。決してここを動いてはならんぞ」

「承知致しました」


 男は嬰を指差して念入りにそう命じると、何処かへ歩いて行った。

 嬰は言いつけ通り微動だにせずその場で立ち続ける。

 ふと馬に目を向けると、世話をしていた男は既に立ち去り、一頭の馬が寂しげに彼と目を合せて嘶いた。


 手持無沙汰な嬰は右手の手の平を使って顎を撫でる。

 彼が幼少の時分、父親が髭を撫でているのを面白がって真似していたのだが、いつの間にかそれが癖となってしまったらしい。


 変な癖になるからやめなさい、と散々母に窘められたことを懐かしむと同時に、彼の手を引っ張る母の手の温もりを思い出し、顎を撫でる手に左手を重ねた。

 重ねた手は冷え切っていたが、乾燥して荒れる様子は母のそれに少し似ている。


 寂しそうにする馬が哀れに思えて、いや、寂しかったのは嬰自身かもしれない。

 彼は馬に近づこうとしてその場で片足を上げたが、先ほどの男の声が聞こえたので慌てて足を下ろした。

 一人ではないようで内容までは聞き取れないが、誰かと会話をしている。


 天幕の向こう側から姿を現した男が伴っていたのは、昼間出会った禿頭だった。

 彼は嬰の姿を見るなり豪快に笑いだし、びっちりと布衣の張り付く身体を誇示するように胸を張って隣の男に喋りかける。


「ああ、このみすぼらしい青年は間違いなくそうだ。俺の禿隠しを拾ってくれた奴に違いない」

「……そうですか。して、如何致しましょう?」

「そうだなあ、しばし俺に時間をくれ」

「はあ」


 きょとんとしている男を置き去りにしたまま、禿頭は嬰の元へと近づいてきた。

 大股歩きで瞬く間に迫るいかつい姿に嬰が思わずたじろぐと、禿頭は不満そうに口を曲げる。

 彼は嬰の目の前にやってくると足を止め、右腕を伸ばして嬰の肩に手をのせた。


「怖がることはないと昼間にも言っただろうに」

「申し訳ありません」

「そうすぐ謝るな、お前は軟弱すぎる」

「すみませ」

「だから! まあよい。お前の名は嬰というらしいな?」

 

 禿頭は呆れたように左手の小指で耳をほじくりながら、鋭い眼光を嬰に向ける。

 嬰は語気強く怒鳴られて身体をのけぞらせたが、必死に堪えて体勢を立て直すと、眉間にしわを寄せ泣き出しそうな顔で答えた。

 

「嬰、といいます」

「歳はいくつだ」

「憶えていません。意識したこともなかった」

「……そうか。本当に旅をしているのか?」


 嬰は目を逸らして下を向く。

 嘘を吐いているというわけでもないのだが、どこか後ろめたい気持ちがある。

 両手で腹を抑えてなんとか言葉を吐き出した。

 

「……はい」

「歯切れが悪いな。何か隠してはいないか」


 頭を掻く禿頭の顔は怒っているというよりも、戸惑っているという表情だった。

 彼が振り返り後方の男に目配せすると、男は頷いて無言で立ち去る。

 彼は正面で首を垂れる嬰の簡単にへし折れそうな細腕を引っ張った。


「まあとにかく、嬰にどんな事情があるのかは知らないが、お前がいなければ俺は禿を隠せなくなっていた。俺の恩人であることは疑いない。これ以上婦女子に泣かれてはたまらんからな」


 泣かれるのは頭のせいではないだろう、と心の中で突っ込む嬰だったが、僅かに笑顔を取り戻すと、拳を固く握って口を開こうとする。

 すると、すぐに禿頭はその大きな右手で嬰の口を塞ぎ、静かに、これまでの荒々しさを欠片も見せずに呟いた。


「望まぬなら言うな。内に秘めると誓ったならば、その意思を貫け」


 嬰は緩んだ涙腺を必死に締めて、前を歩く禿頭の後ろ姿に微笑みかけると、彼にその名を問う。

 他人に興味を持ったのは随分と久しぶりのことであった。

 彼は嬰の手を引いて先導しながら、振り返ることなく返事する。


「俺か、俺は黄婁おうろうだ。あざな仲明ちゅうめいというから、そちらで呼んでくれるとありがたい」

「字、私にはないものだ。姓もないが……」

「嬰は、嫌か?」

「父母から与えられた宝だ。嫌ではないけれど、人はみな名を避けて字を多用する」

「お前が良いのであれば嬰と呼ぶし、好まぬならば、字を考えろよ」

「はい」


 他愛もない会話をしているうちに、一つの天幕の前へと至る。

 黄婁は天幕の側にいる男に耳打ちすると、さあ、と嬰を中へと誘う。

 彼が誘われるがままに中へ入ると卓上に食事が並べられており、その向こう側で一人の女が椅子の上に腰かけていた。


 その麗人は男連中と同じく白色無地の布衣を身に纏い、僅かにはだけた胸元が嬰を戸惑わせるのを気にする様子も無く、束ねられた紺色の髪が右肩に乗っている。

 大きな目を守る眉は迷いなく真っすぐと伸びて頬を鮮やかな朱色で飾り、白く透き通った肌は見る者を魅了する。

 豊かな体つきではあるが、確りと鍛えられているのか弛みがあるわけではない。


 彼女は品定めするように嬰の全身を凝視した後、表情を緩めて嬰の背後に立つ黄婁へ声をかけた。

 

「仲明よ、ご苦労だった。さあ嬰殿、このような場所故満足なもてなしも出来ないが、存分に食されよ」

「あ、貴方様は?」

「余は……いや、私は皎祥こうしょう。字を伯瑞はくずいといい、仲明達を束ねる者だ」


 天幕の入り口に控える黄婁は皎祥の言葉に相槌を打つ。


 嬰は皎祥に見惚れてその場で立ち尽くし、どう考えてもただ者とは思えない彼女の風貌に、いよいよこの集団がまともな翠の軍隊ではないのではないか、という疑いを深めていく。

 食器に素朴さを好む翠人に似つかわしくない美麗な装飾が施されているのが、ますます怪しい。

 しかし、鼻を突いた食物の臭いに思考が邪魔されて、彼は机の前までふらふらと近づくと躊躇なく椅子に座った。


 箸を手にとったところで再度皎祥の様子を窺うと、彼女は微笑みを絶やすことなく頷き、遠慮するな、と嬰に食事を促す。

 彼は満面の笑みを浮かべ卓上の食事を食い散らかした。


 嬰が水を飲み口の中が空っぽになった隙を見計らって皎祥は尋ねた。

 彼女の声を聞くと嬰はすぐに姿勢を正して耳を傾ける。

 黄婁はその様子を背後から眺めて笑っていた。


「嬰殿は旅の途中だというが、どうして我らを訪ねて来られたのか?」 

「食事もまともにとれず彷徨っていたところ、空に昇る煙を見てやってきました。そして茂みから覗いてみれば、翠という文字を目にしたので、慈悲深き翠の方々であれば助けて頂けるのでは、と……」


 嬰の答えに驚いた皎祥は膝に両手を押し付け前のめりになる。

 そして黄婁を一瞥すると、彼もまた驚きを隠せない様子であった。

 彼女は益々興味が湧いたらしく、嬰の目をまじまじと見つめて言う。


「失礼ながら、貴殿は文字がわかるのか」

「嬰という文字は母親から。残りはかつて奇公きこうという方の元に身を寄せていた頃に奇公や周りの方々から教えて頂きました」


 奇公とは嬰の住んでいた国の西に存在したしょう国の大臣の一人で、姓をがく、名をこう、字を子明しめいという。

 聡明で照王の政治をよく補佐して寵愛を受け、他国同士が相争った時はその仲裁を至極公正に全うすることで、諸国にも名を知られていた。

 照国内の彼の封土は楽邑がくゆうと呼ばれ、一つの国と権利を同じくすることを照王は勿論諸王からも認められていた。


 人々は初め楽公がくこうと呼んだが、人から笑われる数多くの奇行や人から称えられる奇特な行いを繰り返したため、奇公という呼称で天下に名を轟かすようになる。

 特に仁義に厚く人柄の良さは並ぶものなしと尊敬され、半奇勝る者あれど一奇勝る者なしと称賛されていた。

 彼は照都の私邸に数多くの食客を抱え、彼らを手足として動かした。

 嬰が息も絶え絶えで照の国境をふらふらしていたところを救い奇公へと連絡を繋いでくれたのも、そんな食客達の中の一人であった。

 

「奇公、照国の奇公か。直接師事したというと、食客として照都の邸に滞在しておったのか?」

「はい。小さい頃に諸事情で、親元を離れることとなりましたので」

「流石奇公というべきか。年端もいかぬ少年を食客に迎えるとは、物好きな方よ」


 皎祥はかっかと笑って見せると視線を嬰から黄婁へ移し、意味ありげに頷くと再び椅子にもたれかかる。

 彼女と眼を合わせた黄婁は頷いて返すと天幕を出て行ってしまったが、興奮気味の嬰は全く気付かずに喋り疲れた舌を潤して話を再開する。 


「奇公は数多くの弱者を救い、その封土に巨大な街をつくって住まわせました。そこには子供もいましたが、私邸で若者の姿を目にしたことは殆どありませんでした」

「そうであろう。彼は妻を娶らず、子を貰うこともしなかった。照王の持ち掛けた縁談さえ、堂々と断ったという」

「はい。本来なら無礼を咎めるものですが、奇公ならやむなしと大笑いしたとか」


 聞いてもいないことまで語りだす嬰の饒舌ぶりに、皎祥は苦笑する。

 会う前に聞いていた彼の様子と全く異なるのは、奇公をそれだけ慕っていた、いや、今でも慕っているということか。

 そんなふうにでも納得したのであろう彼女は思うところがあるらしく、彼の話を遮り質問をぶつける。


「貴殿が奇公の元にいたのであれば、彼の最期も知っているのだろうな?」

「……恥ずかしながら、付き従うことは叶いませんでした。その時、私は奇公の密書を携え南のおうへ向かっているところでしたが、既に手が回っており足止めを食らっていました」


 嬉しそうに話していた嬰は皎祥の質問に肩を落とし、声に張りがなくなった。

 それでも口を閉ざすことは無く、暗い顔で答え続ける。


「そうか。まあ、彼の側にいた食客は皆殉じたというからのう」

「照都陥落を耳にして、奇公より賜った絹の青い着物を脱ぎ棄て体中に泥を塗し、照都へ戻りました。……市中で尋ねれば、武帝ぶていの命を受けた皇帝陛下の功であると」


 武帝は溜濤りゅうとうのことを指し、皇帝陛下とは現皇帝溜和を指す。


「ああ、酷武帝こくぶていは大々的に喧伝したからな。我が継嗣が世に聞こえる奇公を討ち果たせり、と。諸王の中には憤慨した者も少なくなかったが、日の出の勢いの翠を前にして、表立ってそれを非難することはできなかった」


 酷武帝とは、溜濤があまりに冷酷無比な行動を繰り返したことから、翠を快く思わない者が武帝を呼ぶときに使う蔑称である。


 偉大な先帝を揶揄する言葉を使うものが翠人であるとは思えず、翠人であれば武勇のように語る話を奇公に同情的に話すのだから、やはり何かがある。

 嬰は皎祥を試すつもりで、しかし、多分に本音の含まれる悲痛な声をあげた。

 彼の沈痛な面持ちは、皎祥の胸を打つと同時にその推測を確信へとかえる。


「……はい。皇帝陛下は……溜和は、城下に奇公の御遺体を晒しました。……私から両親を奪い、第二の父をも奪っていきました」

「そうか……。いや、そなたがそこまで教えてくれたのだ。余も……私も、話そう。

私は翠に滅ぼされた国の一つ、こうの王女であった。正確には、国が亡びるより前の僅かな間だけ王であったらしい」

「恒の……」


 皎祥は右腕を曲げ手を広げて胸に当て、強いまなざしで嬰を見据えて打ち明ける。

 嬰ははっとして口を丸く開いたまま、彼の次の言葉を待ち続けていた。




 所変わって翠の都豊陽ほうようの宮中。

 一日の政務の後、人払いして二人だけで会話を交わす者達がいる。

 まさか盗み聞く者がいるとは夢にも思うまい。


「溜将軍よ、天下はよく治まっておるだろうか」

「陛下の善政に民は喜び、平和を謳歌しておりましょう。ただ、未だ時代の趨勢を読めぬ愚か者が、痴れ事を画策している動きはございます」


 帝座に腰かけ物憂げに虚空を眺める男が一人。

 龍の描かれた翠色の織物を羽織り、帝冠には大きな翡翠が埋め込まれている。

 対面して立つ男の羽織る着物は黄色く、虎が描かれていて、やはりその冠には翡翠が施されている。

 物陰からこっそりと覗くが、それ以上に見定めることはできなかった。


「ああ、彼らをなんとか懐柔できぬものであろうか」

「難しいかと。利害で動く者であれば、既に大翠へ帰順しておりましょう」

「そう、利害では動かぬ。彼らを何が駆り立てるのか。やはり、武帝のやり方は性急に過ぎたのではないか」


 帝座に座す男は下唇を軽く噛み首をかしげる。

 対面する男はその言葉を正すように反論した。


「しかし、天下は分立をよしとして馴合う機運に満ちておりました。統一を目論むならば、あれだけのことをせねばなりますまい」

「そのために多くの遺恨を残した。朕が照を攻め落とした時、武帝は照王と奇公を惨殺させて、諸国を脅かした。朕は照都に居て、多くの嘆き悲しむ声を耳にした。あのような小国でさえ、その声は大地を揺るがすほどであったのだ」


 帝座に座す男はそういって天を仰ぐ。

 対面する男は暫く言葉に詰まったが、慰めるように優しく返答した。


「ですが武帝は統一後、民を慰労し税を緩め、武帝がお隠れになられた後には、陛下が昼夜を問わず御政務に励まれ、天下に翠の徳を知らしめました」

「朕は何故、ここまで政に励むのだろうな。純粋に天下万民のためを思ったのだろうか。あるいは贖罪のため、もしかしたら保身のためかもしれぬ」


 帝座に座す男は自嘲する。

 対面する男は毅然と答えた。


「気にする必要はございますまい。万民にとって大切なのはその行いであり、陛下がたとえ私心で動いておられたとしても、何が問題となりましょうか」

「卿は優しいな。翠国一の忠義者だ」

「滅相もございません。臣はただ大翠のために、この身を捧げると誓ったのみ……」


 帝座に座す男は微笑む。

 対面する男は拝礼して、にっこりと笑った。

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