天下に仇為す敵討ち
石粉護符
第1話 青年は渇きを潤し、孤独を癒す
大地を焦がし万物の生気を奪う猛烈な暑さの中、男は涼を求め彷徨う。
空には雲一つ無く、地に伏す草は枯れかけ色あせて微動だにしない。
放ったらかしてだらだらと伸びた焦げ茶色の髪は、鬱陶しさのあまり短刀で雑に切り落とし、焼け焦げたのか泥土に塗れたのか知れぬ薄汚れた肌の色、切れ長の目に白い眼は虚ろに遥か遠くを見つめる。
こけた頬を絞りだした汗が伝うと、がさがさの口唇の狭間から舌が押し出て必死に水滴を追う。
しかし、その努力も空しく水粒は顎へと滑り、辛うじて服と言えなくもない粗末な麦色の布きれを濡らした。
両腕を放り投げ前のめりに倒れ込むように歩く姿は、傍目には幽鬼かと思わせる。
もっとも、化物であれば夜に現れるのが相場であるから、男はこれほど苦しまなくても済んだだろうし、化物にしては細身で迫力に欠ける。
彼の身の周りで姿勢を正すのは、腰に備わる短刀ただ一つであった。
察するに相当辛いものだろうと思われるが、この程度の苦しみには既に慣れてしまったらしく、男は弱音の一つも吐かずに歩き続けていた。
しかし、使い古した草履を履いた豆だらけの足を止めてしゃがみこむと、腰の巾着袋からぼろぼろの紙切れを取り出してそれを凝視する。
しばらくして紙切れを巾着にしまうと彼は再び立ち上がった。
少し生気を取り戻したようにも見えたが、相変わらず重そうに足を引きずり歩く。
彼の歩いた後には薄っぺらな草履の跡が残されていた。
それから数時間後のことだった。
「……ああ」
男は感動のあまり喉の奥から音を放り出し、湧き出る唾をごくりと飲み込む。
彼の眼前に今まで目にしたことの無い大量の水が姿を現したのだ。
対岸へ渡ろうにも小船では到底足りないと思わせる川幅に、左右を見ても終わりなど皆目見当のつかない際限なき長大さ。
悠々と流れる水は圧倒的な翠色に光り輝き、あらゆる生命の源であると言われれば納得せざるを得ないほどに眩しく感じた。
男は棒になった脚を必死に動かして一目散に大河へと近づいて行く。
彼の来訪を歓迎するように沢山の魚が水面で踊り、鳥達は空を舞った。
彼は大河の目前までやってくるとなりふり構わず走り出して、河の端へと到達するやいなや屈んで両手で水を掬い、口元へともってくると一気に飲み干した。
水の冷たさが焼けた喉に突き刺さり激痛が走る。
だが男は歯を食いしばり顔を真上に上げて、無理矢理体内へと流し込んだ。
驚いた体が悲鳴をあげ酷い吐き気に襲われたが、彼はその痛みに心地よささえ覚えていた。
はっきりと生きていることが確かめられた悦びが、痛みに勝ったのだろう。
たった今幽鬼は焼け死んで、男が生者として蘇ったのだ。
思考を最低限まで諦めていた頭が少しずつ動き出す。
溢れる涙は喜び故、あるいは苦痛故なのだろうか。
冷静さを取り戻した男はにっこりとぎこちない笑みを見せたが、水面の翠色を暫く眺めた後顔をしかめる。
翠……彼にとって忌まわしき記憶が脳裏をよぎる。
彼がまだ文字も碌に知らない少年の頃、まだ天下が
東方のなんとかという国の領内で、森の中を開拓し数十人が村落を形成していた。
このちっぽけな村に生まれ落ちた男は村の大人や子供と一緒に田畑を耕し、周辺の獣を追って生きていた。
決して裕福では無かったが皆仲良く手を取り合って暮らし、彼もその幸せのために笑顔を絶やすことは無かった。
小さな幸福はある時突然踏みにじられる。
その日は昼間に少し遠征して大人が大猪を狩るのを見学していた。
慣れない遠出をしたものだから、疲れ果てた幼少の男はぐっすりと眠っているところだった。
空は暗くなったとはいえ、夕食も食べる前の夜の浅い時間である。
惨劇の始まりを告げたのは、よく子供たちの面倒を見てくれた村長の悲鳴だった。
甲高い叫び声は明らかに平常ではないことを村中に知らしめる。
好々爺の地獄を見たようなそれは深い眠りに就く男の目を覚ます。
しかし、幼い男が事態を読み取れるほどの情報量では無く、爺ちゃんどうしたんだろう、などと訝しむ程度の反応であった。
だが、次に村長の放った最期の言葉、逃げろと言う必死の警告に戦慄する。
警告を皮切りに外から次々と悲鳴が聞こえ始める。
外に出た男は家の裏側から梯子で藁ぶき屋根に上り、頭が出過ぎないよう恐る恐る様子を窺っていた。
すぐに見慣れぬ鎧を着た集団が現れ、逃げ惑う村人達を嘲笑いながら家々を襲う。
何が起こっているのか、全く理解が及ばない。
ただわかるのは、見慣れない鎧を着た集団が、抵抗する大人を槍で突き殺し、泣き叫ぶ女を襲い、遊び仲間の子供達は縄で数珠つなぎにされていることだ。
倒された松明の火が隣の家に燃え移ると、徐々に強まる火の勢いに鎧の集団は沸き立ち歓声をあげている。
男は初めて人を憎んだ。
固く握った拳に爪がめり込み、彼の穢れを知らぬ鮮血が滴る。
その時、男を呼ぶ母の声が聞こえた。
「
声の主は程なくして断末魔の叫びをあげる。
父は、恐らく立ち向かって殺されたのだろう。
そう感じた嬰は、いっそ父さんのように、と鎧の集団を睨み付けた。
一通り殺し終えた鎧の集団は気が緩んだようで、大声でぺらぺらと喋り始める。
「全ては翠国の為、ひいては我らが王太子様の為なのだ」
「全くだ。こんな辺鄙な土地で朽果てる奴らが、大翠の礎となれたのだから感謝して欲しいくらいだ。ははは」
「物資は無いよりある方がいいからな、食べられそうなものはきっちりもってけよ」
「
「こら、流石にその名を出すのは不味いだろう。何のために旗も持たずにやってきたと思ってるんだ。まあ、誰も聞いてる人間などいるはずもないか。はっはっは」
「翠国万歳!」
家の前を堂々と闊歩する彼らを、嬰は今すぐにでも襲ってやろうかとも思ったが、幸いに足が震えて言うことをきかなかったので、事なきを得た。
服の袖で涙を拭い、母の言葉を思い出す。
逸る気持ちを噛み締めて、今は命ながらえることを優先した。
決して音をたてずに、梯子を一歩一歩下りると、小走りで森の中へと逃げ込む。
少しずつ遠くなる惨劇の現場から、馬鹿笑いする声が木霊する。
必死に逃げながら嬰は考えた。
名も知らぬ彼らと再会することは望めないだろう、と。
しかし、確かに聴いた王太子、あるいは溜和、そして翠という名は、同一人物なのか別人なのかはわからなかったが、彼の記憶に深く刻まれた。
いつか、その恨みを晴らす為に……。
何か起きた時にはとにかく西へ走れ。
常々そう教えられていた嬰は目的地の無いままひたすら歩き続け、数日して精根尽き果て斃れかけていたところを、通りがかった小男に救われ一命をとりとめた。
沈痛な面持ちで大河を眺める嬰は、手頃な平べったい石を拾うと、河面に向かって放り投げた。
しかし、着水した石は一度も跳ねることなく、呑まれていく。
米粒程の小さな波紋が生じたが、彼が瞬きする間に消えてしまった。
一石を投じたところで、びくともしない巨大さに、溜め息を吐く。
嬰が静止してしゃがみながら水面を眺めると、黒い円筒状の頭巾が流れてきた。
上流から流れてきたであろうそれに、彼は手を伸ばす。
身を乗り出し精一杯の伸びをして、何とか拾い上げる。
どこから流れてきたのだろうか。
この河を上流へと遡っていくと、翠の都があると嬰は耳にしたことがある。
いまやこの広大な地は全て翠の土地で、そこに生きる者は皆翠人ではないか、と。
嬰が頭巾を絞って水を切っていると、大河の上流、嬰の右方から足音がする。
彼は耳聡くそれを察知すると立ち上がり、逃げる準備をして振り向いた。
なんと、二人組の男が走って向かってくるではないか。
彼らは無地白色の布衣を崩れ気味に着用し、左側の男はびしょびしょの灰色交じりの黒髪を振り乱しているが、右側の男の頭部は白く光り輝いていた。
二人ともしっかりとした体つきで、ただの流民には思われず、とにかく異様なその姿に気後れしたのか、嬰はぽたぽたと水滴の垂れる頭巾を手にしたまま走り始め、あてもなく河の流れに沿って行く。
しかし、碌に食事もとらずに歩き続けて疲労困憊した身体では、その偉丈夫共を振り払うことはできず、徐々に距離を詰められて、覗く度に二人の姿は大きくなっていった。
嬰は逃げきれないと悟ると、足を止めて振り返り、深々と頭を下げる。
屈強な男に追われる覚えなどないが、とにかくこうすれば、敵意がないいことだけは理解してもらえるはずだ。
嬰がこれまでの人生で学んだ、弱者の処世術である。
果たして、彼らはどういった反応を示すのか。
「おいおい、いきなり頭を下げるのはやめてくれよ。俺らはただ落とした頭巾を追いかけてきただけだ」
禿頭の男がどすの利いた声で、迷惑そうに弁解すると、髪があるほうの男は腕組しながら笑った。
そして綺麗に蓄えられた黒い髭を撫でると、口を大きく開き、嬰の顔を覗いて話しかける。
「このつるつる頭の強面ぶりを見せられて、怖がらない奴なんかいるわけないよな」
「……い、いや、決してそんなことは……」
「素直に言って良いのだぞ。こいつは確かに荒々しい男だが、根は悪い奴ではない」
悪い奴ではないと言われてまんざらでもなさそうな禿頭だが、にやにやと笑いながら黒髭の男に言い返す。
「
「初対面で怯えなかったのが姫くらいの熊男よりはましだ。だがまあ、前言は撤回しよう。こいつも、そして私も悪人には違い無い」
予想外のことで拍子抜けした嬰は、腰を抜かしてその場にへたり込んでしまう。
その手の頭巾に視線を合わせた禿頭は、物騒な笑みを浮かべて両手を合わせる。
「まあ、とにかくだ。その頭巾を返してほしい。拾ってくれたのは感謝する」
「あ……はい」
嬰の頭の中に拒否するという選択肢はなかった。
慌ててべたべたの頭巾を差し出すと、彼らは謝意を表して、きた道を帰って行く。
彼らの姿が見えなくなったところで、嬰は同じ方向へと歩き始める。
まさかあのような姿で、遠路遥々やってきたわけでもないだろうから、近くに彼らの属する集団がやってきているのかもしれない。
そこで、男達に仲介してもらい、仲間に入れてもらえないだろうかと考えたのだ。
幸い二人の嬰に対する印象は悪くはなさそうであったし、彼も二人に対して、初め出会った時はともかく、この時には悪感情は持っていなかった。
今更追いかけるくらいなら、二人に直接頼めばよかったのだろうが、それほどの余裕が当時の彼にはなかったのだろう。
休んでましになったとはいえ嬰の足取りは重かったが、なんとか歩き続け、一つの小さな支流が大河から分かれる所までやってきた。
小さいといっても相対的な話で、彼の足を止めるには十分な大きさだ。
支流に沿って三、四分程歩けば木橋が架かっているので、渡ることは可能だが、そのまま本流に沿って遡るべきか、支流に沿って行くべきか。
嬰は腕組みして悩んでいたが、ふと空を見上げると、支流の流れる方向から煙が上がっているのが目に入る。
煙は森の中から上がっており、誰が上げたものかは不明だが、火を焚いている者がいるであろうことは推測できる。
もしかしたら先ほどの二人の属する集団かもしれない。
たとえ違ったとしても、延々と本流を遡るよりはましだと考え、嬰は支流に沿って行くことを決めた。
平地を過ぎて森に足を踏み入れる。
ただでさえ陽も傾き暗くなり始めた空、森の中は暗がりだ。
嬰は歩きながら、あの惨劇の夜、必死に走ったことを思い出す。
止まることはなかった、いや、追手に捕まる恐怖のために出来なかった。
初めはただ生き延びることを考えていた。
しかし、追手を振り切った頃には、友人たちのことを思い出し、彼らはどうなるのだろう、という疑問や、彼らを残し一人逃げ延びたことへの罪悪感が生じる。
全てを抱えきれるはずもない幼少の嬰にとって、それらは憎悪へと変わった。
名も知らぬ鎧の男達、そして、彼らの口にした人の名であろう言葉、王太子、溜和、後に人名ではないと知る翠。
皮肉なことに、その彼らへの恨みが彼の生きる原動力となった。
頼る伝手があるといっても、小さな子供一人が着の身着のままで逃げ出して、楽に辿りつけるほど近くではなかったので、散々な苦労を重ねた。
何度も死にかけた。
それでも、地に伏して獣の餌となることを拒んだのは、ひとえに彼らへの復讐心のおかげである。
「うわっ!」
嬰は暗闇の中で注意も散漫であったため、木の根っこで躓き前のめりになる。
咄嗟に腕を前に伸ばし手の平を地面に打ち付けて、なんとか転倒を免れたが、手は土で汚れ、更に切り傷を負った。
「ついてないな」
感情的になっていた嬰は、苦々し気に吐き捨てた。
だが、怪我の功名とでもいうべきか、その場で我に返った彼は偶然小さな金属音を耳にする。
彼は人の存在を確信すると、水辺から離れて音のした方向へと歩いた。
暫く歩くと嬰の思った通り、そこには人の姿があった。
集団で野営しているらしく、円形の天幕がいくつも張ってある。
彼は気配を悟られないように、木の陰に隠れしゃがんで様子を窺う。
馬の鳴き声が聞こえたのでそちらをみると、大男が馬を撫でて落ち着かせているところだった。
松明がちょうど男の顔と重なっていたので、少し身を乗り出す。
その時目に入った軍旗に、嬰は驚愕した。
正確には物自体にではなく、そこに施される翠という文字に……。
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