第33話 三角関係

 一人で姉妹の物語を書き始めた秀夫は、執筆に行き詰まると、気分転換に買ったばかりの車でドライブに出かけるようになりました。 

 相変わらず美智子は自分に言い寄ってきていたので、秀夫は何度か美智子とドライブに行き、一緒に食事をしたりしながら、自分への思いを諦めるように説得していましたが、美智子は一向に諦める様子も無く、それどころか自宅のアパートに幽霊がでるとか、不審者が出没するなどと言って、なんとか秀夫を自宅へ招き入れ、なし崩し的にでも関係を深めようとしました。

 そんなある日、久美子に母親から電話があり、実家の隣町の引田町ひけたちょうで暮らしていた母方の祖母が亡くなったので、美智子を連れて帰ってくるようにとの悲しい知らせがありました。

 久美子と美智子は両親が共働きだったことで、二人は幼いころからおばあちゃんっ子として育ったこともあり、久美子は強い衝撃を受けました。一刻も早く、亡き祖母に別れの挨拶をと思った彼女は、秀夫に祖母の死を知らせたあと、美智子に電話をして、すぐに四国へ向かおうと言いました。しかし美智子は、祖母の死を悼みはしましたが、自分は両親と親子の縁を切り、二度と白鳥町には帰らないと決心しているので、葬儀には参列しないと言ったことで、二人は大喧嘩になり、久美子は美智子の説得を諦めました。

 久美子は妹に対する怒りを堪えたまま、帰郷の準備を始め、秀夫にも喪服と黒いネクタイの用意をと話したとき、秀夫から意外な言葉を聞くことになりました。

 それは、学生運動家たちが主催する討論会が2日後に開かれ、その会に三島由紀夫が参加するという情報を聞きつけたので、どうしても自分はその討論会に出席したいということでした。

 彼女は婚約者の秀夫なら当然、葬儀に参列してくれるものと思っておりましたので、軽い混乱と動揺を覚えましたが、とにかく秀夫と言い争う間もなく身支度を整え、一人で四国へ向かいました。

 そうして傷心の久美子が東京に戻ったとき、秀夫が婚約者の祖母の葬儀を差し置いてまで参加した討論会が、結局は三島の参加が見合わされたことによって、まったく無意味なものであったということを聞かされた久美子は、このとき初めて秀夫との間に、亀裂のような溝が生じたという感じを受けました。

 それから間も無くの頃、いつものように秀夫がドライブに出かけた後、書斎の掃除に来た久美子が、机の上にあった秀夫が一人で書いている小説を見て、いったいどんな物語を書いているのかと読み始めたことが、後の二人の運命を大きく変える始まりでありました。

 久美子は秀夫から、恋愛をテーマにした物語を書いているということは聞いていたのですが、まさかその内容が、一人の男を巡って姉妹が対立する物語とは思っていなかったので、心に強い衝撃を受けると同時に、もしかすると、秀夫と美智子が祖母の葬儀に参列しなかったのは、二人が不適切な関係を持ってしまい、その日は二人でどこかへ行く約束をしていたからではないかという、疑心と不安を抱き始めてしまいました。

 久美子が普段の冷静沈着な精神状態であれば、決してこのような疑いを抱くことは無かったと思いますが、やはり祖母の死が影響したのか、彼女は根が素直で実直なだけに、一度疑いだしてしまうと歯止めが利かなくなり、秀夫になぜこのような物語を書いているのかということと、美智子との関係を確かめようと思い、何度も秀夫に問いかけようとしましたが、真実を確かめる勇気も無く、日々を重ねるごとに、益々疑心暗鬼になってゆき、やがては食事もあまり喉を通らなくなり、夜もぐっすり眠ることができなくなってしまいました。

 そんな久美子の苦悩を知ってか知らずか、秀夫は自分が書いている物語の今後の展開に悩んでいて、もしも美智子と関係を持ってしまった場合などを想像しながら、彼女への対応を考えておりました。

 そのようにして3人の微妙な関係が始まり、1ヶ月が過ぎた頃、久美子がとつぜん腹痛を訴えて倒れ、病院へ運ばれて緊急入院することになりました。

 検査の結果、急性胃腸炎と診断されたのですが、おそらくその原因は、秀夫と美智子の関係を疑ってのストレスであったと思います。

 1週間の入院中、秀夫は朝から晩まで付きっきりで看病していたのですが、久美子は美智子が見舞いに来ないことを不審に思い、ますます二人の仲を怪しみ、自分が入院していることをいいことに、見舞いを終えた秀夫は病院から自宅へ帰らず、美智子のアパートに行き、二人で楽しく過ごしているのではないかといった、あらぬ疑いを抱いたり、もしかすると自分が入院中に、美智子が目白の自宅に入り込み、自分は退院しても帰る場所が無くなっているのではないかとさえ思うようになっていました。

 退院後も久美子の体調は優れず、食欲不振や不眠などに悩まされておりましたが、間もなくして彼女は、体調以上にもっと深刻な悩みを抱えるようになってしまいました。

 自宅に戻って5日目の夜、それまで体調を気遣って添い寝で我慢をしてくれていた秀夫がセックスを求めてきたのですが、久美子はそれに応じながらも、秀夫とのセックスがこれまでと違った、何か違和感のような妙な感情を覚えました。

 やがてその違和感は、秀夫とのセックスを重ねる毎に、次第に形を変えて苦しみとなり、しまいには耐え難いほどの苦痛となってしまった久美子は、彼とのセックスを拒むようになり、そのことが原因で二人の関係はギクシャクし始め、次第に言い争いになるまでに発展してしまいました。

 久美子は秀夫の求めに応じたい、あるいは応じなければならないと思えば思うほど、どうしても応えることができなくなり、そのこともプレッシャーに感じるようになっていて、次第に夜の訪れが恐怖に感じるようになり、秀夫がどこかへ出かければ精神が落ち着き、しまいには昼夜を問わず、秀夫がどこかへ出かけてくれる事を待ち望むようにさえなっていました。

 二人にとって不幸であったのは、久美子が秀夫と美智子との関係を疑っていることがストレスとなっていると、本人の秀夫に話せばよかったのですが、もしもそれが事実であった時のショックを考えると、どうしても話すことができなかったということでした。

 そして、現在であれば不眠や拒食、妄想やセックス拒否などといった、久美子の症例を挙げていけば、統合失調症やパニック障害、性嫌悪障害といった、何らかの精神疾患と診断され、治療を受けることも可能であったでしょうが、その当時は精神疾患に関しては、現在のように広く認知されておりませんでしたし、秀夫自身もまさか、このとき既に久美子が心の病を患っていたとは露ほども思っておらず、彼女がセックスを拒否し続けることが理解できなかったということでした。

 そうして若い秀夫は、肉体的欲望を満たされないことがきっかけとなり、美智子に振り向き始めてしまったのですが、いつしか彼は、久美子の力を借りずに作家として成功するには、美智子と関係を結ぶことが必要不可欠な経験となるのではないかと思い始め、自分が書いている物語の主人公である、男の行く末を想像するのではなく、先に自分が火宅の人として、その苦悩や快楽、悲哀や歓喜などを実際に味わい、愛憎劇の主人公として自らの行く末を見極めてみようと決心し、美智子の元へ向かいました。

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