第34話 泥沼

 こうして、久美子が最も恐れた事態が現実と化し、秀夫と美智子は肉体関係を持ってしまいました。

 確かに状況を考えれば、秀夫だけを責めることはできませんが、彼は文学青年らしく、どこか刹那主義的な考えを持っていて、自ら破滅すると知りながらも前に進んで行く、人間という滑稽な動物の可笑しみや、悲しさというのを経験しなければ、作家として人を惹きつけるような文章を書く事ができないのではないか、という身勝手な解釈を免罪符として掲げ、美智子との逢瀬を重ねてゆき、次第に目白の自宅にいる時間も少なくなっていきました。

 不実な人となってしまった秀夫は、久美子に対して細心の注意を払い、自分では決してボロを出していないつもりでいたのですが、もしかすると久美子は既に、美智子との関係を知らないまでも、薄々なにかを勘付いているのではないかと思い始め、彼はますます用心深くなっていきました。

 秀夫は自分が、美しい姉妹に翻弄される、優柔不断な金持ちの優男として次第に堕落していき、最後は二人から愛想を尽かされて、奈落の底へ落ちてゆく、という筋書きを想像していたのですが、彼にとって誤算であったのは、美智子が彼の想像以上に、愛に対して貪欲で嫉妬と執念が深く、独占欲が強かったということでした。

 そして、秀夫にとって最も誤算であったのは、久美子は彼の想像以上に神経が繊細で、脆弱な心の持ち主であったという事と、彼女の心の病は深刻な域に達していたということでありました。

 美智子は秀夫から、久美子がセックスレスとなってしまったと聞いていたのですが、彼女にとっては姉の心配よりも、むしろ恋敵の様子がおかしくなってくれたほうが好都合と、まるで追い風のように思っておりましたし、この際、姉と秀夫の婚約を解消させようと思い、自分が秀夫の子供を身ごもれば、姉も秀夫との結婚を諦めてくれるだろうと考え、彼女は自らが導き出した幸せに向かって猛然と突き進んでいきました。

 その結果、程なくして美智子は妊娠したと思われる兆候が現れ、産婦人科に行って確認したところ、やはり間違いなく妊娠していることが判明し、そのことを秀夫に報告しました。すると秀夫は非常に驚き、周りの状況を考えると産んでほしいとは言えなかったので、思い悩んだ末に彼は、美智子に中絶してほしいと頼みました。

 しかし美智子は、どんなことをしてでも絶対に産むと言い張りましたので、困った秀夫はとにかく妊娠したことを誰にも話さないように釘を刺したあと、自ら撒いた種とはいえ、これから先のことを考えて、憂鬱な日々が始まりました。

 こうなってしまうと、秀夫は態度をはっきりさせざるを得なくなりましたが、彼の心の中では既に、久美子と別れて美智子に子供を産んでもらおうという決心が固まりつつあったのです。

 その頃の久美子は、秀夫と寝食を共にすることも無くなっておりまして、いくら秀夫が気遣って話しかけても気の無い返事ばかりで、ほとんど会話もしなくなっておりましたし、何よりも今まで頻繁に話題にしていた美智子の話を一切しなくなったことで、間違いなく久美子は自分たちの関係に気付いていると確信を持ちながらも、何も問いかけてこない久美子が余計に恐ろしく感じるようになり、家の中は殺伐とした異様な空気に包まれて、とても美智子との関係を話すどころか、別れ話を切り出せるような雰囲気ではありませんでした。

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