第10話 引越し

 引越し当日、私は荷物をランクルに載せたあと、伊丹から有馬へ向かう最短路を走ろうと、私の実家がある宝塚市を抜けて、有馬街道を通ることにして、別荘に食べるものが何も無かったので、道中の関西スーパー桜台店に寄って、キリンの一番絞りの500mlを2ケースと、サントリーの角ビン2本と食材を買うことにしました。

 スーパーに到着して買い物したあと、少子化の影響で閉鎖されてしまった、宝塚ファミリーランドの跡地の前を通り、曲がりくねった有馬街道を抜けて、別荘には昼の12時前に到着しました。

 車から荷物を降ろし、買ってきたビールや食材を巨大な冷蔵庫に仕舞い、衣類や洗面道具などを所定の場所に仕舞ったあと、パソコンを書斎と寝室のどちらへ置こうかと迷いましたが、寝室にテレビがなかったので、その代わりとしてベッドの横のサイドテーブルの上に置くことにして、書斎のオークの机の上には、商売道具の万年筆と原稿用紙を置くことにしました。(ちなみに、『正しい小説の書き方』という本は、伊丹の自宅のゴミ箱の中に置き去りにしました)

 全ての荷物の整理を終えたあと、いま何時だろうとリビングの壁に掛けられた時計で時刻を確認すると、午後の1時半でありました。

 長谷川の到着予定が夕方の何時頃なのかが分かりませんが、その合間に本物の温泉を心行くまで堪能しようではないか、ということで、風呂場に行って軽く掃除をしたあと、銀泉の湯を檜の湯船へ流し込みました。

 長谷川が説明してくれたように、銀泉には多くの炭酸が含まれていて、銀泉が張られた檜の湯船には、まるでサイダーのように小さな気泡が絶え間なく現れては消えてゆき、手を入れて掻き混ぜると、手の甲にも気泡が無数に付着しました。

 ゆったりと温泉に浸かりながら、モネの睡蓮のような庭の景色を眺めていると、ほんの数日前までは夢にも思わないような、なんともリッチな気分になりましたので、しばし浮世の波を忘れて、大いにうつつを抜かそうではないか!と思いました。

 お風呂を出たあと、夕方にはまだ時間がありましたので、軽い運動を兼ねて庭を散策したあと、署名捺印した管理人の契約書をダイニングのテーブルの上に置いて、時間つぶしのためにリビングでテレビを見ているときに、玄関のインターフォンの呼び出し音が鳴りました。モニターを見ますと、画面からはみ出そうなほどの長谷川の大きなエラが映し出され、改めて立派なエラに惚れ直したあと、時計に目をやり時刻を確認すると、午後の4時半過ぎでした。

 応答用の受話器を取り上げて、

「鍵は開いてますから、そのまま入ってきてください」と言ったあと、出迎えのために玄関に行きました。

 しばらくして玄関のドアが開き、

「こんにちは!」という挨拶と共に、有名デパートの紙袋を携えた長谷川が到着しました。

「こんにちは」と私も挨拶を交わしたあと、リビングを抜けてダイニングに行き、テーブルの椅子に腰掛けました。

 長谷川は手にしていたデパートの紙袋を差し出しながら、

「これは引っ越し祝いのワインと、つまみの生ハムとチーズですけど、どうぞ」と言いました。

 ありがたく頂戴したあと、テーブルの上に置いていた管理人の契約書を長谷川に渡したときでした。

 神の啓示やお告げ、風の便りや虫の知らせといった、何の前触れもなく突然、私の背後でリビングのドアが開く音がしたと同時に、

「ハッセ!」という、女性の大きな声が聞こえてきました。

「!・・・」

(ハッセってなんや?)と思いながら、誰が訪ねて来たのかと驚き、振り返って来客者の顔を確認しようとした時、

「あっ! 瑞歩みずほちゃん!・・・」と、長谷川は目を大きく見開き、素早く椅子から立ち上がりましたので、どうやら二人は知り合いなのだろうと思いながら、ゆっくりと振り返りました。

 すると、私の目に飛び込んできたのは、


「!?×☆♨・・・・」で、ありました。


 私は釘付けになっていた若い女性の瞳から、まるで釘抜きで釘を抜くかのようにして、ようやく視線をそらしたあと、まっさきに思い浮かんだのは、5年前に別れた妻の顔でした。

 そして、長谷川が私に隠していた、アキちゃんに関する秘め事が、とつぜん目の前に現れたと思いました。

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