第10話 私の魔法使い

 夜にはぬいぐるみたちが 秘密の集会を開いている

 クリスマスツリーの根元には 赤と緑の服の小人がいて

 古いティーポットには 妖精が住んでいる

 こわい夢を食べてくれる シマシマのバク

 ハロウィンには こっそりお化けが遊びにきて

 お菓子といたずらを置いていく


 やさしい夢に包まれて

 魔法の扉を叩いたことを覚えてる?


 あの日このお店の扉を開けた

 キミたちを覚えているよ


 ――絵本「魔法使いのケーキ屋さん」より


 ダイニングテーブルの上で、はっと目を覚ますと、頬の下に水溜りができていた。目が覚めたのに、夢の悲しみの余韻が、透明な雫になって瞳から溢れてくる。

 どうしてこんなに悲しいの。何でこんなに不安なの?

 分かっちゃったから。珪樹さんは、自分から他人を踏み込ませないようにしているんだって。

 二重人格なのは、他人と距離を保つための手段。意地悪なのは、本音の裏返し。珪樹さんの裏の一面に触れることが嬉しかったのは、それが珪樹さんの、飾らない、嘘のない姿だったから。

 それが、私だけに見せてくれる、特別な素顔だったから。

 どうして今まで気付かなかったの? なんで今まで分かってあげられなかったの?

 今すぐ会いたい。今すぐ珪樹さんに会いたい。

 窓の外には朝日が昇っていた。着たまま寝ていたエプロンを脱ぎ捨てると、作ったケーキを箱に入れて、家を飛び出した。

 朝露で白く霞む町並みの中、もっと白く濃い息を吐きながら、〈Ange〉までの道を走る。

 はぁ、はぁ、と息をするたびに、冷たい空気が入ってきて、余計に胸が痛い。

 つま先が地面を跳ねる速度よりもっと早く、白い景色が走馬灯みたいに流れる。

 公園にも、この道にも、珪樹さんの欠片が落ちていて、きらきらと光っていて。走っても走っても、珪樹さんの顔しか浮かばないの。

 走りながら落としていく涙の粒は、ヘンゼルとグレーテルが落としたパン。

 でも、小鳥が食べちゃってもいいよ。もう、戻れなくてもいいよ。

 だって、きっと、珪樹さんが待っている。そんな気がするの。

 珪樹さん、あなたは嘘をつかない人だったけれど、ふたつだけ間違っていたよ。

 私の気持ちは恋ではないと言ったこと。私が好きなのは、魔法使いとしての珪樹さんだと言ったこと。

 ……ううん、やっぱりそこは間違いじゃないかも。

 だって珪樹さんには魔法が使えているもの。

 あなただけにドキドキして。あなたといるとワクワクして。体温まで上がって。ウサギが、アリスになれる。

 あなたにしか、使えない魔法。私にしかかからない、だからあなたも気付かなかった、魔法。

 急がなきゃ。私の魔法使いが、待ってる――。


 朝のしんと冷えた空気の中で見る〈Ange〉は、何だか眠っているお城のように見えた。

 そこで眠っているのは、珪樹さん? ううん、私の気持ち。気付かないうちに磨かれて、きらきら輝き出した、私の珪樹さんへの想い。

 ガラスの靴をいくら磨いても、珪樹さんは迎えに来てくれないの。だったら私は割れてもいいから、思いっきりぶつかりたい。

 これから眠り姫を起こしに行っても、いいですか。

 珪樹さんは、もう起きているかな。当たり前だけど、六時にもなっていないこんな早朝に、まだお店は開いていない。

 勢いにまかせてここまで来てしまったけれど、どうやって会ってもらおう? チャイムなんて、ついていないし。

 お店の正面扉の前で迷って裏口に回ろうとした時、扉からふわっと、甘くて優しい風が吹いてきた。

 とくん、と胸が騒ぐ。

 まさかね、と思って扉の取っ手に触れると、カチャリと鍵の開く音がして、自然に風に押されたみたいに扉が開いた。

 中に入ると、静かな薄暗い、誰もいないホール。普段は、お客様の笑顔と甘い幸せで溢れているこの空間が、今は眠りについているよう。

 まだケーキの入っていないショーケースをすり抜けて、厨房の脇を通り過ぎ、細い廊下を進む。

 アルバイトで使っていた更衣室の前まで来た時、また、優しい風がふわっと香った。

 お店の一階部分の、いちばん奥。裏口から入るとすぐの位置に、二階へと続く階段が見えた。

 何回か瞬きしたあと、思わず目をごしごしと擦る。

 今まで、こんなところに階段なんてあったっけ? アルバイトはいつも裏口から入っていたけど、階段があった記憶はない。

 何だか今急に、忽然と現れたような……。これじゃまるで、魔法みたいだよ。

 背中を押されるように、足が自然に二階に向かう。優しい風が糸になって、すくむ手足を動かしている。何だか、天使に導かれているみたい。

 白い階段をトントンと昇り、二階に着くと、そこは可愛らしい住居部分だった。

 白を基調とした、こぢんまりとした、パリのアパルトメンのような雰囲気。

 真鍮でできたアンティーク調の装飾の洗面台や、バスルームに繋がるようなガラス窓のある扉が見える。

 そして、廊下の一番奥には、そこだけ雰囲気の違う、心なしか存在感のある、ベージュの扉があった。多分そこが珪樹さんの私室なんだと分かった。

 ここまで来ておいておかしいけれど、やっぱり無断で入るのはためらわれる。

 躊躇していると、今度は触れてもいないのに扉が開いた。導いてくれているって思っちゃうくらい、優しい音を立てて。

 扉が開いた瞬間、部屋の中からたくさんの白い羽が、私に向かってぶわっと吹いてきたような幻を見た。

 なぜだか、いつかの小鳥を思い出す。天使がいたら、きっとこんな羽をしているのかな?

 部屋に足を踏み入れると、そこには珪樹さんもビスくんもいなかった。

 初めて見た珪樹さんの部屋は、なんだか金色の埃がきらきら舞っているように見えた。

 白やベージュの家具で統一された、こぢんまりとした部屋。小さなベッドと巨大な本棚、大きなテーブルのみの部屋。

 家具はこれだけしかないのに殺風景とは真逆で、小物がぎっしり並んでいるので、散らかったおもちゃ箱の中を歩いているみたい。

 一瞬、映画で見た、魔法使いの部屋かと思っちゃった……。珪樹さんの性格から、片付けられたすっきりした部屋を想像していたから、意外。

 天井まで届きそうな大きい本棚の中には、布張りの本がぎっしり。表紙の文字を見ても、ほとんどが知らない国の文字のようで、読むことができない。英語やフランス語も混じっていたけれど、大抵が古くて擦り切れたり、飾り文字だったりして、文字が判別できなかった。

 ベッドの上には、栞が挟まれた本がたくさん置いてある。枕元の本の上には、四つ葉のクローバーを押し花にした栞が無造作に置かれてあった。読みながら寝ちゃったのかな。

 出窓の両端に並んだ、リスやウサギの人形と、小さな鉢に入れられた植物たち。クローバーとへびいちごは分かったけれど、他は見たことがない。ハート型の小さな葉っぱの植物は、何ていう名前だろう?

 真ん中に置かれた大きいテーブルの上は、ひときわ雑多に散らかっている。

 開かれたままの、ハードカバーの本。途中まで文字が綴られた羊皮紙に、ペン立てに立てられた羽ペンに、ガラス瓶に入ったインク。

 こぽこぽと音を立てるサイフォン。でもその中に入っているのは珈琲ではなく透明な液体。お湯? と思ったけれど、なんだか虹色に発光しているような気がする……。

 散乱した絵の具のチューブ、使い込まれた絵筆とパレット。そして、描きかけのスケッチブックと……傷んだ古い絵本。

 それを目にした時、私は息を止めてしまった。そこにあったのは、

「これ……!」

 思わず絵本を手に取ってしまう。持っていたケーキの箱が、床に落ちる。

 ――忘れもしない、パステルカラーの表紙。優しくて柔らかい絵柄。

「……“魔法使いのケーキ屋さん”だ……」

 でも、その表紙に書いてあった文字は、私の記憶からは失われていた文字で、そのたった四文字は、目にした瞬間に、私の世界の色を変えた。


 『魔法使いのケーキ屋さん』

 絵・文 佐藤珪樹


 足が、震える。絵本を胸に抱いたまま、糸が切れた人形みたいに、その場にぺたっと座り込む。

 頭の中でリフレインされる、珪樹さんの声。

 ――まさかそれ、ずっと信じていたの?

 ――歌うでしょ。動物だって、植物だって。

 ――楽しかったよ、オマエが魔法使いだと信じてくれた時間は。

 ――僕のケーキを魔法だと思ってくれて……嬉しかった。

 ああ、そうか。そうだったんだ。

 なくしていた絵本のページを、珪樹さんの言葉が埋めていく。

 立ち上がって、開かれたスケッチブックに手を伸ばす。

 見覚えのある、懐かしい絵柄。描きかけの、途中まで色を付けられた、リスと魔法使いの男の子。

 その線を指でなぞる。ぱた、ぱた、と大きな涙の粒がスケッチブックに落ちた。

 見つけた。やっと、会えた。ここにいたんだね。あなただったんだね。子供だった私に、夢を与えてくれた人。魔法を信じる気持ちを教えてくれた人。大切な気持ちを、教えてくれた人は。

 夢見る気持ちは、みんなみんな、あなたが教えてくれた。

 急に、出窓からカタンと音がした。びくっとして目をやると、

「珪樹さん……!?」

 開かれた窓から入ってきた風で揺れているカーテンの間で、今まさに、窓から部屋に入ってきました、という体勢で出窓に手と足をついている珪樹さんが、あっけにとられた顔で私を見ている。

「何で、オマエ……!?」

「い、今、窓から入ってきたんですか?」

 片膝をついた体勢のまま、しまった、という顔をしたあと、慣れたように軽々と部屋に着地した。

「いや、気のせいだから」

 いや、どう見ても気のせいじゃないです、明らかに窓が開いてますから!

「そんなことより、何でオマエ、ここに入れたんだ?」

 珪樹さんの言葉にびくっと肩が震えたけれど、その口調は怒っているというより、ただ疑問を感じているみたいだった。

「すみません! 鍵が開いていたから、勝手に入ってしまって」

「鍵? ああ、もしかして、あいつか……」

 一瞬不思議そうな顔をしたあと、忌々しそうな表情に変わる。

「僕は、驚くようなことには耐性があると思っていたけど、オマエのはそれを越えるよ」

 呆れたような、諦めたような口調。

「ごめんなさい……怒っていますか?」

「怒ってないよ。もう、オマエの突飛な行動には慣れた」

 ため息をついたあとの、ちょっと困ったような笑顔を見たら、胸が勝手にきゅん、と震えてしまう。

 どうしよう。自分の気持ちを自覚してしまったら、側にいるだけでドキドキが止まらない。

「どうしたの」

 自分のものじゃなくなったみたいに早いビートを打つ心臓を押さえ、ぎゅっと目をつぶると、心配そうに眉根を寄せた珪樹さんが私に近付く。

「なんで泣いて、……っ!?」

 私の指がスケッチブックに触れていることに気付き、珪樹さんが声をつまらせた。

「こんな形で分かっちゃうとは、予想していなかったよ……」

 私から目を逸らし、知られたくない部分を見られてしまったかのように苦々しげにつぶやく。そうして、開き直ったかのように私を睨み、勝気な笑みを口の端に浮かべる。

「そうだよ。自分で描いた絵本の真似事がしたかっただけ。オマエをそれに振り回しただけだ。僕は、オマエが憧れているような優しい魔法使いの少年とは違う。一緒にいて分かっただろ? 帰りな、早く」

 最後の部分だけは、吐き捨てるような口調で。こんなに余裕のない様子の珪樹さんは、今まで見たことがない。この絵本が、珪樹さんのサンクチュアリだったの? 触れられないように大切に守ってきた、一番柔らかい部分なの?

 見え隠れしてきたあなたの優しさが、この宝石箱に詰まってる。閉じ込めて、窮屈にしているのは、きっと珪樹さん自身。

「……帰りません」

「え?」

「道標は、小鳥が食べちゃったから、帰れません!」

 臆病な気持ちも、昨日までの自分も、ぜんぶ置いてきたから。あなたが私にくれた中で、一番大きなびっくり箱を開けるために。

「は……!?」

 張り詰めた空気を切り裂くかのように、珪樹さんの肩の上で、それまでおとなしくしていたビスくんが、急にテーブルの上に降り立った。

 障害物を避けながらテーブルの上を走り、ソーサーに載せられたティーカップの前まで来たあと……、その中に、ざぶんと飛び込んだ!

 ええーっ? ティーカップの中は、ふわふわのシャボン玉で白く泡立っている。

「えっ、ええっ、カプチーノ!?」

 ビスくんは、ティーカップの中から顔だけ出して泳いでいる。

「……それ、泡風呂。ビスの日課なんだ……」

 珪樹さん、ハーッと息をついて額を押さえながら、力なく説明した。

 ティーカップの泡風呂! なんだか感動!

「ビスくん、綺麗好きなんだね!」

「オマエ、何でここに来たの?」

 しばし、夢中になってビスくんを眺める私に、呆れたように珪樹さんが尋ねる。

「あ! ……ああーっ!?」

 そう言われてやっと、自分が作ったケーキのことを思い出した。

 しゃがみ込んで、落とした箱の中を見ると、そこには案の定、雪崩を起こしたクリームのゲレンデが……。スポンジも崩れちゃっていて、うう、こんなの珪樹さんに、見せられない……。

「ほんとに何しに来たの……」

 がっくりとうなだれる私の背中に降ってくる、完全に呆れた声。おっしゃる通りです。すみません……。

「何、ちょっと見せて」

「だだだだめだめーっ!!」

 覗き込もうとする珪樹さんを、顔が真っ赤になるのを感じながら必死で止める。本当に、何しに来たんだろ、私。

「うぅ……」

 あ、なんか、感情が昂って、涙がよけい……。

「何も、泣くこと……」

 ため息をつきながら、隣に腰を下ろした珪樹さんが、そう言いかけて息を呑む。

「うん、だいたい分かった。オマエのやりそうなことは」

 そして、ためらいなく指をケーキに伸ばして、クリームを掬う。その指を口に含んだあと、

「……美味しいよ」

 心臓をぎゅうって掴まれたみたいに苦しくなった。優しくないなんて、嘘だよ。珪樹さんは自分のこと、なんにも分かってないよ。

 もう、心が決壊しそう。この気持ちを伝えなかったら、いま、伝えなかったら、私の心がもう持たない。

「……きです」

 床に置かれたその手に、私の手を重ねる。

「え?」

 きゅ、と力を入れて握ると、珪樹さんの細い指が驚いたようにぴくりと動く。

 初めてかな。自分からあなたに触れたのは。直接あなたの体温を感じたのは。この手のあたたかさは、魔法では感じられないものだよ。

 魔法使いじゃなくてもかまわない。あなただけの魔法が使える、この手が欲しいの。魔法よりもたくさんの気持ちを教えてくれる、誰よりも優しくてあたたかい、あなたの手が欲しいの。

「珪樹さんが、好きです」

「……っ!」

 驚きで大きく見開かれた瞳は、光を反射して、いつもよりも色が薄いように見えた。瞬き一度の間にその色が戸惑いに変わる。瞳の膜に映った私の姿は揺れていた。

「お願いします、珪樹さんの答えがダメでもかまわない。でも、聞いてください。分かって欲しいんです」

 受け取ってもらえなくてもかまわない、でも、否定はしないで。

 私の手も、細かく震えているよ。こわいの? 珪樹さんも、同じなのかな。

「分からなかったのは、初めての気持ちだったから。それが、初めての恋だったから」

 それはあまりに突然で、何の前触れもなく私の心に入ってきたから。

「私は初めて会った時から、きっとあなたに恋してた。……ううん、もっと昔、小さい頃から、私はあなたの欠片に触れていた。絵本の中の男の子に憧れていた」

 今までなかったのが不思議なくらい、珪樹さんに出会ってからは、私の心には珪樹さんしかいなかった。

「私は、珪樹さんといる間、魔法を見ていたわけじゃない。“あなた”を見ていたんです」

 最初は、あなたの本当の一面を知りたいと願っていた。どっちが本当の珪樹さんなのか分からなかったから。でも、そうじゃなかった。

「天使だって悪魔だってかまわない。優しくたって、意地悪だって、全部が珪樹さんなら、私は珪樹さんの全てが好きです」

 どれもが本当のあなただったから。そのどれもが、私をドキドキさせてしまうものだったから。

「珪樹さんは、私の憧れていた絵本の中の男の子、そのものでした。魔法使いじゃなくたって、私はずっと、珪樹さんの魔法にかかっていた。あなたは私だけの、魔法使いだったから」

 どんなふうに出会っても、私はきっと、あなたを好きになっていた。あなたを知れば知るほど、こんなにも、こんなにも……。

「珪樹さんが、大好き」

 こんな時、本当に魔法があったらいいのにと思ってしまう。世界中の言葉を集めても、珪樹さんに全部伝えられる自信がないよ。

 一日中話しても終わらないくらい、あなたのことが、好きで、好きで、好きで、大好きなの。

 ふいに手のひらが握り返され、今までで一番、静かで優しい珪樹さんの声が響いた。

「本当に……どうしてオマエはいつも突然に、壁を飛び越えてくるの。どうしてそんなに簡単に、僕の予想の上をいくの」

「けい、き、さん……?」

 どうしてそんなに、泣き出しそうな笑顔なの? どうしてそんなに切なそうなまなざしで、私を見つめるの?

「最初もそうだった。僕が十年前に描いた絵本を覚えている人間なんて、いないと思っていたのに……」

 珪樹さんがどんな思いであの絵本を書いたのか、今なら分かる。

 どんなに意地悪なことを言っても、珪樹さんの中身は誰よりも繊細で、天使だということも。

「純粋に魔法を信じている人間が、この世界中にどれだけいると思う? 子供の頃の気持ちなんて、みんな忘れていくんだ。そして思い出しもしなくなる。自分も大人になるにつれて、だんだんそれが分かってきたんだ……。だからいいと思っていた。絵本を描くのなんてやめて、ケーキで人を幸せにできれば、それで。そこに魔法を感じてくれる人がいなくても」

 そんなことないよ。そんなの嘘だよ。自分の絵本が、魔法が、だんだん忘れられていくことが、どれだけ寂しかったのだろう。

「でも本当は、ずっと待っていたのかもしれない。信じていたのかもしれない。自分の魔法を信じてくれる誰かを」

 いつの間にか、手を握ったまま、珪樹さんと向き合うような体勢になっていて、近く、近くから響く声は、切なさと甘さを伴っていて、私はまた泣き出しそうになる。

「一番信じていなかったのは、僕かもしれないな。オマエの気持ちがまっすぐすぎたから、信じられなかった。一時の気の迷いだと思っていたんだ。いつか夢から覚めるだろう、醒めたら終わりだろうと思っていた。僕はきっと、オマエを試していたんだ。満月の夜も、真実を打ち明けた日も。……でも」

 ぎゅ、と強く手が握られて、珪樹さんの潤んだ瞳が、まっすぐに私を見つめる。綺麗すぎるあなたの瞳に囚われて、逃れられない。

 近くで見る珪樹さんの髪も、瞳も、唇も、芸術作品のように綺麗で、私は呼吸するのも忘れていた。

「いつだってオマエのまっすぐさは、こんなに軽々と、僕を飛び越えていくんだ」

 どき、どきと、胸が激しく高鳴る。触れ合った手からさえ、あなたの鼓動を感じる。

「惹かれていたのを認めたくなかったのは、また失うのが怖かったからかもしれないな」

 自嘲するように微笑み、もう片方の手が私の前髪に触れる。

 体が縛られたみたいに動けない。優しく梳くように触れる珪樹さんの手に、髪の先まで神経が通っているように痺れてしまう。

「僕があの時なくした気持ちを持っている、オマエが好きだよ」

 これは、夢?

 瞬きするのも忘れた瞳から、涙が溢れるのを止められないよ。

「どうしてくれるの。ブレーキが外れたら、愛しい気持ちが止まらないじゃないか……」

 そう言って切ないまなざしで、私の髪を撫でる。

「けいきさ……」

「何でそんなにずっと、驚いた顔しているの」

「……夢じゃ、ないんですか?」

「オマエから扉を開けたのに、何言ってるの? ……夢じゃないよ」

 夢じゃないなら。私は一生、現実以上に幸せな夢は、見られそうにないよ。

 初めて魔法の扉を叩いたのは、あなたに初めて出会ったあの日。扉の鍵を手に入れたのは、満月のあの夜。でも、目を凝らしても凝らしても、鍵穴が見えなかった。開かない扉の前で、途方に暮れたり、涙を堪えたりしたけれど。

 でもやっと今、見えなかった鍵穴が開いたの。鍵穴は、誰かが隠していたんじゃない。私がずっと、持っていたの。

 扉の向こうの魔法使いに会うために、夢と、不思議と、メルヘンを、ずっと心の中に持っていたの。

「ねえ、ケーキ作ってきたんでしょ? 食べていい?」

「だ、だめです。崩れちゃったから」

 瞬間、珪樹さんの目の色が変わる。

「僕が、ケーキを粗末にするのを許すとでも思っているの……?」

 今なら黒魔術が発動してもおかしくない、と思うほどの黒い微笑み。夢見心地になっていたら、たちまちくるりとひっくり返る、二重人格。

 珪樹さんのスイッチの切り替えに、慣れる日は来るのでしょうか。でも、そのほうが楽しい、なんて思ってしまう私は、おかしいのかなぁ?

「ど、どうぞ」

 おずおずと、開いてしまっているケーキの箱を差し出す。

「えと、フォーク、取ってきましょうか?」

「いいよ、これで」

「え、えっ、えっ!?」

 ぐいっと手を掴まれ、指でクリームを掬われる。クリームの冷たく柔らかい感触が指先に伝わる。

 そしてそのまま、私の指を、薔薇のような唇が舐め取った。

 クリームの感触から一変した、珪樹さんの唇の感触と、熱い舌の動きを指先に感じて、びりびりするような感覚が全身に回る。

 世界中のどのお砂糖よりも、甘い、甘い、痺れ。このお砂糖は、猛毒?

「……目だけじゃなくて、顔も真っ赤。ウサギじゃなくて、茹でダコになりたいの?」

「ひ、ひど……」

 恥ずかしさで顔がカーッとなったまま、目の前の珪樹さんが涙で潤む。

「……ごめん」

 呟くような声が響いたと思ったら、私は珪樹さんの腕に抱きしめられていた。

「オマエがあんまり、馬鹿みたいに可愛いから、どうしたらいいか分からなくなる」

 あたたかく、湿った吐息が顔に触れる。

 耳元で囁かれる、色っぽく掠れたような声に、ドキドキが止まらない。

 初めて包まれる、珪樹さんの体温。あたたくて、ドキドキするのに、天国にいるみたいに夢見心地で、離れたく、ないよ……。

 華奢だと思っていたのに、珪樹さんの腕も、胸も、私なんてすっぽり納まってしまうくらい大きくて……。

 こんなに安心できる場所は、きっと世界中探しても、どこにもない。

 夢なら醒めないで。魔法なら解けないで。どちらでもないなら、ねえ、ずっと、離さないでいて。

 ふいに、珪樹さんが尋ねた。

「ねえ。〈Ange〉の意味、知ってる?」

「? いえ」

 私と同じ響きを持つ、お店の名前。もしかしてそれは、必然だったのかな。

「フランス語で、“天使”って言うんだよ。……杏樹」

 どんな魔法の言葉よりも素敵な、天使の祝福よりも聞きたかった、私の名前を呼ぶ声のあと。

 珪樹さんと私の唇が、そっと、優しく、重なった――。


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